一人ライラックに縋る

 土曜日のお昼過ぎ頃。少し客が減ったであろう時間帯。いつものように私は行きつけの喫茶店に足を運ぶ。
 だらだらと滑り落ちる汗を拭いてドアを開ける。カラランと明るいドアベルの音が鳴って、店員である梓さんがこちらへ視線を向けた。明るく笑って挨拶をする。

「こんにちは梓さん!」
「あらいらっしゃいなまえさん。今日も勉強?」
「はい、そのつもりで来ました。席空いてますか?」
「そう訊くだろうと思って、いつもの席空けておいたわよ」
「やった! ありがとうございます!」

 明るくお礼を言えば梓は優しく微笑む。こちらの席へどうぞ、と案内されたのは私がいつも座る席。店の一番奥にあるテーブル席だ。ここなら人の通りも最小限だし、少しくらい長居しても目立たない。私はさっと席に腰かけて鞄をその隣に下ろす。ほどよく効いた空調にほっと息をついた。お冷を持ってきてくれた梓さんが私に尋ねる。

「注文はいつものコーヒー?」
「あーいや、今日はアイスコーヒーにしようかな」
「そっか、今日は特に暑いもんね」
「そうなんですよー、ここに来る時も汗だくだくで」

 ぐでっとした顔で火照った顔をぱたぱたと仰ぐ。梓さんはニコニコと私の注文を聞いて厨房の方へ向かった。
 お冷をぐいっと飲み、よしとひとり気合を入れる。背負ってきた鞄の中から参考書とノート、筆記用具を取り出した。

 現在高校三年生の私は、世間のおたぶに漏れず受験生である。志望校は東都大学。家庭の懐事情により、塾や予備校は通わせてもらえない中での東都大志望はかなり高い目標だと思ったが、昔からの夢を叶えるために努力は惜しんでいられない。

 放課後は毎日図書館で夜遅くまで勉強しているのだが、毎日それだとどうにも飽きてしまう。そこで最近は週末の午後限定でここ、喫茶ポアロで勉強させてもらっているのだ。なるべく忙しい時間帯をさけて訪れるため、2時間以上はゆったりと勉強できる。マンネリ防止と息抜きがてら通い始めたのだが、これがとても集中できるのだ。最近ではすっかり店員さんに顔も覚えられて、常連客の仲間入りである。

 今日の勉強は苦手な数学。根っからの文系である私の天敵だ。参考書を睨みつけながらうんうん唸っていると、すっと私の目の前にアイスコーヒーが差し出される。

「お待たせしましたなまえさん。アイスコーヒーです」
「安室さん」

 そこに立っていたのは、もうひとりの顔見知り店員の安室さんだ。ここ最近アルバイトに入ったらしい、イケメン店員さんである。女子高生からマダムまで幅広い女性層に人気なんだとか。私はまあ……かっこいいとは思うけど、キャーキャー騒ぐほどでもないかなあ。どちらかというと私はもう少し落ち着いた……眼鏡をかけた温和で優しそうな人がいい。

 持ってきてくれた安室さんに軽くお礼を言ってアイスコーヒーを受け取る。じゅーとストローをくわえてアイスコーヒーを啜れば、ぐじゃぐじゃと絡まった頭が多少は落ち着いてくれたような気がする。多少は、だけど。
 そんな私を見て、安室さんは微笑み交じりに言う。

「勉強、頑張ってるみたいですね」
「夏を制する者が受験を制するって言うじゃないですか」

 だから頑張らないと、と私は笑う。
 そこで先ほど店内にいた団体の女性客がいない事に気付く。私以外の客もまばらだ。もしかしたら、安室さんもちょうど一息つきたかったところなのかもしれない。

「座ります? 私は別に気にしませんよ」
「でも勉強の邪魔に」
「いいんですよ。ちょうどわかんなかったから休憩しようかなーって思ってたところだったし。それに安室さん、教えるの上手いから」

 以前に数学を教えてくれた彼の姿を思い出す。にっと歯を見せて悪戯っぽく笑えば彼はやれやれといった風にため息をついて、じゃあお言葉に甘えて、と私の目の前に腰かけた。私はこれ幸いと参考書を彼の方に向ける。

「ここ! 全然わかんないんです! 教えてください!」
「どれどれ……」

 座るのを渋った割にはノリノリで安室さんは参考書を覗き込む。私が指さした箇所の問題文を読むと、ふっと口角を上げた。
 そこからは安室先生のわかりやすい解説。先ほどの混乱は何だというほど簡単に理解でき、私は思わず声を上げてしまうほど感動していた。

「すっごいわかりやすいよ安室さん! 家庭教師に雇いたいくらい! お金は無いけど!」
「はいはい、わかったからこの問題自分で解いてみて」
「はーい」

 元気よく返事をしてシャーペンを握る。安室さんの分かりやすい解説のおかげで向かうところ敵無しだ。なんなら鼻歌を歌いながらでも解ける気がする。
 さらさらと問題を解いていると不意に安室さんが話しかけてくる。

「なまえさんは確か、東都大学志望でしたよね。何学部を目指してるんですか?」
「一応法学部を。なかなか高い目標なので、難しいっていうのは自分でもわかってるんですけどね」
「いやいや、きちんと目標を決めてこうして頑張っているなまえさんは偉いですよ。それで、法学部を目指しているということはやはり弁護士に?」
「はい。ゆくゆくはそうなりたいなと。……昔からの夢だったんです、正義のヒーロー」
「せ、正義のヒーロー、ですか?」

 少し驚いたように安室さんは目を丸くする。
 それもそうか。法学部を目指している女子高生の口からいきなり「正義のヒーロー」なんて単語が出てきたら、誰だってこんな顔になる。実際今まで話した友人はみんな似たような顔をするか馬鹿にしたように笑っていた。でもどんな反応をされようと、私の決意は変わらない。

「笑ってもいいんですよ?」
「笑いませんよ。少々、意外だっただけです」

 何かあったんですか、と安室さんは自然な流れで訊いてきた。私は問題を解く手を止めずに話し始める。忘れもしないあの日の出来事を思い出しながら。

「今から4年くらい前……私がちょうど中学2年生だった時。学校から帰る途中で、ふと近くの公園を通りかかったんです。そうしたら、小学校低学年くらいの男の子が中学生くらいの身体の大きな男の子数人に囲まれていじめられてたんですよ」

 泣きながら男の子が叫んでも、男の子たちは面白がるばかりで一向に手をとめようとしない。それどころか次第に酷くなっていく。

「止めなきゃって思ったんです。周りに私以外の人はいなかったから。でも足が動かなかった。もし矛先が私に向いたら対処することが出来ない。そもそも、部外者の私に何が出来るんだろうって。……目を背けてその場を後にしようとしたその時、ひとりの男の人が現れたんです」

 どこからともなく颯爽と現れた男の人はすぐさまいじめていた男の子たちを追い払い、いじめられていた男の子を助け出した。
 ――まるで、フィクションの世界で活躍する正義のヒーローのように。

「男の人はその男の子の手当てをしてあげながら、その子に言ったんです。『怖かったろ? もう大丈夫だ、よく頑張ったな』『お兄さんは君の見方だよ。だから安心していい』って。そうして涙を流し始めた男の子にずっと優しく寄り添ってあげていました」

 安室さんは黙って話を聞いている。顔を上げずに話しているおかげかその表情を窺うことは出来ない。

「その姿を見て私は決めたんです。いつかお兄さんみたいな正義のヒーローに……弱い人の見方でいてあげたいって。だから弁護士に」

 問題を解き終わりシャーペンを置く。ふと顔を上げれば、安室さんは普段とあまり変わらない表情のままだった。解き終えた私のノートを手前に寄せながら尋ねる。

「なるほど……そんなことがあったんですね。因みに、その男の人はどんな方だったんですか?」
「その男の人ですか? えっと……」

 視線を上げて記憶を手繰り寄せる。おぼろげな記憶をひとつひとつ確認していく。

「髪の色は黒くて、長さは短め。安室さんよりちょっとだけ背が低くて、中肉中背って感じで……歳は多分、安室さんと同じくらいだったと思います。優しそうな声で、元々つり目がちなんだけど、笑うと猫みたいにきゅって上がって……ああそうそう! 髭! うっすらだけど顎髭生やしてました!」

 数年前の彼の姿をやっと思い出す。名前は知らないし、あれ以来一度も会えていなかったが、どこかで元気にヒーローやっているだろうか。もしまた会えるなら会いたいなあ、なんてぼんやりと懐かしい気持ちに浸っていたその時。

 採点をしていた安室さんの手がぴたりと止まった。

 どうしたのだろうと彼の表情を窺うと、まるで幽霊でも見てしまったかのように目を見開いている。彼のそんな表情を見るのは初めてだった。

「安室さん……?」

 そっと声をかければ、安室さんはハッとしたように取り繕った笑みを浮かべる。

「もしかして知り合いでした?」
「いえ、知っている人かと思っていたんですが……どうやら人違いだったようです」
「そうですか」

 採点し終えたらしい安室さんがさっとこちらにノートとペンを返す。そしてガタリと椅子を引いた。

「すみません。これ以上はマスターに怒られてしまいそうですし、そろそろ戻りますね」
「そうですか。勉強見てくれてありがとうございました!」

 私がお礼を言えば、彼は優しく微笑む。

「……お礼を言うのはこっちのほうだよ」
「え?」

 小さく呟かれた言葉がうまく聞き取れず思わず聞き返してしまったが、安室さんは何でも無いと言ってテーブルを離れて行ってしまった。

「……変なの」

 テーブルには大きな花丸のついたノートと、ぽかんと間抜けな表情の私だけが残される。
 からりと、溶けたアイスコーヒーの氷が音を立てた。


***


 閉店作業を終え、僕はひとり小さくため息をつく。誰もいなくなった店内で、ひとり彼女のことを思い出していた。

 正義のヒーローになりたいのだと、可愛らしく笑う少女。
 その口から語られる、ある男のエピソード。

「……まさかあの子からこんな話が聞けるとは思わなかった」

 昼間休憩がてら座っていた席に腰かける。目の前には何もない。カチカチと時計の秒針の音がうるさく聞こえる。

「あの子の中ではずっと生き続けてるんだよな……ヒロ」

 頬杖をつきながら、今はもういなくなってしまった親友の名をつぶやく。
 思い出に浸るように、ひとりゆったりと目を閉じた。


<ライラックの花言葉……『思い出』>