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「トシぃ、俺ぁ、もう…」
お二人で最後の酌を交わしていたあの日、局長はそれだけを仰り俯いただけだったそうです。そう、後に合流した際に私はあの御方から聞き及びました。
「私も共に往きます」
局長が降伏した甲州の地で私はあの御方にそう懇願を致しました。その私の我が儘に対しあの御方は「それも道理か」と、少しお疲れになったようにお応えくださいました。
しかし我々はその伏見の戦から、逆境を行く待遇にありました。
局長が捕縛され、看取ることは叶わず、結果それは板橋で無惨にも晒されていたことに、私には怒りよりも、苦しさ、辛さ、言葉では言い表せない感情が勝り、
「どうか私めをこの場で介錯してください」
言おう、言おうと頭を過ったのですが、局長の首を前にしたあの御方の背を前にした時、そのように甘き事を進言することすら憚られました。
私の盟友すら何か感慨深く、上司に掛ける言葉すらを呑み込んでは背を、焼き付けるように見つめるばかり。
「なぁ近藤さん」
語り掛けるあの御方の声は、そこまでは凛としていましたが、寄り、その首を両腕で抱え、暫し間を置き「腹ぁ、斬らしてはもらえなんだか」と、漏れ出るような、絞り出したような一言から、暫くそのままで。
局長の首を抱えたあの御方は、私達に言いました。
「墓ぁ、建ててやりてぇんだ」
と。
私はそれを聞き、あぁ、心中が私如きでは察せないと、盟友を見やれば深く彼に頷くばかりの様子でした。
内密でしたので場所は、会津としか語れません。何よりそれを語ることはあの御方や、行方分からぬその盟友の思いをも、陳腐にしてしまう気がするからです。
それから局長の戒名を松平容保公から私が頂戴しに伺い、会津に赴いた際にその墓に記しました。
あの御方はそれから私に、あれはそう、私達が会津へ向かう際に仰いました。
「生き残ると云うことは、残酷だが、誰かがいなければ無念が葬られるもんだ」
それに異論すら出来ないのは、いま私がこちらに参上していることに他成りません。
あの御方があの時に我々から離れ宇都宮に向かう際に、我々は「そういうことか」とその言葉を勝手に解釈し、先に会津で、よもや、来ぬ人を待つのかもしれないという気も致しました。
久方ぶりのような感情であのお御方と会津で合流した際には、私に微笑みのような、いや、もう少し暖まるような感情を滲ませ私めに役割をくれました。
大砲方下役
腹を斬らせぬおつもりだとか、そのように綺麗事では恐らくなかったのだと私は感じました。
単にもう、あの御方に再会した頃には、刀は意味を成さぬという、軍にも、時世にも諦めがあったように見受けられました。
なので私は、そうか何れの役割は、恐らく馬術の盟友よりも私なんだと、その時はぼんやりと汲み取ることしか出来ませんでした。
言い訳のように聞こえるかもしれませんがひとつ言うのなら、局長亡くしたあの時それでも、私を拾ったあの御方には温情と、そしてまた重要な役割を得たのだと感じました、誠に勝手な私情であります。
あの御方はそれからと云うもの、まるでその、生まれた地なのかあの地なのか計り知れませんが、西の方を見るかのように遠い目で、酒を少しばかり嗜むのでした。
昔の、京の地で鬼と呼ばれた頃を私も盟友もあまり知りません。
この例え話は私が知る、宇都宮辺りの頃ですが、それよりあの御方は遥かに落ち着き、と言うよりは覇気が薄れた状態で私達に語るのでした。
「俺達ぁ、ずっと、成りてぇもんなんざひとつだったんだよ」
彼らの生まれ育った場所から遠く離れた蝦夷の地は、春先で桜が散っても尚、寒さは残り、哀愁、よりも重きのある失落を残しておりました。
私如きには恐らく、あの時のあの御方の心中を察することなど出来はしていなかったのです。それを託した私の盟友ですら、きっとそうだったに違いありません。
あの御方はそれから私に一つの、書物のような物を渡して言いました。
「ここでは詠むな、少し、照れる」
それからを私が貴方様へ語るなどは、些かやはり少しの恐怖を抱えつつ、しかし最後の戦はやはり、貴方様へは語らねばならぬと思い、函館函館を脱出し一年は経った今、本日後れ馳せながら参上した所存であります。
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