Cattleya
最後に彼女にいってきますのキスを送ってから早一週間。やっと諸々の仕事(ほとんどが本職の方)が片付いて帰宅を許された。本当はもっと早く帰宅する予定だったのだが、思った以上に時間がかかってしまったのだ。テロリスト達はもう少しこっちの予定も考えて事を起こしていただきたい。
車を大急ぎで駐車場へとめ、エレベーターで自分の部屋がある階まで昇る。部屋の前まで来てため息。ああ、やっと帰ってこられた。はやる気持ちで家のドアを解錠する。
「ただいま」
声をかけるが返事はない。構わず靴を脱いで室内へ入る。
時刻はすっかり夜だというのに室内に明かりは点っておらず、どうにも薄暗い。リビングの入り口付近にあるスイッチをパチリと入れれば、一切のタイムラグも無しにリビングが明るくなった。
そこでようやく彼女の姿を捕えることが出来る。彼女はダイニングテーブルに備え付けられた椅子に座っていた。こちらを見て、薄く微笑んでいる。
「ただいま、なまえ」
もう一度言って彼女の頬に触れ、唇に自らの唇を押し当てる。彼女は微笑んだまま黙ってそれを受け入れてくれた。抵抗しないのを良いことに、もう1回、もう1回と何度もただいまのキスをする。
すっかり満足したところで僕は彼女の向かい側の席に座った。頬杖をついて彼女の顔を眺める。相変わらず彼女は僕に微笑みかけてくれて、それだけで1日の疲れが吹き飛んだ気さえしていた。
彼女と僕が出会ったのは、今からもう半年近くも前になる。
探偵の仕事の関係で訪れた店で、僕は偶然彼女を見かけた。その時のことは今でもありありと思い出せる。目を合わせた瞬間に心臓が飛び跳ねバクバクと早鐘を打ち、頬が自分でも信じられないほど紅潮した。人生初の一目惚れ。そしてそれを自覚した数秒後には、僕は仕事もそっちのけで彼女を口説いていた。あまりに突然だったために最初は戸惑っていたが、僕の熱烈なアプローチに折れたらしい。初めて出会ったその日からあまり時間が経たないうちに、彼女は僕の家で一緒に暮らすことになった。
こうして始まった彼女との生活は実に素晴らしいものである。どんな仕事をしていても彼女のために生きて帰ろうと思えるようになり、以前より無茶をしなくなった。
そしてどんなに多忙でも、少しでも時間が開けば彼女の顔をみるために家に立ち寄るようになった。この間、彼女の様子が気になって一時帰宅しようと部下に伝えたところ、これでもかと驚かれたことは記憶に新しい。「降谷さんも人間だったんですね」なんて言うから思い切り締め上げておいたけど。
彼女と暮らすようになってから、人を好きになることとはこんなにも実りのある人生をもたらしてくれるものかと日々改めて実感している。何をしていても僕の頭の中には彼女の顔が浮かぶ。頭の中の彼女はいつだって優しく僕に微笑みかけている。そのたびに僕は彼女のために頑張ろうと思えるのだ。今までだったらこんな風に誰かひとりのことを思い続ける、なんて無かったのに。恋とは人を変えてしまうらしい。
「そうだ、飯」
空腹を思い出した僕は椅子から立ち上がり、冷蔵庫に入れておいた作り置きのおかずをいくつか取り出した。それと同様に白米も。それらをレンジで温め直す。数十秒してレンジが軽快なメロディを奏でたのと同時に中身を取り出した。ふわりと白い湯気と共に、美味しそうな香りがレンジから溢れだす。箸を添えて、先ほどのダイニングテーブルの自分の席へ運んだ。再び席について手を合わせる。
「いただきます」
そうして箸を手に取り食べ始めた。彼女は微笑みを崩さず、僕が食べているのをじっと見ている。
彼女は非常に少食で、ほとんど食事をとらない。というか僕が見ている間は食事をしているのを見たことが無かった。きっと僕がいない間にとっているのだろう。僕が彼女の食事姿を見たことが無いのはほら、僕が帰ってくるのは夜が多いから。ダイエットのために夜は食事をとらないって女性は少なくないらしいし。きっとそういうことだ。
一度僕の手料理を食べてもらいたいけれど、いつも断られてしまう。変わった子だ。まあ、彼女のためならいつでもなんでも作ってやれる自信はあるから、彼女が食べたいと言ってくれるまでじっと待つつもり。彼女が僕の料理を食べて嬉しそうに微笑む姿なんて……想像しただけで口元が緩んでしまいそうだ。
食事をしながら僕は今日1日あった出来事を彼女に話して聞かせる。彼女は聞き上手だから、お喋りな僕はついつい話が長くなってしまう。だが彼女はそれすらも微笑んで受け入れてくれた。普通の女性なら僕の話が長いのを嫌がったりもするが、彼女は違った。物静かな彼女はいつも微笑んで僕の話を聞いてくれる。そういうところが好きだった。もう何度惚れ直したかわからない。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせてから空になった食器を片付け始める。食器を水に浸けてから一瞬自室に戻り、入浴の準備をした。その間も彼女はダイニングテーブルでじっと座っている。本当は彼女と一緒に入ったりもしたかったのだが、彼女が恥ずかしがるから一度も一緒に入ったことは無かった。恥ずかしがり屋で奥ゆかしい所もまた可愛らしくて好きだ。
入浴を終えればもう後は眠りにつくだけ。本当はもうしばらく彼女と戯れていたいが、明日も早い。休める時に休んでおいた方がいいだろう。
僕は未だにダイニングテーブルに備え付けの椅子に腰かける彼女を正面からそっと抱き上げる。彼女は足が悪く、ほとんど自分で歩くことが出来ない。だから毎日こうやって僕が運んでやらなければならなかった。彼女の薄い身体を静かに抱きしめてみる。僕の作る料理を食べれば、もっと健康的になれるだろうに。それを告げるが彼女は微笑むだけ。心なしかその眉は困ったように下がっている気さえした。困った顔も可愛い。
ふたりの寝室へ着き、彼女をベッドに下ろす。横たわった彼女は大人しく布団にくるまった。僕もその隣に腰かけ、布団に潜り込む。
そうっと手を回して彼女を後ろから抱きしめた。彼女の香りがふわりと僕の鼻孔をくすぐる。
「おやすみ、なまえ」
小さく呟いて、僕は静かに眠りにつく。
おやすみなさいと、彼女の声が聞こえた気がした。