spinnengewebe3
日誌を書いていたまふゆは、はっと顔を上げた。
しかし団員の出払った本部は相変わらず静かで、誰もいない。
一人きりで気を抜いていたところに、リヴァイが近づいて来たのかと思った。
気配というか香りというか、微かに漂ったように感じたのだ。
勘違いかと胸を撫で下ろしたが、そこで再び動きが止まる。
あたりまえのように香りだなんて思った自分に困惑する。
いつの間にか憶えていたその人の香り。同時にぬくもりまで思い出して、一人で顔を赤らめて掻き消そうとするがなかなか消えてくれない。
まるでまふゆの身体に染みついて匂ってくるようだった。
今日で最後にしてください。
また言えなかった。
代わりに、気の済むまで好きにしてもらう覚悟まで決めたというのに。
「どうして私ってこうなんだろう?! クソって言われても仕方ないよね…」
初めのうちはただ怖かった。あまりにも強い思いを向けられて。まふゆの知っている兵長ではなくなってしまったようで。
けれどある時、余裕に満ちた態度とは裏腹にとても哀しい眼差しをしていることに気がついた。
キスをされる時も、見下ろされる時も。
きちんと返事をせずにこんなことを続けているから、傷つけてしまったのだ。
だから今日こそは言おう、今日こそは、と何度も思いながら切り出せずにいる。
「なんか叫んでるぞ」
「放っとけ、あいつはおかしいんだ。まともに相手ができるのは調査兵団だけだ」
「ふーん、可愛いけどな」
「あんたもああいうのがいいんだ。あれでしょ、兵長の…」
「うそ?!あんなのがどうやって兵長落としたの?」
「胸じゃない?」
「あぁ……。ていうか兵長に限ってありえない!絶対信じない!」
「つき合ってるとかガセだろ、それこそありえないね。いくら胸がでかくても、あんなとんちんかんな女が誘ったところで寒いギャグにしかならない。兵長なら間違いなく一刀両断だな」
「お前らわかってないなーそういうことじゃないんだよ。人を好きになるというのはだな…」
ああ、こういう噂が一番嫌だったのに。だから誰にも気づかれたくなかったのに。
兵長が誤解されてしまうのが堪えられなかった。なのに、隠したいと思うことほど知れ渡ってしまう。
だが、兵長に理想を持っているのはまふゆだけじゃないとわかったのは幸いだった。
「気にすることないよ、僻みってやつだろうからね」
いつの間にかハンジが側にいた。ついておいでと彼らから離れた場所へ促される。今のやり取りを聞いていたらしく、まふゆを気遣ってくれているのがわかる。
「でも…落とされたとかつき合ってるとかそんなんじゃないのに、変な噂が立ったら兵長が…」
「ははは、君はとことん兵長優先だね。しかし…そんなんじゃないって…そうなの? だけどリヴァイは君のこと好きだよね」
「え、な、なんでハンジさんが…」
「そりゃわかるよ。君だっていつも兵長兵長ってひよこみたいにくっついてたじゃないか」
確かエレンにも似たようなことを言われたが、目立っていたとは思いもしなかった。
兵長を慕う人はたくさんいて、みんなも同じだと考えていたから。
「ひよこって…。そうでしたか…?そんなに…くっつくっていうか一緒でしたっけ…」
「微笑ましくて好きだったよ、私は。…そうか、自覚なしか。困った子だね」
冗談めかしてハンジが言う。
「リヴァイは素直じゃないし、不器用というか……。うーん、なんだかリヴァイが気の毒に思えてきたよ」
「え…?」
「まぁ仕方ないね、君には君の気持ちがあるんだから」
「気持ち……」
リヴァイが言うほど夢を抱いているわけじゃない。それならとっくに幻滅しているはずだ。
嫌いじゃないなら、深く考えずに受け入れればいいのだろうか。
怖いくらい真剣なリヴァイに対して、軽い気持ちでいいのだろうか。
と言いつつやることはやってしまった。すでにいいかげんではなかろうか。
こんな自分より、もっと心からリヴァイを想う相手の方が相応しいんじゃないか。
「…………」
「ああ、混乱させちゃったかな。ごめんごめん」
「――おい。またそいつに手伝わせる気じゃねぇだろうな」
リヴァイの声がして、まふゆは反射的に振り向いた。
路地の向こう側からリヴァイが歩いて来る。
「それじゃ私は戻ろうかな。またね、まふゆ」
ハンジはリヴァイを完全に無視して、まふゆに手を振る。
リヴァイのことを話していたなんて知られると、何か言われそうだからかもしれない。
先程さりげなく助けをくれたことに感謝しながら手を振り返した。
「……」
リヴァイはハンジの姿を見送ると、まふゆに向き直った。
「捕獲の手伝いでも頼まれたのか?」
「あ…いえ、違います。ただ喋ってただけで…」
「ただ喋ってた? 話が合うとは思えねぇがな」
二人きりになるのは少し緊張するが、もう不自然に避けるのはやめると決めたのだ。
リヴァイの言うとおり、目を逸らしても何も変わらない。
ぎこちなくならないように顔を見つめた。
「……、何か、いいことでもあったんですか?」
リヴァイはなんとなく機嫌が良さそうだ。
ほんのわずかな違いを表情から読めるようになった。
機嫌が良い悪い、怒っている、哀しそう、だとか。
今まで近くにいても同じ不愛想にしか見えなかった。
何も見ていなかったんだな、と思う。
「まぁな」
素直だ。
否定すると思ったのに。
優しいと言うとすぐ否定するのは、照れなのかなんなのかよくわからない。
「よかったですね。……なんですか?いいことって」
今ならおしえてくれるかもしれないと、興味が湧いて聞いてみた。
「知りてぇか?」
「はい」
「言うわけねぇだろう」
口元に小さく笑みを浮かべるのは、からかっている証拠だ。
「…期待させないでください」
「いつもの仕返しだ」
いつも?いつもって?
自分は期待させるようなことをしているのだろうか。
言い返す言葉をなくして、まふゆは思わず黙り込む。
「……」
するとリヴァイも黙って、まふゆを見つめていた。
「……兵長は、じっと見るのは癖ですか?」
「ああ…、身についた習性ってやつだろうな。どうしようもねぇ」
「そうですか…」
あまり見つめられると落ち着かなくなる。
意識する前なら感じなかったはずの焦燥。そして、会話の途切れた沈黙も気まずい。
「……」
リヴァイはなおも見つめてくる。
目を逸らした途端に腕を掴まれそうでできない。
さすがに道端で手を出すことはないだろうという思いと、行動の読めない怖さとがある。
「――あの、私、考えたんです」
「……てめぇが考えるとろくなことにならねぇ。普段使わねぇ頭を使うからそうなる」
思いつく限りの話題を探してやっと口にしたが、リヴァイが乗ってくれてほっとする。
「そんなことないですよ! …じゃなくて、兵長に相応……あ」
ふいに、ぽつぽつと雨が落ちてきた。
「言ったとおりじゃねぇか」
「いや、雨は私のせいじゃないでしょう」
「どうだかな」
リヴァイは言って、まふゆの手を掴んで走り出す。
「どこ行くんですか?」
「このまま濡れるつもりか?」
雨は一気に強くなる。しのげる場所、屋根のある所といったら目についた店くらいしかない。
「兵長、あそこに入りましょう」
繋がれた手を逆に引っ張って店に飛び込んだ。
「どうぞ」
まふゆはハンカチを差し出した。
少しの間とはいえ二人ともだいぶ濡れてしまった。リヴァイの髪からも水滴が落ちている。
「まずてめぇが拭きやがれ」
「大丈夫です。ほら…兵長がよく言うじゃないですか。なんとかは風邪をひかないって」
「早くしろ」
リヴァイはハンカチを奪い取ると、広げたそれでまふゆの頭を乱暴に拭いた。
「ハ…ハックシュ!」
「最近はバカも風邪をひく」
「今のは鼻に毛先が当たったからです」
「――ちょっと、店の中を濡らさないでちょうだい」
刺のある声が響いて、周囲に意識が向く。
「あ…すみません…」
いかにも雨宿りに来ただけ、おまけに濡れた靴で床を汚されては店員たちが嫌がるのも当然だ。
「おい。何か選べ」
軽く自分の髪を拭きながらリヴァイが言った。
雨宿りさせてもらう代わりといってはなんだが、商品を買えということだろう。
「うーん……、兵長は何か欲しい物とかないんですか?」
「クソまふゆ。それを俺に聞くんじゃねぇ」
「……」
言っている意味はたぶん理解できた。まふゆは雰囲気をごまかすように店内の品物に視線を移す。リヴァイにプレゼントでも、と考えたのだが、よけいなことはしない方がいい。
雑貨の置いてある場所から、武具を強化するための素材の棚へ足を向ける。仕入れの状況によって品揃えが変わるが、まふゆの必要とする物がなかなか入ってこない。新しい武器より手に馴染んだ物を使いたいと思う。
やはり自分で採りに行かないとだめか、とまふゆが思った時、視界の端にリヴァイが映った。
「ありがとうございました〜」
「え?いつの間に?何か買ったんですか?」
「……」
リヴァイは答えず無言で店を出て行ってしまう。
まふゆは慌ててそのあとを追いかけた。
にわか雨はもう止んでいた。
リヴァイの背中に声をかけようとした瞬間、振り向かれる。
すかさず手を取られ、そっと指輪をはめられた。
どきっとして、思わずリヴァイを見つめる。
しかしまふゆには無表情以外の感情が読み取れなかった。故意に隠しているのかもしれない、と思う。
リヴァイの気持ちが込められた、この世にひとつしかない銀色の指輪。
まふゆのためにここまでしてくれる想いが苦しい。
もったいない――自分なんかには。
「鎖で繋いで連れ回すわけにもいかねぇからな。その代わり、所有物の証だ」
嫌な言い方をしたって価値は変わらない。
リヴァイはなぜかいつも自身を悪く見せようとする。わざとやっているとしか思えなかった。
「こんな大事なもの…もらえません…」
リヴァイの表情が微かに動いた。
「はっ…」
少しの間を置いて、吐き捨てるような笑いが返ってくる。
もらえないと言ったことで、いいかげん嫌気が差したのかもしれない――というまふゆの思いをよそに、するりと頬を撫でられる。
「あいにくだが、二度と外せねぇように仕掛けた」
「……」
まふゆは指輪に視線を落とし、そっと触れた。
「――! ぬ、抜けない…」
真顔で言い放ったリヴァイに合わせて、指輪を抜くふりをした。
「俺の呪いだ」
「呪い――?! ……ていうかいつまで続ければいいですか?」
「永遠にやってろ。俺は冗談は嫌いだ」
「…ほんとですか?」
「どういう意味だ」
「わりと、好きみたいな感じが…。唐突過ぎて誰も笑えないけど」
「うるせぇ。嫌いだと言ったら嫌いだ」
「わ、わかりました…今後気をつけます」
あまり突っ込むのは悪い気がして、とりあえず納得しておく。
あとに残るのは静けさと、指輪の重み。
「……やっぱりもらえません。もっと兵長のこと本気で好きな人の方が相応しいと思います」
「てめぇでなきゃ意味のねぇ証だ」
リヴァイはまふゆを黙らせる方法をいくらでも知っているような気がする。
言葉が続かない。指輪の存在をいっそう強く感じる。
「…………」
「どうした?」
口では拒否しながら外さない。まふゆの矛盾を見透かして、からかうようにリヴァイが言う。
「エゴの塊を大事だなんて言えるくらいだ、ほだされてきたんじゃねぇのか」
違う。少しだけ、以前のように普通に話せたのが嬉しかった。恋だとか関係なく。
けれどリヴァイの心がこもった指輪を突き返したら、すべてが終わる予感がした。
はっきりさせるべきだ、もう終わらせなくてはいけない、そう考えていたはずなのに。
拒絶できない本当の理由は、部下として側に居られる距離も、これまで兵長と過ごした日々の思い出と一緒に、なにもかも消え失せてしまいそうで怖いからだ。
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