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門の3歩手前で西郷の付き人がふっと手を出し歩みを止め、はっとした。
振り向き付き人を見ればただただ目を合わせるのみ。
何故気付かなかったか、この、土の匂いと古い…錆び、血の匂いに。
歩みを止め横目でこちらを眺める藤嶋に「…誰かおります、」と伝えれば、相手方も気付いたらしい。
ふらっと前に現れたボロの浪人…誰だか気付いた瞬間、ゾッとした。
出会った頃より遥かに痩せているし…どうも、正気の目をしていない。
「岡田さん、」と翡翠が呼ぶと同時に彼は、覇気も造作もなくふらっと刀を抜いた。
「…さいごう、ふじしま」
まるで譫言のように言う岡田にもう一度、「岡田さん!」と呼び掛ける。
彼は上の空で「なんじゃおんしゃあ」と呟く。
よもや、正気ではない…。
「薬漬けになっちまったか」
藤嶋が呟くのは悪手だった。
ころっと怒りの表情に変わった岡田は「藤嶋ぁっ!」と叫び刀を構える、翡翠は反射的に苦無を抜き、そこに飛び込んでいた。
…やはり腕が鈍っている。
だが懐に入ればこちらが優性だ、しかし殺すわけにもいかないと、苦無で刀身を抑えるのみ。
間近で見れば刃溢ればかりの刀。身長や力量的にも同等、刀が割れてくれれば幸いと苦無をもう一本取ろうかとしたが、岡田は舌打ちをし更に力を掛けてくる。
一度刀を押し払う。
彼は低い声で「邪魔すんなや、」と吠えた。
「…岡田さん、」
「なん、」
「…よもや覚えていないのですか、」
「はぁ?」
少し、考える間があったような気がしたが、「無駄だ翡翠」と、あろうことか当の藤嶋が歩んでくるではないか。
「…藤嶋宮治、」
「おぅよう、随分酷い様だな。飼い主はどうした」
「…ぅうるさい、貴様のせいで容堂が、武市さんが、」
「藤嶋さん下がってください、」
「何を言っている。俺が突破しなけりゃ西郷も殺されるぞ」
「……っ!」
払われた刀には目もくれず、岡田が脇差しを抜きふっと降ろして来たのを避けたが、短刀同士の接近線だ、肩あたりの着物がサクッと斬れる。
「…確かに、おいどんはこげなところで死ぬわけには」
「西郷っ!」
吠える岡田に「岡田以蔵、」と冷静に呼ぶのは伊東だった。
「新撰組参謀、伊東甲子太郎だ。お前は指名手配を」
「バカだなお前、黙って」
「新撰組…?」
場が張り詰める。
そこにふっと溜め息を吐いた、唯一焦りもしない標的は「参謀、じゃあ脇差しを貸せ」と手を出し、更には「西郷、お前はさっさと行け」と追い払うように指示をした。
「…………!?」
訳もわからなそうに岡田がポカンとした隙に最早待てないと、藤嶋は伊東の脇差しを勝手に抜いた。
「は!?」と驚いている伊東に「お前はどちらに着くのか」と、藤嶋は淡々と言い放つ。
西郷がバツも悪そうに去る足音がする。それにまた「西郷っ!」と叫ぶ岡田の様は、どうにも…と、翡翠にはいたたまれなくなった。
「陰陽五行思想の話をしようか」
吐息を吸う所作も、こんな時までもどこか、この男は姿勢がよい。
更にポカンとする岡田に対峙した藤嶋はふと笑い、「まだ声は聞こえるようだな」と、確信したように言った。
「勝海舟の護衛を任せただけはある。だが、刃溢れが酷い。お前はどうやらまだ、人神なようだぞ岡田以蔵。
水戸学を学んだのならお前にも丁度良いなぁ、参謀よ」
黙り、少し肩を落とした岡田を「では、」と捕らえようとする空気も読まない伊東に「後に刀は返しに行かせようか?」と、藤嶋が遠回しに黙らせる。
たったそれだけでその場を制してしまった。
やり場もなくなった伊東は返事もせずに腕を組み、門へ寄り掛かる。
翡翠は初めて、この男の纏う空気の意味を実感したような気がした。
この男は最早、己以外に何も、信用や…感情すらも持っていないのかもしれない。
「神道は仏教と違い戒律がない。だが、そうだな、禁教であるキリストの最期は多いに広まっている。いま、この世がこうもなっているのはその影響があるだろう」
一体何を言い出すのか…。
「神、というものはそもそも、存在するもの全てを指す、というのが神道の根幹だ。お前のその折れた刀にも存在しお前にも存在する。
しかし漠然としているようで、そうでもない。世の中の説明が付かないことを理論的に考えようとした考えのひとつ、いや、正確には木・火・土・金・水、陰と陽という二つの考え方を組み合わせた物の捉えを陰陽五行思想と呼ぶ。これは、清国の教えを日本人が解釈したものだ。
水は火に、火は金に、金は木に、木は土に、土は水に影響を与えるという関係性が五行相剋。
それぞれのバランス…均等的に取り繕うために水辺で政を行う風習があるんだよ」
ちらっ振り向いた藤嶋は「どうだ、新鮮だろ?」と面白そう、子供のような表情で言う。
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