目を覚ますと、真っ白で無機質な天井が広がっていた。身体を起こそうとするが、筋肉を動かした瞬間鈍い痛みが節々を駆け巡る。


「なまえ?!気がついたのか?!」


白衣に身を包んだスラリとした男性が駆け寄ってくる。ほっと安堵した表情を浮かべているその人に、一つの疑問を投げかけた。






「、、あの、なまえって、私のことですか?」






**********




記憶喪失、そう診断する先ほどの男性は、森さんと言うらしい。私は、いままでの生きてきた記憶がポッカリと無くなってしまったようだ。とは言っても、言葉や文字のような生きていく上で欠かせない知識は残っているから、なんとも不思議なものだ。
私を見つめる森さんは、「本当に、なにも覚えていないんだね、、?」と再度尋ねてくる。



「はい、、、ごめんなさい」


「謝らなくていい。此方で打てる手は全て打とう」



悲しそうに笑う森さんは、私の名前はみょうじなまえだと教えてくれた。みょうじなまえ、頭の中で何度も反芻するが、ピンとこない。
森さんに曰く、私は丸々一週間、昏睡状態だったらしい。如何やら、何かの事件に巻きこまれて、頭を含み全身を強く打ち付けた事が記憶喪失の原因かもしれないとの事だが、一体どんな事件に巻き込まれたらこんな重傷を負うのだろう。

意識が戻ってからというもの、沢山の人が代わる代わる私の病室に入ってきたが、「初めまして」と挨拶するとその度に悲しそうな顔をされた。赤の他人の見舞いに来る人なんていない。きっと、その人達は私の友人や同僚、ひょっとしたら家族だったのだろう。
ベッドの横に備え付けられた鏡を見ると、髪の長い不安そうな顔をした女が私を見てきた。これが、私の顔。
名前だけでなく顔も忘れてしまったようだ。





「幾らみた所でその面は変わんねえぞ」





鏡を呆然と見つめていると、その人は花束と紙袋を手に病室に入ってきた。また、この人だ。




「中原さん、こんにちは」



「だいぶ動ける様になったみてえだな」



「はい、おかげさまで」




別に俺は何もしてねえよ、そうぶっきらぼうに返す中原さんは、時間帯はバラバラだが何故か毎日この場所に訪れる。



「また新しい本を持ってきてくれたんですか?」



「あー、まあな。こんなとこに居たんじゃ暇だろ」



中原さんの言うとおりだった。起きあがれるようになったとはいえ、まだ満足に身体を動かせない私は基本的に一日中ここに居る。
そんな私を気遣ってか、中原さんはいつも小説や哲学書、歴史書といった様々な分野の本を持ってきてくれる。不思議な事に、そのどれもが私の好みに当てはまるのだ。
最初は毎日見舞いに来てくれる中原さんに申し訳ない気持ちで一杯だったが、今となっては彼が来る事が私の中で唯一の楽しみになっている。




「、、まだ、何も思い出さないのか?」



新しく渡された本の表紙をまじまじと見ていると、そう投げかけられる。
意識が戻って、もう10日が経つが自分の事は疎か、周りの人達のことも何も思い出せていない。



「困ったもので、まだ何も、、私、これからどうなっちゃうんですかね」



このまま、記憶のないまま生きていくことは不可能ではないだろう。幸いな事に、身体も不随になったわけではないみたいだし。しかし、何不自由なく生活するのはきっと叶わない。
何より、今まで自分の歩んできた人生を失ってしまった事が、途轍もなく哀しくて悔しくて堪らなかった。



「生きてりゃ如何にでもなるだろ。それに、手前が自分のことを覚えてなくても、俺たちは覚えてる。だから心配すんな」



思い出せない過去と先の見えない未来に底知れない不安を突きつけられていたが、中原さんのその言葉で、少し希望が見えた気がした。そっか、そうだよね。生きてさえいれば如何にかなる。今の私にできることは感傷に浸ることじゃない、早く怪我を治し、記憶を戻すことだ。




**********




今日も、目が醒めると其処には無機質な白が広がっていた。そして、記憶は相変わらず戻っていない。
ようやく、ゆっくりではあるが立ち上がり歩けるようになった私は、恐る恐るベッドから降り、化粧台にむかい鏡を見る。やっぱり、長すぎる。
無造作に伸びた髪の毛は、胸の下までの長さがあった。凄くみっともないなあ。確か、この辺りに鋏があったはず。



化粧台に備え付けられている椅子に座り、ゴミ箱を膝に乗せ鏡と向かい合う。せめて、鎖骨あたりまでは切ろう。
頑丈に包帯が巻かれているため、あまり自由の利かない手で切るのは少し不安だけど、如何にかなるだろう。
髪の毛を一房掴み、右手に持った鋏でいざ切らんとしたその時、ガラリと病室の扉が開いた。



「あ、中原さん。今日はお早いんですね」



「、、、何やってるんだよ」



「見ての通り、散髪です」



「その手でするのか?一つ間違ったら首もと切るぞ」



中原さんにそう言われ、サァッと血の気が引いた。危ない危ない。せっかく傷が治りかけて来て、包帯も減ってきたところなのに。




「貸せよ、それ」



「え?それって、鋏のことですか?」



「他に何があんだよ。俺が切ってやる」



いつもはめている手袋を外し、鋏を握った中原さんと鏡越しに目があった。何だか、今日は機嫌が悪そうだ。




「何から何まですみません。本当、何で私こんなに髪の毛伸ばしてたんですかねハハ」



「、、さあな。好いてる野郎にでも髪の毛を褒められたんじゃねえの」



「ええっ、私、そんな単純な女だったんですか?」



「可能性の話だよ」



シャキリ、シャキリと鋏が擦りあうたびに私の髪の毛はハラハラと落ちていく。その毛先は意外にも、あまり傷んでなかったから、記憶があった頃の私はちゃんと手入れをしていたらしい。ひょっとしたら、中原さんの言うとおり思い人に髪の毛を褒められたから伸ばしていたのかもしれない。だとしたら、本当単純だな私って。
器用に私の髪を切っていく中原さんの手に目をやると、キラリと光るものが見えた。薬指にはめられたそれが何だか分からないほど、私も呆けてはいなかった。





「その指輪って、婚約指輪ですか?」




思ったことを口にすると、それまで滑らかに動いていた手先がピタリと止まる。あ、あれ。ひょっとして、地雷踏んじゃった?
微動だにしない中原さんに、「あの、」と声をかけようとしたが、不意に後ろから抱きしめられそれは叶わなかった。治りかけの傷が少し痛むが、そんな事気にしてられない。




「中原さん、、?」







「、、、何で、何で忘れちまったんだよ」



震える声と腕に、戸惑う事しか出来ない私は、如何していいかわからず自分の手を握る。ふと、硬い何かが指の付け根にあるのを感じた。
包帯をずらし、そこを確認すると、銀色の光を放つ中原さんのものと同じそれが左手の薬指にあった。なんで、私の指にもこれが?
回された腕に、そっと手を添える。記憶のない私にできる事は、それが精一杯だった。
ふわりと香る、自分のものではない中原さんの匂いに、言いようのない痛みで心が締め付けられたのは、如何してなんだろう。






また来ん春






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