spinnengewebe7.2
「や…やあ」
「お疲れ様」
挨拶をされたので返したが、知らない人だ。私服であるところを見ると非番の兵士かもしれない。階級もわからないのでとりあえず普通に話す。
「…今、一人?」
「うん」
「用事とかあったりする?」
「ううん、何も」
「よかった。ちょっと話があるんだけどいいかな?」
「いいよ」
連れて来られたのは訓練場の裏手、物置小屋の側だった。
薪割りを途中で放り出したのか道具が散らかったままだ。団員の誰かがやったのだろうか?その後始末でも頼まれるのかと思っていると、男が振り向いた。
「君のことおかしいとか言う奴もいるけど、俺は個性だと思う。むしろ可愛いなって、ずっと見てたんだ」
「え?」
「す…好きです。俺の恋人になってください」
「えぇっ?! あ…ごめんなさい…。気持ちはありがたいですけど無理です。ごめんなさい…」
「……そっか。やっぱり、リヴァイ兵長と…」
「違うの!兵長はそんな変態じゃないから!」
「え…変態?なにが? あの人も一人の男なんだなって親近感が湧いたと言うか…」
てっきり、胸がどうとかの噂を言っているのだと思って叫んでしまった。しかし悪い話ではなくてほっとする。何の親近感かはわからないが、とにかく親しみを感じるということだろう。
「うらやましいなぁ。君にそんなに想われててさ」
「想われてる…?」
「そうでしょ? 自分を褒められるよりあの人に友好的な方が喜ぶし、よくわからないけどムキになってかばうし。君ってほんとあの人のことしか考えてないよね」
以前にも似たようなことを言われた気がする。
しかし話をしたこともない相手に、わかるものなのだろうか。というかこの人は、そんなにまふゆを知っているのだろうか。
目の前の男がやけに親しげで薄気味悪くなる。
「それにその指輪。わかってたけどさ、それでも俺の気持ちを知ってほしかったんだ」
「…ごめんなさい…」
指摘されるまで意識しなかった指をさりげなく隠す。リヴァイの前でだけはめようと思いながら、ついつい外すのを忘れてしまう。もう身体の一部になっている気がする。
「謝らなくていいよ。最後にひとつだけ、お願いを聞いてほしいんだ。そうしたらきっぱり諦めるから」
頼んでいるようで有無を言わせぬ雰囲気だった。見た目は穏やかそうで優しい表情をしているが、逆にその貼りついた笑みが胡散臭い。
なんだろう?誰かに対して、こんな思いを抱くのは初めてだ。しかも、まふゆのことを好きだと言ってくれている人なのに。嫌な感じに胸がざわめく。
悪い意味での勘はよく働く。
覆いかぶさるように男が抱きついてきた。
最初からまふゆの了承を得るつもりなどなかったのかもしれない。
頭の中が真っ白になる。
あの日、あの瞬間が重なる。あの時も流されるままリヴァイに――
「ありがとう。優しいね」
男の嬉しそうな声で、現実に引き戻された。
急激に体温が引いていくような恐怖を感じる。嫌悪が込み上げ吐き気までする。
それなのに、やめてと叫ぼうとする口も、突き飛ばそうとする腕も、意志に反して動かすことができなかった。
断りきれず流される。リヴァイに言われたことだ。きっとこの男も同じように思っているのだ。
だが今はリヴァイの時とは違う。怖くて、ただ怖くて、逃げることもできず、冷え切った身体が焦りで熱くなる。
拒絶しないまふゆが悪い。迂闊についてきたのが悪い。いつもいつも、悪いことが起きるのは自分の行動が招いた結果……
男はさらに増長する。
身体を押しつけるように壁に追い込まれた。その手が無遠慮に胸を揉み、シャツのボタンが外されていく。
「…はは、指輪だけじゃ足りないか。しっかり存在アピールしてる、俺の女に手を出すなって」
怖い。気持ち悪い。嫌、嫌、嫌だ――触るな
「でも意外と知らないんだね。牽制のつもりだろうけど逆効果だよ、ますます奪いたくなる」
その時、もつれる脚に何かがぶつかって音を立てた。
金属の鈍い音。鎌か斧か、それに気づいた瞬間、まふゆは固まっていた手を必死で伸ばし、柄を掴んだ。
早く、早く、
――こんな男殺してしまえ――
「よせ!」
声が響いて、握り締める手が止まった。
駆けてくる足音とともに、リヴァイの姿が視界に映る。
近づくと同時に、振り上げようとしていた物を奪い取られた。
「お前の手を汚すまでもねぇ。俺が殺ってやる」
リヴァイは男の背後から首に腕を回し、引きずるようにしてまふゆから離した。
「ぐっ…う…」
腕の力で首を締められ苦しげに顔を歪める男を見ているうち、はっと我に返った気がする。
「やっ…やめてください!」
「どうしてだ?殺したくなるほど怖かったんだろう?」
「だからって兵長にそんなことしてほしくありません」
「ふん。…おい、こいつに詫びろ。頭擦り付けてしっかりとな」
突き飛ばすように腕を放すと、男の頭を地面に押しつけ靴で踏みつける。
「ほら。頭を踏み潰して地面に埋めるでも、急所を蹴り上げて潰すでもお前の好きなようにしろ」
見せつけるように何度も繰り返し踏みつけながら促された。
「……、いえ」
「今ちょっと迷わなかったか?」
「ま、迷ってないですよ」
普段の調子で言われて温かい安堵が広がる。大丈夫、いつもの場所へ戻ってきた――と思った。
するとリヴァイが足を止め、まふゆに近づく。もう動けるはずが固まった感覚のままいるまふゆの、シャツに手をかける。
今の状態を思い出し、自分でやろうとしたがうまく力が入らなかった。
「無理しなくていい」
そう言って、ボタンをはめてくれる。
「……」
見せたくない痕跡をリヴァイが消してくれているような。それがとても嫌で、胸が軋んだ。
「チクショー!いちゃつきやがって!俺だって…俺だって本当に彼女が好きなんだ!」
「黙れ」
リヴァイは男の方に振り向く。
男は再び顔面から沈められた。
好き。
好き、という意味がわからなくなった。
この男も、リヴァイも、そしてまふゆも。それぞれが違うものを指しているように思えてくる。
「俺も人を責められる立場じゃねぇが、俺以外の奴が手を出すのは許さねぇ」
「ぐ…っ、そ…そんな勝手な理屈があるか!」
「失せろ。二度とこいつに面見せるな」
蹴り上げた勢いは凄まじく、男の身体が吹っ飛んで地面に落ちた。
「……」
怒り、苛立ちのような気配がその横顔から窺える。
へたに声をかけていいものか迷いながらも、言わなくてはと口を開いた。
「す…すみませんでした…」
「もう謝るのはやめろ」
「だって…注意されてたのにのこのこついてきて、兵長を巻き込んで」
「――殺してやろうと本気で思った」
まふゆを遮るリヴァイは、視線を気絶した男の方に向けたままだった。
声の重さに殺気が満ちている。自分に対してではないとわかっていても竦むほどだ。謝る隙さえ掻き消されてしまった。
「だが、俺のためにお前が泣くのが何よりも嫌いだ」
「……」
「目に見えてる。自分のせいで兵長が…ってな。一生泣かれちゃたまらねぇ」
まふゆは目を奪われるように横顔を見つめた。
本当に、なんでもお見通しだ。
代わりに手を下そうとしたのも思いとどまったのも、みんなみんなまゆふのため。罪の意識を背負わせないように。
何も望んでいない。何かしてほしいなんて思っていない、してくれなくていい。だからこそ、まふゆを想ってしてくれるすべてに崩れ落ちそうになる。
愛が欲しいと言いながらリヴァイの方がまふゆに与えてくれているみたいだ。おそらく無意識なのだろうけれど。
「自分のしたことを棚上げする気はねぇ。やってることはあの野郎と同じだ」
ようやくリヴァイがまふゆと目を合わせる。
眼差しを見て、思った。
男に対しての怒りや苛立ち、それはリヴァイ自身へも向けられていたのではないかと。
まふゆは、首を振って否定する。
「私にとっては同じじゃなかったんです。わかったんです、なんとも思ってない人にされても気持ち悪くて怖いだけだって。流されるとかありえない、絶対無理で…」
「兵長だから見ないふりしただけだろう」
「ち…違…、そうじゃなくて…」
まったく異なる感情だったのだと――上手く言葉にできない。伝わるように気持ちを口にするのは難しいものなのだと実感する。
さらにこれまでのまふゆの言動を考えれば、簡単に信用されるはずもなかった。
「触られても嫌としか思わないし、何か言われても全然頭に入ってこなくて…」
「…おい」
「え…?」
「お前は今つらい思いをしたんだろう?なんでもなかったみてぇに言うな」
「……」
「お前の感情はどこにある? こんな時くらい自分のために泣いてみろ」
まふゆは思わずリヴァイを見返した。
急に何を言い出すんだろう。
感情?
自分のためってどういう意味?
だいたい、泣けと言われて泣けるはずがない。
泣くようなこともないのに涙なんか。
「……あの時も涙ひとつ見せなかった。恨みも憎しみも、すべて俺に向けろ。奴のしたことは俺のしたことだと思え。クソは俺一人で十分だ、記憶から消しちまえ」
「……」
胸が焼けつくような思いがした。
途端に、視界がぼやけて熱い涙が零れた。
脚が震えて力が抜ける。
咄嗟に支えてくれたリヴァイを頼りに、ずるずると地面にへたり込んでいた。
「ずっと泣けなかったんだろう」
泣き出したら涙が止まらなくなった。
泣くということを忘れていた、今までの分が流れていくようだった。
「自分を誤魔化しても苦しみがなくなるわけじゃねぇ。しまいこんでるだけだ。つらいことも悲しいことも、全部」
涙と一緒にまふゆの口から零れるのは苦しい嗚咽。
やっと、認められた。
本当は傷ついていたんだ。尊敬する兵長に突然されたことが。勝手に抱いた理想を裏切られた気持ちになって勝手に傷ついていた。
でも、それでも、憎めなかったのは好きだったからだ。
そしてまふゆは傷ついた心と一緒に想いからも目を背けて封じ込めた。
「そうやって溜まった痛みが新たな傷をきっかけに暴発する。発作的な殺意にかられたのはその現われじゃねぇのか」
リヴァイがしっかりと、まふゆの両腕を掴んでいる。
その手の力強さと言葉は、まふゆにおしえてくれている気がした。
誤魔化して――逃げているつもりが自分自身を追い込んで、自滅するだけだと。
息苦しい恐怖の中で激しい憎悪を抱いた。
あれは理屈で説明できるようなものじゃなかった。
止められなければ自分を把握できないままきっと男を殺していた。
「具合が悪いと言い出してからどうも不安定に見えて、予感というほどじゃねぇが引っかかってた」
心配しすぎるくらいだと感じていた訳に気づき、また涙があふれた。
腕を掴む力が緩んだかと思うと頭を抱え込むように抱きしめられる。
その仕種に、先程見た眼差しが脳裏に浮かんだ。
まるで罪を感じているような――
だからまふゆは逆にしがみついた。もういいんです、と。
あんなことがなければまふゆは永遠に気づかなかった。リヴァイの気持ちにも、自分の気持ちにも。
20200601
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