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 静かに、外野の煩雑さが流れるベッドの上で彼女はタバコを噛みながらさらりと言った、「たまにどうかなって日もあるけどね」と。

「今日は楽しかったよ。シャワーでも浴びてきなさい。またね」

 彼女は20も歳上の人妻だ。

 生々しい、しなやかな背中と乱れた長い髪がベッドに雪崩れている。
 俺は彼女に「うん、また」とキスをして、部屋にもならない空間から立ち去る。キス上手よね、という呟きを背中で聞いて。

 薄暗いスペース、まだ夜も中盤で獣たちの唸りがそこかしこから聞こえてくる。
 ここはまるで動物園だ。開放的なその場所も実は檻だと、賢い動物たちはわかっている。
 それは、好んで自らここへ来ているのだ。

 この、閉鎖的で自由な空間は愛しいというほどではないが結構好きだ。ここでは誰も何も否定、抑圧をしない。

 俺が初恋をした場所はそんな夜の一端だった。

 シャワールームの靄の中、冷えた頭にぼんやりとしている。

 そんな場所で唯一、「………、して」と、音で掻き消されそうな低い囁きが耳に入った。
 気のせいかもしれないと奥のシャワーブースに向かっていたのだけど。

「…ね、ほ…綺麗になった」

 …聞き覚えが、あるような。

 はっきりしたすぐ側の、扉しかないシャワーブースをチラ見すれば光に一瞬、目が慣れなかったけれどやっぱり、マリコさんの旦那が壁に向かって話しかけていた。
 それはつまり、壁じゃない。

 旦那、タカシさんは顔を横に反らし、壁に押さえ付けた人物の首筋を舐めずっている。
 その人物が何性かという判断に「あぁ、タカシさんだしな」と少し間が掛かる。

 それにしては、綺麗な顔をしている。でも、ここにはそういうのも確かにいるんだ、けど…。

 見たことない顔……。
 伏し目がちでどんな気持ちを映しているか、表情がよくわからない。それは、大抵目の色で見るものだから。

 …てゆうか、またやってるな、あの人。
 嫌がっているなら、止めに入るべきなんだろうが…。

「………なんだって?」

 唇を見てもよくわからない。
 されるがままのそいつは伏し目でタカシさんを捉え、赤らんだ顔で頷いた。

「…緊張してるね?」

 タカシさんは蠢くようにその首筋の髪まで食うようで。まるでキリンみたいだと思った。

 扉で見えないが、恐らく胸を弄っているそのタカシさんの左手が下へ伸びたとき、その彼が少しビクッとしたのが見て取れる。
 少し開いた口から小さな喘ぎが聞こえてきそうなそれ。

「……で、どう?」

 何がどうかはわからないが、「俺は見られるの、好きなんだけど…」と、タカシさんが遠慮がちなくせにどうしようもないことをはっきりと言っているのは聞こえてくる。

 首筋から顔を離したタカシさんの表情は、これは確信したのだろうかと俺は読んだ、そしてヒヤヒヤした。

「あっちは、いや?」

 見えない左手の動きが少し激しくなり、「ねぇ、」とねっとり言って、タカシさんはしゃがんだ。
 ずるずる音がした。それを眺める俯いた表情は戸惑ったような、うぶな反応の眉が微かに寄る。

 首筋を晒すように反らす、苦しそうなような。おかげで相手の顔はよくわかったし性別もはっきりした。やはり男だ。

 反らしたせいでタカシさんの顔が重なった。
 なんと話しているのか、「払うからさ、」だけがわかる。

 もしかしてやらかそうとしてないかと、流石に止めようかと思ったが、それは本能に冷えている。
 角度が変えられタカシさんの唇に吸い付いて答えるその男に……あ、勃起した。

 とわかって、それどころじゃないなと、目についた空きブースに入り、てゆうか俺、あんだけ激しくヤった後なのにどういうことだ。流石にもう無理だと思ってたけど…。
 てか、何見てんだ俺は全く。

 背徳感は慣れている、が、また違う質…新鮮だ。

 あの顔が印象的だった、そしてやっぱり無理に近かった。時間を掛けて抜けたはいいが痛い。

 …別に、オーナーにチクろうとは思わないが、後味が何故か悪い…。

 どこかのシャワーブースの開閉音まで考えた。狭いよなぁ、ここ。よくやるよフォーティーン。確かにここじゃ無理だ。

 頭も身体も何もかもを空っぽにしてシャワー室を出る。

 体温が思ったより上昇していたのかもしれない。

 さっきまでいたベッドルームとバーカウンターを確認した。マリコさんはカウンターでケータイを弄っている。

「マリコさん」
「あー、あっちゃん!お疲れ様。私ももう帰るー!」
「お疲れ様でした、楽しかったです。
 …タカシさんは?」
「あーうん帰ったみたい。ごめんね〜、伝えとくー」
「あ、いえ…」

 マジでやらかしてたりしてなぁ。
 悪い人じゃないんだけども。

 タバコを一本吸った。

「じゃ、また…」

 バイバーイと、ケータイを弄りこちらを見ずに手を振るマリコさんに挨拶をして、店を出た。

 …全部空っぽ。
 空には月も星も何もない。外はいつも通り。

 今頃タカシさんはまだまだお楽しみ中だろうか。

 本当にそうだったらでも、逆に店にとって太客とかになるのかな…。
 摘発されちゃったりしてな。

 まぁ、相手も満更でもなさそうだったけど。摘発されるならその前には足を洗わないとな…流石に。

 通知。今日は新月。

 他人のことに干渉しては良くない、と切り替え、その日はそのまま電車で家に帰った。

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