旅する黒猫さん
昔から旅が好きだった。
移り変わる季節や景色、船に揺られる感覚、海の匂いと波の音、島によって違う文化や歴史、様々な人々……どれをとっても好きだった。
海賊がいるから危ないぞと家族に説得された時も、偶然悪魔の実を口にして能力者となった時も、世界最強と呼ばれる男に家族にならないかと誘われた時も、この気ままなひとり旅を辞めるなんてことはしなかった。それくらい私は生粋の旅人で、一生そうして生きていくつもりだった。
……でもまさか、こんな経験をするなんて。
「なんで、こんなことに……」
途方に暮れた私は呆然とつぶやく。私のつぶやきは目の前を走る乗り物の音によってかき消されてしまった。
目の前を横切るのは、終わりも始まりも見えない大きな道。その道の上を色や大きさも様々な見慣れない乗り物が走っていく。道の淵には白い柵のようなものが立てられ、そこから手前側を人間が行き来していた。それらの道を取り囲むようにして背の高い建物がずらりと立ち並び、そのあちこちには看板がついている。だが生憎それらは解読できない文字で書かれている。
そんな様子を、私は建物と建物の間の薄暗い隙間から見上げていた。
こんな場所は記憶の中にあるどの町とも一致しない。
紛れもなく、見知らぬ土地である。
旅をしているなら見知らぬ土地は当たり前だろうって? そんな君たちと私の心の整理のためにここまでに至る経緯を説明しよう。
数時間前、夏島の日差しに焼かれながら私は確かに船に乗った。いつものように猫の姿で、商船に間違って乗ったふうを装って紛れ込んだのだ。見つかったときはひやひやしたけど船員はみんな動物好きだったようで、散々モフられた挙句美味しいおやつまでもらった。次の島は春島で魚料理が美味しいんだぞよかったな、なんて色んな人から話を聞いて内心凄く楽しみに思ったりして。それで島に着くまでの間、ちょっと転寝しようと思って日当たりのいい場所に丸まり、目が覚めたら……ここに居た、というわけだ。
……訳が分からないだろう?
「長年旅をしてきたけど、流石にこんなことは初めてだなあ……」
ぱたりと尻尾を揺らす。私が寝ている間に船が海賊に襲われて、そこにいた能力者の力でここに飛ばされてしまった……とか。理由は色々考えられるが、真実は闇の中だ。確かめられやしない。それにここはなんでもありの"
とにかくまずは散策してみよう。何かわかるかもしれない。私は猫の姿のまま、ひらりと街中に繰り出した。
道に沿って人々の足元を歩いていく。彼らは私を見るなり表情を明るくしたり驚いたり、はたまた怪訝そうに眉をひそめたりした。だがどれも極端な敵意は感じられない。それだけ平和な島なんだろう。平和なのはいいことだ。面倒で厄介な海賊がいない。彼らの中にはいい奴らもいたけど、やっぱり自分から進んで関わりたいとは思えなかった。
それにしてもこの乗り物、すごくうるさいしすごく臭いな。特にニオイがひどい。鼻がひん曲がりそうだ。よく人間は平気でいられるなあ……。
私は先ほど居た隙間のようなところを曲がって通りから逸れる。途端に人が少なくなり、住宅が増えてくる。家と家を仕切るようなブロック塀の上を歩きながら周囲を観察する。植物を揺らす穏やかな風に思わず目を細めた。植物の具合から今は春になりはじめくらいの季節とみた。とすると気候的に恐らく……春島だろうか? だとしたら行こうと思っていた島と同じだ。もしやここが目的地? 着いたから勝手に船から降ろされたとか? ううん、わからない……。
考えながらひょいひょいと民家のベランダを伝って歩いていると、不意に下の方からあん!と呼び止める声がした。
視線を下げると、そこには白い犬がいた。体長は私より少し小さいくらいで、毛足はそこまで長くない。窓ガラスの向こうでこちらを見上げながら、興味ありげにぶんぶんと尻尾を振っている。そうだ、折角だしこの島について何か聞いてみるか。私はしなやかにベランダに降り立ち、ガラス越しに犬の方へ歩み寄る。
『こんにちは。私はなまえといいます。君の名前は?』
人間にはただの鳴き声にしか聞こえない、動物特有の言葉で話しかける。すると素直に答えてくれた。
『こんにちは! ぼくはハロ。きみはどこから来たの? れーくんの友達?』
『れー……? 私は旅をしている者なんですが、少し迷ってしまったみたいで。ここは"偉大なる航路"のどのあたりの島かわかりますか?』
『ぐらん、ど? なにそれ』
ハロは不思議そうな顔をして、こてんと首を傾げる。その返答に私は思わず耳を疑った。
『……"偉大なる航路"を知らないんですか?』
『うん。そんなの聞いたこともないや』
ハロは素直に答えた。その表情に嘘は見られない。対する私はただただ驚くばかりだ。この世界に住んでいて"偉大なる航路"を知らないなんて……そんなことある?
若干の違和感を感じながらも、私は次の質問を投げかけた。
『じゃ、じゃあこの島はどの海にあるなんて言う島なのか分かる?』
『うーん……よくわかんないけど、ここは二ホンって言うんだよ。れ―くんが言ってた』
『二ホン……』
聞いたことのない島だ。次に向かう予定だった島の名前ともかけ離れている。
だとしたら、私は本当に……。
「ハロ?」
すっかり顔を青くしていると、不意に部屋の奥の方から声が聞こえてきた。名前を呼ばれたハロの耳がぴん!と反応する。
「どうしたんだい、さっきから鳴いて……」
そう言いながらひとりの男がやってくる。金髪に褐色肌の健康そうな若い男だった。ハロが嬉しそうに『れーくん!』と言いながら尻尾を振っている。ということは恐らく飼い主だろう。
男……れーくんは、私をみるなりおやと目を丸くした。
「黒猫だ。迷い込んできたのかな」
からりと窓を開けた。それに乗じてハロも嬉しそうに出てくる。ちょ、こら落ち着け。くるくると私の周りを駆け回るハロと戸惑う私の様子を見て、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「友達なのか? ハロ」
れーくんの問いにハロはアン!と可愛く鳴く。だが私は反論するように不満げな声色でにゃあと鳴いた。全然違います、この子とはさっき知り合いました。伝われ。
だがそんな私の思いも露知らず。れーくんはしゃがみ込んで私に視線を近づけると、しげしげと眺めながらあちこち観察し始める。
「怪我は……してないみたいだね。首輪はないけど、毛並みもきれいだし目ヤニもないし、誰かの飼い猫かな?」
飼い猫とは失礼な。自由を愛する旅人(旅猫?)の私が首輪なんかつけるか。それに大半を猫の姿で過ごしているとはいえ、身だしなみに気をつかうのは女の子として当然のことだ。……という私の意見を猫のまま彼に伝える術がないのが非常に残念である。
この姿のままヒト語が喋れない訳じゃないけど、過去に猫の姿のまましゃべったらびっくりされて追いかけまわされた経験があるから嫌なんだよなあ……。麦わら帽子を被った好奇心旺盛な少年を思い出し、私はぶるりと身体を震わせた。あれは今でも時々夢に見る。
一応念のため動物語で彼に訴えてみたが、健康的で大きなその手でよしよしと撫でられただけだった。やっぱり無理か。それにしても撫でるの上手いなれーくん。もっと撫でて欲しくて私はうりうりと手に頭を擦り付けた。
「随分人慣れしてる猫だなあ」
どこから来たんだい?なんて話しかけながら頭を撫でるれーくん。
その声のトーンがどこかで聞いたことがあるような気がするんだけど、さっきから全然思い出せない。なんだろう、モヤモヤする。
そうだ、そんなことより情報を集めなければ。ハロに近づいた本来の目的を思い出した私はハッとする。ハロはまったくあてにならなかったけど、この人ならこの島について何か知っているかもしれない。
するっと窓の間から忍び込んで中に入る。あ、こら!とれ―くんの叱る声を背に受けつつ、何かこの島の手がかりになりそうなものを探す。
足の短いテーブル、時計、ギター、ベッド、それからなんだあの手のひらサイズの黒い小さな板は? とても気になるがその前に情報だ。あ、テーブルの上に新聞らしきもの発見。テーブルに飛び乗って覗き込んでみるがやはり読めない。独自の言語が発達した島なんだろうか? さて、どこかに私でも読めそうな文字はないものか……。
「はい、つかまえた」
新聞をあちこち吟味していたところで、背後から腕の下に手を入れられてひょいと持ち上げられる。どうやらタイムリミットのようだ。抵抗せずにだらりと持ち上げられている私をベランダに連れ戻しながらまったく、とれーくんは溜め息をつく。そしてこちらの顔を見るようにくるりと身体を表に返した。
「とんだお転婆な女の子だね、きみは」
そう言いながら困ったようにれ―くんは笑う。あれ? 彼なんで私が女だって分かったんだろう。だがその1秒後。彼の視線に気付いた途端、ぶわりと私の中に羞恥心が沸き上がる。
見られた。猫の姿とはいえ、女である私のそこを、彼は、まじまじと――
「セクハラ!!」
猫の姿だということも忘れて思い切り叫ぶ。そして自慢の鋭い爪で勢いよく彼の鼻先あたりをひっかいた。いて!と彼が驚き力が緩んだスキを見て、素早く窓から脱出する。ハロの呼ぶ声にも振り返ることなく、私は一目散に彼らの家を後にした。
もういいや。はやく船に乗ってさっさと次の島に行ってしまおう。そう思い、私はひとり港への道を急いだ。