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 翌朝、葵は登校してこなかった。

 洸太の頭には昨夜の光景が繰り返し駆け巡り、気持ちが窮屈で仕方ない。授業など全く頭に入らないままぼんやりとペンをまわす。

 2限目ともなれば頭は冴えてくる。あれは一体なんだったのかと。思い浮かぶ沢山の良くない言葉はぐるぐると頭で溶け、突っ伏した。

 教員のお経のような授業に頭が微睡んできた最中、ふわっと、香水か何かの匂いが鼻腔を掠める。隣に人が来た雰囲気。
 鞄を横のフックに掛けた音に、ハッとして隣を見上げた。

 ぼんやりと眺めるいつも通りな日常のはずなのに。薄笑いの葵が洸太を見下ろし「おはよ」と言ってきた。

「あれ、久瀬か?具合は大丈夫なのか?」

 教員の問いに前を見て「はい、なんとか」と答えた葵の首筋。その張りすらも、妙に優美に見える。

「そうか、ムリすんなよ。153ページな」

 教員も普通で、また読経が再開された。

 葵は着席し当たり前に国語の教科書を開いたが、そこに突っ伏し目線を合わせてきた。
 その腕の中に隠された口元は見えないが、頬の上がり方、目の細め方で、なんとなく笑っているのがわかる。

 くぐもった声の「昨日はごめんね、ありがとう」に少し、煽りというか試しというか、そんな嘲笑に似た物を感じるのは何故か。

 特に返す事柄もないし、何より顔を合わせにくい。
 また突っ伏して「ん」と、洸太の声は更にくぐもった。

 すっと、恐らく久瀬は普通に起き、カシャカシャとシャーペンを押した音がする。
 たったそれだけの動作でまたふわっと…風呂上がりか何かの匂いがするのも、久瀬葵という人物には、納得かもしれない。いままで感じたことは無かったけれども。

 何故だか理由はわからない。だからきっとこの、劣等感に似た…申し訳ない気持ちのようなものに多分、特別な理由はない。

 お経と、久瀬がノートを版書する音が耳に入る。

 昨夜のビジョンが鮮明に頭を掠め…洸太は少し顔をずらし下を見た。やはり簡単に勃起をしている。

 居たたまれなく取り繕うような気持ちで「具合、ダイジョブなん?」と聞いてしまった瞬間、やってしまった、とハッとし久瀬の方を見ると、彼はすりすりと足を擦りつけニヤッと笑い「うん」と嬉しそうに答えた。

 …なんだかなぁ……。

 …少し、顔とか赤いような気がしなくもないんだけど、まぁ、あまりこいつを知らない…し。

 誤魔化すように話題を探す。
 ………1限のノート!

 洸太は机からノートを探し当て「1限の」とぶっきらぼうに渡せば「ん?ありがとう」と久瀬はそれを受け取った。

 たったそれだけで、また黒板を見て版書をしている。

 自分もやるか…と、テキトーに黒板を書き写す間、どうしても隣が気になる。
 どうやら久瀬はぼーっと、手が動かない瞬間もあるようだ。

 ふと、洸太が渡したノートを開く姿は少し…無理に勉強をしているように見えるのだが、パラッと開いたページを見て「あ、」と呟いた。

「……わかりやすい」

 それはほんの小さな囁きで終わったようだが、そうだ。

 昨日の帰りにまた文房具屋へ寄り、黄色いボールペンを買ってみた。
 今までずっと、6色ボールペンを使い分けていたが、青いボールペンを買ったわけだしと、赤はそのまま、黄色は丸で囲んでみたりしたのは…何故か。

 あれからずっと久瀬のことを考えているからだ。6色もいらない。緑なんて自分ですら使い道がわからないし。

 久瀬はそれからどうやら結構真剣に、前の時間のノートを写すことにしたようだ。

 ちらちらと久瀬の手元を覗いていれば、ちゃんと意図は伝わったらしい。久瀬は上手く赤、青、黄色を使い分けて写していた。

 授業も終わりそうな頃、ふっと黒板を見た久瀬は目を細め、少し眉間に皺を寄せていた。
 …特に、赤と黄色しかないものだけど、「波線が赤」と助言すればこちらを見てきた。

「…悪ぃ。昨日たまたまノート、見えたんだ」

 白状したが「そっか」と素っ気ない。

 そのツンとした態度に、やはり、昨日の放課後はやりすぎたなと「ごめん」と自然に謝っていた。

「別に…」

 久瀬はそっぽを向いて、「ありがと、終わった」とノートを返してきた。
 感謝とはまるで裏腹な感情のように見えた。

 …わからないけど。
 気分を害してしまったのか、そもそも具合はどうのか。

「たまに気持ち悪くなるんだ、似た色並べられると」

 ぽそりと言った一言を「…そうなんか」と拾ってやれば、久瀬はしっかりと目を合わせ「うん、たまにね」と少し笑う。

 …昨日買ったマーカーみたいなやつとか、同じような色がありすぎてわからなかったけどな。

 洸太を直視した久瀬は「やっぱ具合良くないや」と言うが、その仄かに笑っているのが、気に掛かる。
 もしかして、今の自分の行動は物凄く嫌味ったらしかったのかもしれない、とふと冴えるように過ったりした。

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