01 藍を蒔く
これは私が、初めて彼の存在を認知したときの話です。
その日の5限目は、体育でした。
春らしい澄み切った青空に、どこからか柔らかいお花の香りが風にのって運ばれてきて…。
そんな気持ちの良い晴天の下、私たちは隣のクラスと合同で、女子は陸上、男子は野球をそれぞれすることになった。
「……いいなあ、由花子は脚長くて。」
「何よいきなり。今それどころじゃあないのよ」
短パンのジャージからスラリと伸びた白くて細い由花子の脚は、まさに美脚という言葉が合致するそれで、女でありながら惚れ惚れしてしまう。
なにやら彼女は最近、隣のクラスの男の子……えーと、名前はなんて言ったかな…。
確か…この街の地名と一緒で……
……ああ、そう思い出した…!
“広瀬くん”だ
彼に恋をしてしまったらしくて、いまもグランドの隅でキャッチボールしている彼をどこから持ってきたのか双眼鏡で観察している真っ最中…。
普通にしていれば学校で名を馳せる美人なのに、こんな言動が多いせいか、告白された、とか、彼氏ができた、といった浮いた話を聞いたことがない…
私が言えたことじゃないけれど、心配だなあ…。
「はあ……、今日も相変わらずかっこいいわ………」
「…………。………心配だなあ…。」
これが俗に言う、残念な美人と言う奴なんだろう…。
校庭に咲く桜と同じピンク色をしたオーラを撒き散らしながら、砂で汚れることも気にせず地面に這いつくばってる由花子を憐れみを込めた目で見つめた。
親友として、ここで注意してあげないと、そろそろ本気で警察沙汰になるんじゃあないかと思うけれど…。
由花子のその、キラキラと輝いている目。
それを見てしまったら、毎日毎日康一くんを追いかけて眺めていることが”ストーカー行為”であると指摘するのも難しいのだ
だって、とっても一生懸命だし…。
…そんな風に誰かを一途に想える、っていうのは、…ちょっぴり羨ましいもん…。
自然ともれた小さなため息。
自分にはまだ訪れたことのない感情に、思いを馳せて。
「…きゃあああああっ!?!?康一くん!!康一くんがこっちに近づいてくるわ!!無理!!無理無理無理!!!かくして!!!!」
「えっ、!?ちょっ、ちょっと、なにっ…?」
緩んでいた全身の筋肉が脳からの信号を受けて一気にきゅ、と引き締まった。
這いつくばっていた由花子が突然起き上がったせいで砂塵が宙を舞って煙たい。
何事かと私の背に隠れた彼女を見れば、その頬は桃色に染まっていて、ぎゅうと強く瞼を閉じているではないか。
前を向けば、由花子の愛しの彼が走ってきている
「……?」
………いやいや、なぜ私を盾に…?
広瀬くんのことが好きなら、むしろ話せるチャンスなんじゃないのかな…?
積極的なんだか消極的なんだか…。
恋なんてしたことないから由花子の行動の理由がさっぱりわからない…
乙女心はよくわからない、なんて男の子がいつも話しているけれど、まさにこういうことか…。
由花子を引き剥がすこともできないし…(というかさっきからすごい力で私の肩を掴んでる)、どうしたものかと困惑している間も、彼女をこんなことにさせたであろう張本人はこちらに向かってどんどん近づいてくる。
こ、困ったなあ…
私、広瀬くんと話したことないし…、由花子との仲介役なんて無理だよ…。
そもそも何の用だろう?
「…〜い!!に、…てー!!!」
「?」
鬼気迫る表情の小柄な少年に首を傾げる
なんだろう、なにか叫んでる…?
「逃げてーーーーー!!!!!」
「…にげて?」
ようやく聞こえたその言葉の意味が分からず、しばしの間ただぼう、と広瀬くんのことを眺めていれば、何かが急速に近づいてくるのが視界の端に見えて
「あ」
頭上を見上げたころに自分が置かれた状況をようやっと理解した。
けれど、時すでに遅し。
私にそれを避けることができる身体能力など備わっているわけもなく…。
反射的に降ってくるそれから頭を守るために、腕で庇うことが精一杯だった
「………い、いた、い…」
気が付くと勝手にポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
おまけに鼻水まで出てる。
痛さで泣いたのなんて小学生以来だなあ、なんて冷静な思考が頭の片隅で働いてるけれど、やっぱり痛いものは痛くて。こんな激痛、生まれて初めてかも知れない…ううん、大げさとかじゃあなくて…、本当に…。
「あーあー、こりゃ折れてるな。骨折骨折〜。さっさと保健室いけ〜。」
気だるそうにそう言いながら、先生はバシバシと容赦なく私の腕を叩く。
ちょっと、それが怪我人に対する態度ですか!しかもそっちは痛い方の腕なのに!!
なんて痛すぎて突っ込むことすらを忘れてしまった。
不服ではあるけれどこの先生の言う通りすぐに保健室に行かなければ。
だってこうしてる間にも痛みがじんじん脳まで響いてくるもん…
左腕で涙を拭いながら、みんなが心配してくれる声に答えることもできず足早にその場を去った。
校舎に入って保健室の扉を開けるなり、白衣を着た先生は私の顔を見て死ぬんじゃないかというくらい大爆笑。
何がおかしいの…全然おかしくないよ…
こっちは本気で助けを求めてるのに…っ
というかさっきから誰一人として優しく接してくれないのはなんで…?
前世でなにをしたらこんな待遇を受けるんだ…
いい加減笑い止まない先生に自分の症状と事の経緯を掻い摘んで伝えると、ようやく息を整えて、はーー苦しいー、なんて言うもんだからさすがに怒りたい
「っ、せんせ、…いたい…、」
「そりゃ硬球当たったら折れるわよ〜。ちょっとここで冷やしてて。先生、急患で診察してくれるとこ探してくるから」
「ん、」
そういって先生は私の腕を三角巾で固定して、氷嚢を作って上から冷やしてくれた。
ようやく保健の先生らしく見えてきた気がする…。
先生がじゃあ、と軽く手を挙げて扉を閉めたと同時に、こんな状況で一人きりになってしまった、という不安がじわじわと襲ってきた。
素直に心細い…。
風邪ひいた時もよく気弱になっちゃうけど…、怪我した時も一緒なんだなあ…
気にしちゃうと余計寂しくなるから、別のこと考えよう…。
一人残された保健室に、ずずっと鼻水を啜る音が響く
…それにしてもとんだ災難だった…
あ…、そういえば、由花子は私の背中に引っ付いてたけど、怪我しなかったのかな…?
痛すぎて一部記憶が飛んじゃってるよ…
どうやってボールが自分にぶつかったのか、……あんまり覚えてないや…。
けど、由花子ここにいないし…、無事だったんだ…たぶん…。
それに由花子は強いから、ボールどころか隕石が降ってきたとしても素手で殴って破壊しそうだし、どっかからバット持ってきて打ち返しそう…。
「…へへ…」
想像したらちょっぴり面白くて、誰もいないのをいいことに笑いが漏れてしまった…。
こんなこと考えてたって由花子にバレたらきっと怒られちゃうんだろうなあ…
さっきまで取り乱してズビズビ泣いていたけど、段々落ち着いてきたかも…。
みんなに思いっきり泣いてるとこ見られちゃったよね……ああ、…恥ずかしい…、
あんまり目立ちたくないのになあ…
いまさら乾き始めている涙を擦ったところで、その事実を消すことはできないけれど、ちょっぴりむず痒くてゴシゴシと乱雑に拭った。
きっと目腫れてる…。
明日までに治るといいけど…
はあ、と溜息をついていると、扉が勢い良く開く音。
先生帰ってきた…!
随分と早かったなあ
なんて思いながら、顔を上げれば、
そこに先生の姿はなく、かわりに紫色の目を大きく見開いた
リーゼントの少年がいた
「……………!!」
……う、…うわあ…!
てっきり先生だと思ってた…っ
ど、どうしよう…、
…い、いま顔ぐしゃぐしゃだから誰にも見られたくないのに…!
……恥ずかしい…!
…でももしかしたらこの人も怪我してるとか、体調悪いのかもしれないし、先生がどこにいるかわかんないと困っちゃうよね…、
もうちょっとしたら帰ってくるよって、教えてあげなきゃ…。
もう一度顔をゴシゴシと乱雑に拭ってから泣き顔を誤魔化すように笑ってみるけど、腕の痛みがそう簡単に私を笑顔にさせてはくれなくて、ぎこちないであろう表情のまま少年に話しかける
「あ、あの…せ、先生ならいま職員室いってて…、もうちょっとしたら帰ってくるとおも…………、………っ!?」
緊張で震える声で放った言葉を私が言い終わるか終わらないかのうちに、少年はずんずんとこちらに大股で近づいてきた…
彼が一歩近づく度に、私の心臓が一回りきゅっと小さくなってしまうような感覚に襲われる
な、なんかす、すごい威圧が…、
か、彼の格好のせい…だろうか…
髪型、リーゼント…っていうんだよね…、すっごく特徴的だし、…制服も、たくさん改造してるし…っ
…その…明らかに"不良"っぽい…
人を見た目で判断しちゃダメって、
わ、わかってはいるんだけど…
でも明らかに一歩一歩の足取りが、地面がひび割れそうなくらいに力強くて…
巨人に標的にされた人間の気分だ
と、比喩のつもりで言ったけれど、実際に目の前まで彼が来ると本当に大きい…
もちろん私が椅子に座っているのもあるんだけれど、見上げる高さで…、先輩、なのかな…?
……というかさっきから穴が空くんじゃあないかっていうくらい、じいっとこちらを見つめてきてる…
…な、なんで……っ?
私なんか変なこと言った…?
…それとも私…知り合いだったっけ…?
で、でもこんな威圧感のある人、知り合いだったら忘れるわけないし…!
明らかに穏やかそうでない彼のその風貌をしばらく見ていたら、短絡的な私の思考は、「不良=喧嘩="殴られる"」という嫌な文字の羅列を頭に浮かばせた
…いや、
いやいやいや…!
私何もしてないし…!この人と会うのたぶん初めてだし…!
ま、まさか…いきなり殴ってきたりなんか…しない……よね?
………でも、私が知らないうちに彼の機嫌を損ねてたら……
……や、やだ…!!
拳で語り合うなんて無理だよ…!
あらゆる可能性を見出しては消して、を繰り返していると、どれにも当てはまらないまったく予想外の光景が目に飛び込んできた
「…ごめんなさいッス!!!」
「………、へ、……」
勢い良く、しかも深々と私に頭を下げた少年は、そのまま微動だにしない
私もなにが起きたのかさっぱりで、彼と同じく動けなくなってしまった
……な、なに…
なんだっけ?なんかされたっけ…?
そもそもこの人と喋るの初めてだと思うんだけど…
私の記憶にないってことは、彼がなにか勘違いしてるのかも…
「あ、あの…っ」
とりあえず頭を上げてください、
と言おうと思ったけれど、その前に彼は顔を上げて頭をガシガシかきながら、しょんぼりと眉尻を下げた。
「俺が投げたボール、腕に当たったんスよね…。ほんとに申し訳ないっス」
「…え、………あ、ああ…、そういうことか…。」
そっか…。
てっきり彼のほうがなにか勘違いをしてるのかと思っちゃった…。
…ということは先輩じゃなくて同じ学年…
体格のこともあってか、随分大人っぽく見えるなあ…
それに、さっきも見た目で判断しちゃダメっていったけど、外見とは裏腹にすごく真摯で丁寧な人だ。
先生たちからはあんなに塩対応されて泣き顔笑われたのに…。
詳しく事情を聞いてみると、由花子の愛しの彼"広瀬くん"と目の前にいる彼がキャッチボールをしていたところ、力が入り過ぎてしまったらしく、運悪くそれが私にぶつかったらしい…。
結構距離は離れてたと思うけど、ありえない事故じゃないし
そもそも広瀬くんだって危ないよって教えてくれてたのに逃げなかった私が悪いんだ…。
申し訳なさそうにこちらを見つめてくる彼を見てしまえば、こっちのほうが申し訳なくなってきてしまって、見栄を張らずにはいられない。
「全然大丈夫です…!そんな痛くなかったし!」
「……でも泣いて…」
「こ、これは…、コンタクトがずれただけで…っ」
「…、…ほんとに…?」
「…ほ、ほんとに……」
じっと彼の紫色の綺麗な瞳に見つめられて問われれば、返した言葉は装えても、視線はふらふらと動いて彼からそれてしまった。
これじゃあ嘘を付いているのが丸わかりだよね…
こんな風に顔をまじまじと見られたことなんて、いままで一回もない
恥ずかしい…、顔熱いし…、きっと赤くなってる…
…あ、あんまり見ないで欲しいな…
なんか、心臓が、ドキドキいって…
「……ちょっと、腕見せてもらっていいスか?」
「…………えっ、あ、…ど、どうぞ!」
自分の心臓の音に気を取られてぼうっとしてた…!
慌てて先生が巻いてくれた三角巾を解いて、彼に腕を差し出す
氷で冷やしていたはずなのに、さっきよりも青みがかって腫れてる…。
やっぱり折れてるんだろうなあ…
「ちょっと、すんません」
「えっ、」
もっと近くで見たかったのか、彼は痛みを与えないように優しく私の腕をとって、まじまじと患部を見つめはじめた
…わ、わあ…っ
男の子に触られるなんて初めてだ…
…なんか、すごい緊張する…!
彼の手の温度が私より冷たいのか
私の体が熱くなっているのか
どちらにしろ、触れられているという感覚が強調されてしまっていて自然と体が強張る。
その強張りと緊張が相まって、段々と体が震えそうになるのを堪えていると、それを察したのか、「あ、申し訳ないッス」と解放してくれた
「でもよかった…、思ったほど腫れてないッスね」
「で、ですよねっ……、……………え、?」
触れられたことでパニックになっていた脳は、一度彼の言葉を聞き流してしまったけれど一瞬の間を置いて正常に疑問を抱いた
"思ったほど腫れてない"…?
…変だ
だってどこにボールが当たったのか一目瞭然ってくらいに腫れてたのに…
彼の言葉に不思議に思って患部を見てみると、
「えっ…?」
さっきまで青くなってパンパンに腫れていたのに、まるで嘘だったみたいに何の引っかかりもなくすうっと元通りに腕は伸びている。
それに、じんじんしてた痛みが…、消えてる…?
「な、なんで…?」
…だ、だっていまさっきまで…
一瞬の、魔法のような出来事になんて言っていいかわからず口をパクパクさせていると、目の前の彼はニッコリと笑った
「これならすぐ良くなりそうッスね!」
「あ、……う、」
わけがわからなくて、うまく返答ができない
すぐ良くなるどころか…まるで最初からボールなんてぶつかってないみたいに…
肘を曲げたり伸ばしたり、手のひらをグーパーしてみるけれど、至って普通。
痛くも痒くもない
「…なにが、…どうして…」
全く持って意味がわからない…
さっきまで腫れてたし、先生だって折れてるって言ってた…
氷嚢で冷やしてたから治った?
いや、でもそんなに早く良くなるはずがない…
それに、三角巾をとったときにはちゃんと腫れてた…
……ちゃんと腫れてたって言い方もおかしいけど…
うーーん…と唸っていれば、未だに混線している脳に休み時間の終わりを知らせるチャイムが響いた。
「っと、…じゃあ俺戻らねえと。担任の先生には俺が話しとくんで、ゆっくり休んでくださいッス!」
「あ、…えと、ありがとうございます……」
にかっと真っ白な歯を見せて笑うと、顔の横でピースサインをして彼は颯爽と保健室から出て行った
「………、夢……だったのかな……」
私の白昼夢だったのか、それとも彼に魔法でもかけられたか…。
どちらも確実性に欠けるし、これだ、という答えなんて見つかりそうにない
なにより、最後の、彼の屈託のない笑顔を見てしまったら、なんだかもう治った理由なんてどうでもよくなってしまった
少し胸が高鳴った、春の日
(おまたせ〜、病院見つかったぞー。少しは落ち着いたか?)
(先生…、なんか、治っちゃった)
(は?)
(いや、治っちゃった)
(は?)
ALICE+