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 露のおかげもあり、三日目には満足のいく仕上がりになった。
 あとはきちんと保管し、毎日音を鳴らして手に馴染む状態にしておこうと用意をしていたが。

 それから二日後の土砂降りの日。色羽は完全な旅支度…頭巾を被りまるで正体を隠すかのような出立ちで現れた。
 予定より早いし引渡しは出来るだけ湿気のない日が良いと考えていたけれど…。

 ……嫌な予感がする。

「こんな日にごめんなさいね」

 傘をさした色羽はふっとそれを閉じ、玄関に入ってくる。

 頭巾を外した色羽はその場に金一枚を出し「…ここに来たのは内緒でお願い」と言いつつ、同じく頭巾を被った婦人を見て「少しだけここで預かって」と言ってきた。

 「いや、こんなには…」と断るが、「お願い」と三味線を持つ。
 直した箇所の説明、音出しをする前だがふと、「…生まれ変わったのね」と色羽は言った。

「雨の日にごめんね、旦那」
「…えっと、皮を」

 「…弾きやすそう」と糸を外し撥ですっと皮を破き「行ってくる」とまた糸を戻し「旦那に頼んで、良かった」と切ない笑顔を向け出て行ってしまった。

 露が茶を出すより早い…まるで急いだ様子の色羽が置いて行った婦人を見ると…未亡人と聞いていたが予想より若い…まだ10代くらいの人だった。

 彼が出て行った扉を眺める婦人は「突然すみません…」と俯き、露が淹れた茶を一口飲み「はぁ…」と息を吐いた。

 ……これはきっと、身請けだとかいう雰囲気ではない。

「……お急ぎ、なんですかね…?」

 一言も喋らずただこちらを見る彼女の落ち着かない雰囲気に、あぁ、これは恐らく駆け落ちだと、ほぼ確信した。

「………」

 …言える言葉など、ない。
 駆け落ちだなんて……演芸作品ならば幸せな結末など、ない。

 足場も悪いこんな日なら…忙しさに乗じて町から少し離れる程度は出来るか。
 こんな日に三味線を持ち込もうなど、あの役者上がりの兄は考えないと思っているのだろうが…それが却って、わかりやすい。

「…半刻戻らなければ、私もここを発つようにと…」

 傘を見る。
 見覚えのあるような家紋が入っていた。

「こちらは、質屋から?」
「いえ…」
「小屋から持ってきたものですか?」
「いえ…。
 なんだか、傘二本と三味線…あとはお金をと言って今…」
「傘は確かに…三味線を預けた際に聞きましたが…」
「言ったことは守りたいと…だから私を今、ここに置いて行ったのだと思いますが、戻らなかった時のことを考えての金なんだそうです」
「…ウチは、質屋ではないので…」
「わかってます…なので、すみません」

 心配そうな彼女に「貴女は、武家の…?」とつい聞いたが「いえ、」とあっさり返ってきてしまい、言葉に詰まった。

「私は彼の帰りを、ずっと待っていたのです…」
「……そうですか」

 陰間修業に出ていたということは、宗家の出ではないのかもしれない。夢が叶わないとわかって、こうして人生を決めたのだろうけれど…。

 彼女がふと自分の腹に手を当てた。
 更に深刻だと理解する。あぁ、彼は規則を破ってこうしたのだ、と。

「露、白湯と…。
 雨の中お寒かったでしょう。綿入れか何か…」

 彼女は首を振り、彼が去った扉へ立ち、待つ。

 半刻かどうかはわからない。
 そろそろ、と思ったのだろう。婦人は傘を持ち「ありがとうござい…」と言った瞬間「あっ……」と、泥濘から足音が聞こえた。

 どうしてもというように外に出ようとした彼女にふっと手が伸び、「ユイ…」と、彼は彼女を抱きしめた。その手には二本の新しい傘が握られていて。

 こちらを見た彼は「旦那、ありがとう…」と切ない口調で言った。

「あそこの傘、変わってるけど頑丈で綺麗なんだ。
 旦那、ありがとう。その金は受け取って欲しい」
「色羽さん、」

 何を言おうかなんてわからない、わからないけれど「…お元気で」が一番無難な言葉だと、口に出していた。

「…旦那も露ちゃんも、元気でね」

 始めにさして来た傘を持った二人は、振り返ることもなく走り去って行く。

 玄関の側に置いていかれた傘の一本を開いて眺め…そんな時にふと、思い出した。
 あの傘に入っていた家紋は「市原」のものだった、と。

 「お元気で」と言った自分の言葉が、急に重くなった気がした。

 あの三味線を持って行ったことで、少しの目眩ましは出来るかもしれないが、兄には悪手だ。
 太夫宗家の家紋が入った傘を持った男が三味線を売りに来たとなれば、三味線を盗んだ者がいるかもしれないと…質屋と稽古場で連携を取るはずだ。

 ……なんの、因果かな。
 幸は、井戸の中で私を待っていたのだろうか。

「この傘は…暫くは持ち歩けないな」
「それは…」
「…こちらではあまり出回ってない型の傘だ。見つかれば、彼がここに立ち寄ったのだと知れてしまう」

 呉服屋の跡取りだった職人が下り者だろうというのは…あの反物で予想が付いていた。

「おとう、それは」
「露の言葉が身に染みたよ。これは、考え込まない方がいい」

 自分は、客が望むように仕事をしただけだ。

「近々、あの男が家に来るかもしれない。そちらの通りでも気を付けて。あくまで私は仕事をしただけだ、と」
「……わかった」
「その後なら大丈夫だと思う。この傘…久しぶりに見たな…京のを真似ている」

 ……もしも逃げおおせたとしても、彼らに会うことは一生ないのだろう。

 瓦版ではいつも、駆け落ちや心中事件が報じられている。
 中には捕まったり、川で見つかった者もいるらしい…。

 こんな事情が、大衆娯楽で流行る世の中。確かに街には出たくないなと、ぼんやり思った出来事だった。

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