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……そろそろ、寒さにも慣れてきた頃だった。
初めてこの地に降りた時、あぁ、これは今までに経験したことの無い苦行だと感じたものだ。
漠然、呆然とした真っ白な荒野。虚無や脱力感と共に、自分が如何に怠惰であったかと身に染みるような、厳しい寒さ。
今ではその感覚を“当時”と言える。
高台からふと地を見下ろし、ふぅと吐く一息が白い。
荒野という表現で片付くのかもしれないが、木々のさざめきや鳥の声…羽音までもが聞こえる神聖な空気。
ここは、風の噂程度、誰からともなく耳にした場所だ。
…地に還る、無に還るとは存外この事かもしれないなと、外れなりにも聖職に就いていた頃を思い出す。
弘法大師も「即身成仏」の教えを解いた。
そこは伝え聞いた通り、本当にひっそりとしていて、木々に弾痕が残っていない場所だった。
敢えて立てたのであろう小さな石のあたりに僅かばかりの花がちらほらと置いてある。知らなければ気にも掛からず目にも入らない、通り過ぎてしまいそうな質素さ。
まだまだこれからだったのかもしれないし、もう終わりだと悟ったのかはわからない。
ここで静かに眠る男は、京では鬼と呼ばれた人物で、自分で知り得る数少ない人脈のうち唯一、出会った当初の目的を果たした男だ。
ただ、今は花も香も持ち合わせていない。線香代わりでは無いが…と、空のスミスアンドウェッソンを供える。開陽丸を引き上げた際、大量に見つかった。きっと、馴染みのある品だろう。
それでいい。
合掌し般若心経を心で唱える。
夢、叶えたんだなぁ…。
悪い、今も俺は何も無いただの男だ。
そして今日、あらかた片付いた。この地を去り東京府…あんたには江戸と言った方が恐らくはピンとくるかもしれない。
そちらに向かうことになったよ。
本当はこうして手を合わせているのも、皮肉だと思うかもしれないが…。
後説を唱え、さあ行くか…と朱鷺貴は立ち上がり気付いた。石の後ろにひっそりと、何か棒のようなものが立て掛けてある。
雪で埋もれそうなそれを手にすると…見覚えがあるもの。
卒塔婆のように立てられたそれは、卒塔婆にするには少々、洒落た鉄扇だった。
…そうか。
鉄扇を内ポケットにしまい、山を降りる。
山にでも海風が靡く。あんたとはもう二度と会うことがない。
結構歩んできた、もう少し歩くのだろう。この跡地はわりと広い。
北海道開拓はまだ、始まったばかり。
明治6年初頭。京を出てから何年経つか。
変革前に知り合ってきた者たちの殆どは現在所在が不明、もしくは亡くなったと聞く。なんせ、当時の日本は荒れていた。
現代語で言うなら幕府派…より、反幕府派の知り合い…面識がある者として、池田屋から姿を消した桂小五郎、現木戸孝允がいる。
なんの運か、木戸とはこちらに来てから少々やりとりをした。
去年、朱鷺貴の上司となった元薩摩藩士、黒田清隆という男と木戸には、当時の因縁が未だある。
別に言うことでもないだろうと、木戸のことを黒田に言わなかったが、いつの間にか自分が木戸と面識があると知れたようだ。
それから黒田はやけに、朱鷺貴を自分の仕事へ介入させるようになった。
今ではすっかりと「南條朱鷺貴は薩摩派である」という空気が出来上がってしまった。
現在、大揉めだ。正直自分もこの地で暗殺でもされるのではないかという程の。
黒田の開拓長官就任と共に、同僚となった榎本武揚という男もいる。
黒田が引っ張り入れた人物なのだが、木戸を含めた長州派のお偉いさんは、榎本への当たりが強い。
榎本は当時この地を「蝦夷共和国」と呼び篭城した幕府軍の総代とされ、最近まで謹慎中だったのだと聞く。
「箱館戦争を終わらせてくれた勇敢な男だ」
と言うのが黒田の主張。
榎本は戊辰戦争の最終日、自ら白旗を持ち黒田の前に現れたのだそうだ。
今や逆賊へと転落した榎本に、黒田が特令を出し部下にしてしまったという訳で…。
黒田は酒乱でタチが悪い。
こうして突拍子もなく面倒事を起こしまくる人物であり、常に酔ってるのではないかという程の暴論をかましまくる。
長州派が絡む案件には露骨な態度を取り、法案や確執、とにかく職場の調和を緩和することもなく仕事を強行突破することもしばしば。
政府は、廃藩置県の後始末として、江戸時代に違反も蔓延った「田畠永代売買禁止令」の廃止を行った。
一応、黒田と榎本が来た理由は新たな処置として置かれた「地租改正案」というものの為だ。
今、この最北の土地では、そういった本土の土地を把握しきれないまま新開拓されている。
開拓使として派遣されたはずの榎本は現在、主に石ころの研究をしている。
本来の目的である農地開拓、土地活用という名目に甘んじた見せしめのような事態。
黒田がこうして法案を曲解し無理に開拓を押し進める理由は、案だけを置き海外回遊に向かってしまった長州派への反発が大きいのだろう。
事実、「留守政府」と揶揄され対応に追われているのは薩摩派ばかりだ。
…もう二人で埋蔵金かなんかでも掘り当てればいいよ、と、朱鷺貴は呆れ果てていた。
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