祈りの言葉に聞き入るカラス

 街に夜の帳が降りている頃。次の任務の詳細を聞きに行くために、キャンティは組織の所有するビルへと足を踏み入れていた。

 指定された場所に到着すると、そこには既にジンとベルモットがいる。気に食わない女がいることに苛立ちを募らせながら、キャンティはジンに言い放った。

「それで? アタシの次の任務ってのはなんなのさ」
「お前の次の任務は、スピリタスの仕事の援護だ」

 その名前を聞いて思わず眉を寄せた。

「スピリタス……聞かない名前だねェ、新入りかい?」
「あら失礼ね。こう見えて彼はあなたよりも組織に長くいる古株よ?」
「アタシより長くぅ?」

 あからさまに顔をしかめるキャンティ。それなりに組織にいるつもりだったが、自分よりも古株だと? そんな奴がいるのかと思っているキャンティの内心を見透かしたようにジンが補足する。

「奴は俺たちとは違ってほとんど単独行動が多いからな。聞いたことが無いのも無理はねぇ」

 それからスピリタスに関する情報をいくつか教えられた。髪や肌の色など身体的特徴。表向きはバーテンダーをやっており、初対面のメンバーは彼に銀貨を二枚渡すことになっていること。そして彼は常に"犬"をひきつれていること。最後の情報にキャンティは眉を寄せる。

「犬?」
「ああ。なかなか難儀なやつだがな」

 ジンはわずかに表情を曇らせながら言う。何かの隠語だろうかと思いながらキャンティは勝気に笑った。

「ハッ! どんなやつか知らないが、犬を連れてるお坊ちゃんのお守りなんざ楽勝だね」

 そう意気込みながら出て行くキャンティ。その背に向けてベルモットは言った。

「彼の犬には気を付けて」

 その何もかも見透かしたような笑みが気に食わないキャンティはちっと舌打ちをして、さっさとその場を後にした。


***


 人目を避けるように建物の地下に位置しているその入り口をくぐると、ちりんと小さくベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 静かな声がする。カウンターの向こうにはバーテンの衣装を身に纏いシェイカーを振る、黒髪褐色肌に無表情の男が立っていた。伝え聞いていた通りの人物の登場を確認すると、キャンティはカウンター席に腰かけて辺りを見回す。8つ並んだカウンター席の背後に扉付きの個室が2つあるだけの小さなバー。店内は薄暗く、床や壁、小物などのほとんどがモノトーンで構成されており独特な雰囲気が漂っていた。ちなみにキャンティの他に客は見られない。話し声が聞こえることから個室にはいるようだったが。

「へえ、なかなかいい雰囲気じゃないか」
「注文は」

 その言葉にキャンティはにやりと笑みを浮かべ、手筈通り銀貨を二枚カウンターに差し出した。

「こいつで頼むよ」

 男――スピリタスは眉ひとつ動かすことはない。シェイカーの手を止めると、慣れた手つきで銀貨を回収し、代わりに一枚のカードキーをバーカウンターに置いた。

「こちらにもいろいろと準備がある。左手の突き当りの部屋で待っていてくれ」

 仕事モードに入ったのか、先ほどよりも多少ぶっきらぼうな口調でスピリタスが言う。ちらりと目配せした方向を見ると確かに、他の個室とは少し雰囲気の違う扉が見える。あそこが恐らく仕事相手専用の部屋なのだろう。キャンティは受け取ったカードを不満げに睨んだ。

「待たされんのは嫌いなんだがねェ」
「……なら、これでも飲んでいろ」

 そう言ってスピリタスは先ほど作っていたカクテルをグラスに注ぎ、キャンティに差し出した。店内の照明を受けてエメラルドグリーンに輝く液体が入ったグラスを手に取り、スピリタスに疑問を投げかける。

「こいつは?」
「『楊貴妃』」
「……へえ。一応女を喜ばせる方法はわかってるみたいだねェ」

 キャンティは何かを察したように笑みを深めると、グラスを片手に席を離れた。
 指定された部屋をカードキーで解錠し、中へ足を踏み入れる。薄暗い室内にはふたつの大きな黒い革張りのソファが向かい合い、その間にガラステーブルが配置されていた。壁は一面飾り棚になっているらしく、アンティーク調のハードカバーや怪しげな置物、それから古そうな洋酒の瓶がいくつかレイアウトされている。床には白と黒の飾りタイル、天井にはシンプルなシャンデリアが釣り下がり、ほの暗い灯りで部屋の中を照らしていた。

「さて、と」

 入り口が見えるソファにどかりと腰かけ、手にしたグラスに口を付ける。華やかでフルーティな香りと甘くて酸っぱい爽やかな味わいが口の中に広がり、思わずほうっと目尻を緩ませるほどだった。これならいくらでも飲めてしまうだろう、キャンティはあっという間にグラスを空にすると、今度は飾り棚にある酒も飲んでやろうと尻を浮かせかけた。その時。
 がさり、と物音がした。位置的にちょうど座っているソファのすぐ隣辺りだ。咄嗟にそちらへ目を向ける。するとそこには――

 ――毛並みの艶やかな白い大型犬が座っていた。

「は?」

 思わず目を丸くする。黒い首輪をつけたその犬は、口を開いてハッハッハと荒い息をしながらつぶらな瞳でキャンティのことを見つめていた。恐らくサモエドと呼ばれる犬種だろう。一見愛らしい姿だがキャンティはそれどころではない。

「なんだこの犬っころ……どこから入ってきやがった?」

 そうつぶやいたところでジンが言っていたことを思い出す。『スピリタスは犬を連れている』……確かに犬には違いないが、まさか隠語でもなんでもなく本物の犬のことだったとは。

 ますますスピリタスという人間がわからなくなってきたところで、目の前の白い犬が徐にキャンティに近寄ってきた。足元の匂いを嗅ぎ、そして前脚を器用に肩に乗せると鼻面を顔に近付ける。なんとなく顔を舐めようとしている気配を感じ取ったキャンティは反射的に顔を背け、犬をぐいと押し返した。

「あ˝!?」

 だがその抵抗も空しく、案の定犬は尻尾を振りながら勢いよくキャンティに飛び付くと、顔中を猛烈な勢いで舐め始めた。べろべろと顔中を舐めまわされるという初めての体験に、キャンティは激しい嫌悪感を覚え声を荒げる。

「何やってんだこのバカ犬! おい!」

 こちらの気持ちを察しているのかいないのか、犬は舐めるのを止めない。鼻まで舐められるキャンティは息苦しささえ感じる始末だ。怒りでどうにかなりそうだったキャンティが強引に犬を押しのけると、バランスを崩した犬はキャンティの体から離れ、足元に着地した。押しのけた勢いで立ち上がってしまったキャンティは乱暴に袖で顔を拭うと、未だにこちらを見ながら尾を振り続ける犬に向かって拳銃を突き付けた。引き金に指をかけ、今にも弾丸が射出されるのではないかという、その時。

「銃を下ろすことを勧める」

 静かな声が部屋に響く。
 今度は何だとキャンティがそちらに向くと、入り口に立っていたスピリタスが表情の消えた顔でこちらを見つめていた。彼に気付いたらしい犬は嬉しそうにワン!と鳴いた。

「こちらの準備が完了した。早速だが移動するぞ」

 それだけ言うとくるりと踵を返して部屋を出て行ってしまった。その後に続くように犬も部屋を出て行く。ようやく犬から解放されたキャンティは気持ちを切り替えつつ、部屋を後にした。

 店を出たスピリタスは、裏手にとめてあった黒い乗用車に乗り込みエンジンをかける。後部座席に乗るよう指示されたキャンティは言われたとおりにドアを開いて中に乗り込んだ。するとその時。

「わ、っぷ!」

 閉めようとしたドアの隙間から滑り込むようにして白い塊がキャンティに飛びついてきた。そして再びべろべろと顔を舐めまわし始める。ばたりとドアが閉まる音を聞いたスピリタスは後ろの様子には目もくれずぶっきらぼうに言った。

「じゃあ行くぞ」
「おい待て! どういうことだい、こいつは……っ!」

 先ほどと違い、狭い車内……しかも後部座席だ。キャンティには逃げ場がなく、どんなに抵抗してもほとんどされるがままだ。キャンティは犬の攻撃を受けながら合間合間に抗議をするが、スピリタスは全く気にもしていないようで今回の大まかな方針などを告げている。
 なんだ、こいつ。わけがわからない。怒り心頭なキャンティは犬をぐいと押さえつけ、思い切り声を荒げた。

「おいスピリタス! このバカ犬どうにかしろ! というかそもそも、どうして任務に犬なんか連れてきやがった! 任務をお散歩か何かと勘違いしているんなら、今すぐこいつの頭に弾丸をぶち込んでやってもいいんだよ!!」

 キャンティの猛抗議にもスピリタスは顔をこちらに向けることはない。だが、ただ一言つぶやくように言った。

「マティーニ」

 その言葉を聞いた途端、犬――マティーニはぴたりと顔を舐めるのを止め大人しくなる。ハッハッハと息をしながら座席にちょこんと座っていた。ようやくベロベロ攻撃から解放されたキャンティは、こちらに関心を示さないスピリタスを睨みつける。その視線を察したのか、スピリタスはこちらを見もせずに助手席からとったタオルを適当に投げ渡した。

「使え」
「……」

 受け取ったキャンティは無言で顔を拭い始めた。静かな車内で、スピリタスの落ち着いた声が響く。

「言っておくが、こいつは俺の相棒だ。だから仕事に連れて行く。それだけだ」

 言うだけ言うとスピリタスはそれきり口を開かなかった。


***


 ひゅるりと生ぬるい夜風が髪を揺らす。
 誰も使わなくなった廃ビルの屋上で、キャンティは愛用のライフルのスコープを覗き込みながらひとり言葉を失っていた。

 スコープの向こうに映っているのはとある組織の所有する建物。そこにいるのはその組織の構成員達とスピリタスだ。多勢に無勢……状況だけ見ればスピリタスの方がかなり追い込まれているようにも見えるが、実際は全くの逆である。
 銃器を手に武装する構成員たちを嘲笑うかのように、ナイフ一本で次々と彼らを血の海に沈めていく。徐々に顔色を悪くしていく彼らを他所に、スピリタスは眉ひとつ動かすことも無い。

「確かにこいつは、ジンが一目置くだけはあるかもしれないねぇ……」

 ぼそりと独り言を零す。そうしている間にも徐々に敵の数は減少していた。アタシいる必要ある?なんて心の中で思いながらスコープを覗いていると、何やら耳元で荒い息づかいが聞こえてくる。まさか、なんて思う間もなく耳と首筋にぬるりとした感触がした。ぞわわと一気に鳥肌が立つ。

 たまらずスコープから目を外すと、案の定そこにはマティーニがいた。状況なんてわかっていないのだろうそいつは、仕事中にもかかわらずキャンティにじゃれつき始める。

「ッテメェ! やめろこのバカ犬!」

 潜伏中にもかかわらず悪態が飛び出した。どうしたものかと眉間にしわを寄せたところで、ガチャンと扉が開く音がする。
 ハッとしてそちらを見ると、例の組織の構成員が5人ほど屋上にやってきたようだった。キャンティを見つけるなり、ひとりが意味ありげに口の端を持ち上げた。あまりのタイミングの悪さにキャンティは盛大に舌打ちを漏らした。

 このまま彼らを放っておけば任務は失敗するだろう。それだけは避けなければ。その一心で応戦を決めると、懐から拳銃を取り出した。近距離戦は得意ではないが、こうなったらやるしかない。そう思ったその時。

 ――白い塊が素早く飛び掛かった。

「!」
「うわ!?」

 思わぬ展開に構成員たちが叫びをあげ、キャンティは目を丸くした。
 その視線の先にいるのは、マティーニだ。

 先ほどまでこちらにじゃれついていたマティーニが、あろうことか唸り声をあげながら男達に襲い掛かっているのである。あるものは喉笛に噛みつかれそのショックで絶叫しながら目をむく。またあるものはマティーニを殺そうと拳銃を向けた腕を噛まれあろうことか銃弾を味方に命中させている。まさしく地獄絵図だ。それを形作った当事者であるそいつは、本当に先ほどまでと同じ犬なのかと疑いたくなってしまうほどの活躍を見せつけていた。

「すげぇ……」

 それはキャンティの心の底から零れた感想だった。
 数分後もしないうちに騒がしかった屋上はすっかり静かになってしまった。功労者であるマティーニは血まみれになりながら楽しそうに肉塊で遊んでいる。さてあちらはどうなっているかとスコープを覗くと、ちょうど手筈通りにスピリタスが敵対組織のボスを外に追い出し、護衛5人を始末している最中だった。ボスがすっかりスピリタスに気を取られている隙を突き、キャンティが引き金を引く。ボスの顔が強張り、どさりとその場に崩れ落ちた。任務完了。それを確認すると、キャンティはスコープから目を外しながらふうと息をついた。

「ったく……楽勝な任務だと思ってたがねぇ」

 ぐったりとした様子でキャンティはつぶやく。普段の倍以上に感じる疲労感に苛まれ、早く帰りたいことこの上ない。だがまあ、それも叶うことはないだろう。現に今背後から猛烈に嫌な気配がしているのだ。

 おそるおそる振り返る。そこには舌を出しながらつぶらな瞳でこちらを見ているマティーニの姿が。
 そして案の定、勢いよく飛び掛かるように押し倒され、再び顔じゅうをべろべろと舐められることになってしまった。

『こちらスピリタス。見事な腕だった、流石だな。後処理の連絡を済ませ次第、すぐに向かう』
「了解! アタシがこいつを蜂の巣にする前に早く来な!!」
『マティーニか。俺の相棒に随分気に入られているようで』
「ったく、相棒ならちゃんと躾しとけ!」
『躾けているよ。ただ、彼女は少々お転婆なところがあってな』
「彼女!? こいつメスだったのかよ!」

 上機嫌なマティーニを押さえつけながらキャンティは叫んだ。
 その後やはりというか、キャンティはすっかり犬嫌いになってしまったという。


***


「例の任務、問題なく完遂されたそうだ」

 とあるバーカウンター。隣に座るジンが静かに言った。それを聞いたベルモットはいつものような艶やかな笑みを浮かべ「あらそうなの」とさして驚きもしない声色でつぶやく。

「流石スピリタスね」
「ああ。あいつの仕事は無駄がない」

 ジンにしては珍しい賞賛の言葉。なかなかレアな光景だと思いつつ、そうねと相槌を打った。

 スピリタスと聞いてベルモットの頭に浮かぶのは、黒髪褐色の青年よりもその傍にいる犬のマティーニだ。組織に入ってそれなりに長いが、あれほど驚いたのは久々だったので強烈に印象に残っているのである。

 数年前。スピリタスと初対面を果たした際、準備があるからと別室で待っていた時に現れたのがマティーニだった。つぶらな瞳でこちらを見つめる犬に手招きをし、その頭を撫でてやる。手入れが行き届いているのか毛並みがとても心地よかったのを覚えている。

 始めはよかったのだが、徐々に気分が上がってしまったマティーニはどんどんじゃれついてきて、挙句の果てには前足を肩に乗せられ、口元を舐められてしまった。いきなりのことに少し驚きはしたものの、そのうち辞めるだろうと好きにさせていたが一向に止める気配はない。しかも挙句の果てに鼻まで何度も舐められてしまい、流石に耐えられなくなったベルモットはマティーニをなだめ始めた。だがマティーニは何を言ってもそれを止めず、スピリタスが到着する頃にはすっかりメイクがドロドロになってしまっていたのである。

 その後スピリタスからシャワーを借り、すっきりしたところで彼が深々と頭を下げてきた。

『悪かった。女性には懐きやすいとは思っていたが、まさかここまでとは思わなくて』
『あら、珍しいことなの?』
『俺は初めて見たな。この間のウォッカなんて一切見向きもされてなかった』

 なんでも、何度呼んでも見向きもされなかったのだという。その光景を想像してベルモットはくすりと微笑むと、もう一度マティーニの頭を撫でた。

「(……彼女も、ひどい目にあったのかしらね)」

 そんな出来事を思い出しながらベルモットはグラスに口を付ける。
 ハーブの強く香るマティーニが、彼女の舌先を濡らした。