spinnengewebe6


気分が悪いなどと口にしたのは初めてで、よほどひどいのではないかと思った。
脅してようやく白状したくらいだから、心配をかけないように無理をしているかもしれない。出ていってほしいと露骨に態度に出ていたのを無視して様子見してみたが、いつもの調子で言葉を交わすまふゆに不自然なところはなかった。少しは安心していいだろうか。

「……」

今日に限ってなかなか眠らなかった。
頬をつまんでも目を開けないので完全に寝入ったようだ。
寝息を確認したあとも、しばらくまふゆの顔を見つめていた。

ふいに見せられた、はにかんだ微笑みを思い出す。
いくら想いを押しつけても普段と変わらない表情で見つめてくるまふゆが。愛してくれと強制したものでなく自然な反応。仮に兵長として言っても笑顔は見せるかもしれないが、きっとあんな顔じゃない。恋をしていると錯覚しそうな愛らしい笑み。
目を奪われたのも束の間、突然逃げ出したのはそのあとだ。
具合が悪いせいで感覚がおかしくなっていたとは思いたくないが、まふゆなら十分ありえる。

「…まぁ、見られてよかったと思っておく」

すると、返答でもするかのように、まふゆの足が勢いよくリヴァイを蹴った。

「ちっ…クソめ」

任務ですぐ起きるだろうと靴のまま寝かせたが失敗だった気がする。
まふゆは寝相が悪い。起きている時より元気なんじゃないかといつも思う。
だが可笑しくなってしまう。これなら問題なさそうだといっそう安心することができた。







まふゆの部屋を出て本部へと歩いていく。
露店の前を通りかかると、めずらしい物が目についた。
輸入品のチョコレートだ。銀色の包装紙に包まれ、小さな四角い形をしたものが量り売りされている。

「……」

おそらくまふゆはチョコレートが好きだ。食べた時の幸せそうな顔が記憶に残っている。好きだとか嫌いだとか、何かに対して主張することがない分印象的だった。
配給で余った物は子供たちに配ると知っているから、好きだからもっと食べたいとは戯れにも言わない。
チョコレートに限らず、まふゆは食べ物に関して遠慮がちだった。
他人の世話になっていた頃の意識が抜けていないのだと思う。昔はともかく、今は兵士として自分が命がけで働いた報酬だというのに。

「これをくれ」

「おっ、兵長さん。今朝入ったばかりなんですよ、どうぞどうぞ」

片手で握った分を買い、上着のポケットにしまい込んだ。








次の日。まふゆはリヴァイの部屋へ来なかった。

もう少し。

もう少し。

待ちわびてどれくらいの時が過ぎたか。

とうとうリヴァイは椅子から立ち上がり、部屋を出た。

昨夜、久しぶりに意識する部屋の景色に愕然とした。
部屋の中の何もない空間に、大きなものが欠けている。
ああ、そうか。
慣れすぎたんだ。まふゆが居るのがあたりまえになっていた。

だから、こんなにも――

こんなにも、独りの部屋は静かで寒くて――寂しい。
以前はこれがあたりまえだったのだ。そしてそのことを寂しいなどと感じなかった。

ゆっくり休ませてやりたいという気持ちを揺るがして心が騒ぎ始める。
すぐに会いに行きたくなった。
それでもなんとか思いとどまって、ベッドに横たわり目を閉じた。朝が来るのが遠く長く感じた。

今夜も同じことを繰り返したくない。









まふゆは自分の部屋にいなかった。夜間の任務は入っていなかったはずだ。
まさかと思いながら訓練場を覗いたが姿はない。
食堂には多くの人が集まる。同期の仲間たちと一緒かもしれない。
結局そこでも見つけることはできなかったが、情報は得られた。

『まふゆなら散歩するって言ってましたよ』

それを聞いて、なんとなく思い浮かんだ場所がある。
リヴァイは広場へと足を向けた。

屋根の上。見渡す限り屋根ばかり。
まふゆが訓練兵になりたての頃、きつい訓練のあと誰にも見られないようこっそり休憩していたと言っていた。以来お気に入りの場所だと。屋根など登ったこともなく物珍しかったというのもあるようだ。立体機動の練習をしていたと言いつつ、好奇心の方が大きかったと思っている。

暗がりに、ぽつんと腰掛ける人影が見える。
やっと見つけた――
まふゆはまだリヴァイに気づいていない。
足音を消して近づき、背後から乱暴に引き寄せるように抱きしめた。

「――っ?! 兵長…?」

「…正解だ。よくわかったな?」

一瞬固まった身体から力が抜けていくのがわかる。
常に無警戒でいるのを戒める意味で脅かしたが、見破られたのは意外であり嬉しい誤算だった。

「そりゃ――」

言って、まふゆがうつむく。

「……私にこんなことするのは兵長だけだからです」

「甘い。お前が思ってるほどまともな奴ばかりじゃねぇんだ。肝に銘じておけ」

「…はい」

腕を放し、後ろから抱き込む格好で座った。
どうかしたのかと聞くのは愚問に思えて口を閉ざす。
まふゆが一人で考え込むといったらおそらくはリヴァイのことだ。引くつもりのないリヴァイと感情がついていかないまふゆと、どちらもどうにもならず解決策は見つからない。

「…どうして、ここが…?」

まふゆが振り向いた。
広場の灯りを頼りに眺める顔はうっすらと陰り、浮かない表情と重なってよけいに沈んで見えた。

「ここはお前の「隠れ家」なんだろう?」

「…私、そんな話しましたか…?」

「ああ。お前に関してなら、まぁたいていは覚えてる。良くも悪くも、お前が忘れても、な」

好きだと意識する前から。いや、自覚がなかっただけかもしれないが。
まふゆが話していたことがふとした瞬間に甦る。どうでもいいくだらない話まで思い出し、あいつの頭の中はどうなっているんだと真面目に考えたこともある。

「そ…そうですか…」

「眠るまで傍にいると張り切ってたのは誰だ」

「ごめんなさい……ちょっと、疲れてて……」

「…まだ具合が悪いのか」

「全然大丈夫です。いつもどおり元気ですよ」

「お前の大丈夫はあてにならねぇ」

「ほんとですって!今日一日元気すぎて疲れたんです!」

体調の悪さを悟られぬようここに居たのではないかと思った。
ムキになるほど怪しまれるとは思わないのがまふゆらしい。
無意識に身を乗り出し、リヴァイの膝に手を掛けているのも気づかない。
傍にいるのも触れるのも考えてするものじゃなく、自然な仕種。まふゆにとってそうなっていけばいい。

「食え」

リヴァイはポケットからチョコレートを取り出した。

「…何ですか、それ?」

「チョコレートだ」

「――!」

リヴァイの手元をまじまじと見つめていたまふゆが目を見開く。

「…?」

「可愛い……!」

一変して、はじけそうなくらい明るい笑みが広がった。
これほどまでに感激するとは。用意してよかった――と、思いかけた時、

「兵長がポケットにチョコ入れてる…!」

可愛いとはチョコレートのことではなかったのか。
柄じゃないと笑われるならまだしも、意味がまったくわからない。
まふゆは目を輝かせ、バカみたいにはしゃいでいる。
そんなことよりチョコレートに喜べ、と思いつつ、やはり能天気に笑う姿が一番好きだと思った。

「か、可愛…っ」

「使い方が間違ってる。それは今のお前に相応しい言葉だ」

チョコレートの包装紙を解いて、口の中に押し込んでやった。

「あ…ありがとうございます…」

「礼には及ばねぇ。古くなって廃棄する分を拾ってきただけだ」

言った途端、まふゆが口を押さえる。

「うっ!お…」

「てめぇはそんなに繊細じゃねぇだろう」

「…美味しいです。チョコが腐るなんて聞いたことないし、別に気にしません」

「カビるかもしれねぇがな」

意地悪く言うと、再びまふゆの表情が固まった。

「そんな、確かめる前に食べちゃったじゃないですか」

「気にするな。だが、ガキどもに配って腹を壊したら困る。全部お前が食え」

残りのチョコレートを取り出してまふゆの手に乗せた。
これくらい言っておかないと、兵長にもらったからみんなで食べようなどと、エレンたちやらガキやらに分けてしまいかねない。
他の奴に食わせるために用意したのではない。
まふゆに食わせたいのだ。

「こ、こんなに?」

両手のそれを見ていたまふゆは、急に思い出したように顔を上げた。

「……もしかして、この前私が具合悪いって言ったから?だから元気づけるために?」

「ゴミで元気づける奴がいるか」

「……、そう…なんですけど…」

また優しいだなんだと言われると面倒だ。まふゆが何か思いつく前に、話を切る。

「帰るぞ」

リヴァイが立ち上がると、まふゆは慌ててポケットにしまい、同じく立ち上がった。

「寝付くまでしっかり見ててやるからな」

「な…、そんなんじゃ寝れませんよ。ていうか兵長こそちゃんと寝てください」

「人を無視して平気で寝る奴が何言ってやがる。病人にさかるほど腐ってねぇから安心しろ、お前が寝たらおとなしく寝る」

「…何度も言いますけど、本当になんでもないんです。心配かけるようなこと言っちゃってすみませんでした」

「ああ、わかった。だからさっさと治せ。でなきゃ好き勝手することもできねぇ」

「……」

まふゆの腰を抱き、ワイヤーを張って飛び降りる。


――優しくしないでください――


風を切る音に混じって小さな声が聞こえたが、聞こえないふりをした。




20200327


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