例え刹那であったとしても




帰宅して玄関に上がるとき、きちんと靴が揃えられているところ。
サングラスを外し、素の、凪いだような表情に戻るところ。
シャワーを浴びたあと、普段はぴしゃりとセットされ後ろへ流している髪が降りているところ。
手触りのよい部屋着のTシャツは良質な綿で、それを纏うと周囲の空気も柔らかくなるところ。
ソファに腰かけて長く息を吐いた後、肩の筋肉をほぐすように後方へ首を反らしたときに露わになる首筋と喉仏の逞しさ。
どれもこれも、私しか知らない七海建人の姿だ。

普段は鋭く光る瞳を瞼で隠し、首を左右に倒している彼にキッチンから声をかけた。

「何か入れようか」
「…冷蔵庫の炭酸水を一杯、もらえますか」
「ん、わかった」

今日はお酒の気分じゃないらしい。
言われた通りに冷蔵庫から強炭酸水のボトルを取り出して、グラスに注いだ。細かい泡が立ち上って、水面に達するとぱちぱちと小さな音を立てて弾けていく。

「レモン絞るね。いい?」
「…ありがとう」

珍しくくたびれている様子だから、気分転換にと酸味を足した。
そういえば、生のレモンが常備されている家も珍しいと思う。ちなみにライムもある。主にお酒用。
爽やかな香りが漂うグラスをはい、と手渡すと、彼はふっと目を細めて微かに笑んだ。

「いただきます」
「どうぞー」

私も七海の隣に座った。ごく、ごく、と二酸化炭素を含んだ水が喉を落ちていく小気味よい音と上下する喉仏に男らしさを感じる。
一気に半分ほど飲み下し、ふ、と鼻から息を抜いて、彼はそっとグラスをテーブルに置いた。

「ちょっと疲れてる?今日の任務、重かったの?」
「いえ、朝が早かったのと移動疲れでしょう。祓除自体は問題なく済みました」
「同行は伊地知君?」
「ええ」
「伊地知君、気張っちゃうタイプだから向こうも疲れたかもね」
「…緊張させないようにと務めてはいるんですが。本音を言うと貴方と一緒が良かった」

横目で私を見遣った。身長差的に少し目を伏せるような感じになる、七海のこの優しい目線がとても好きだ。

「ふふ、ありがと。七海となら移動も苦じゃないし、帰りも一緒だし私もそっちがいいなぁ」
「やはり、なかなか合わせてもらえなくなりましたね。残念だ」

私たちは元々気の知れた同期だった。私は卒後そのまま補助監督になって、七海は一度この世界から退いた。しばらくして七海が呪術師として出戻ったあと、恋人同士になった。
それを高専に報告してからは、これまでのように任務が一緒になることは少なくなってしまった。

「しょうがないよ。私情が絡むと思われる方が面倒だし。それに、私たちのことをちゃんと報告しておけば、お互い何かあったとき真っ先に連絡が行く。その関係性が欲しかったから」
「何もないに越したことはないですけどね」
「だって七海が時々無茶するから」
「貴方だってそうでしょう。補助監督なのに出張ってしまうと聞きます」
「場合によって、だよ。学生に無茶はさせられないもの。誰かさんに似てきたの」
「…ふ」

口元を骨ばった手で押さえ、七海は笑った。少しだけ嬉しそうに見える。この表情も、私だけのものだ。

「だから、お互いのために関係は公にしておくべきだと思ったの。七海もそれでいいって言ったでしょ」
「ええ。私も、あかりさんに何かあったときには一番に連絡が欲しい」
「ん、なら二人の時間はプライベートで充実させるということで」

私だけの七海と、七海だけの私。それがあるならそれでいい。十分に幸せだと思っている。
この世界に足を踏み入れてから、刹那的な幸せであってもそれがいかに尊いものか、痛いくらいに学ばされたのだから。私たちだけでなく皆そういうものを抱えている。そんな人たちに囲まれて働けることもある意味幸せなのかもしれない。

「…本当は」
「ん?」
「高専だけでなく法律上でもと、考えてはいますが」
「え?なにそれ、プロポーズ?」

色気のない言葉が飛び出してしまった。だって唐突すぎる。
すぐそこにいる七海はちょっとだけ楽しそうに見えた。年齢相応に、揶揄うような面白がるような試すような、そんな表情。

「あくまでもこれは前置きです。貴方に覚悟を定めてもらうためのちょっとしたジャブだと思っていてください。そのときがきたらきちんと伝えます」

きっと最善のタイミングで万全のコンディションと最高の環境を用意して、もしかしたら指輪までしっかり誂えて、私をその場に迎えるのだろう。七海建人はそういう男だ。気障ではなく、ごく自然に、私のためならと言ってそれを喜んでしてしまうような男。
なんて男を恋人にしてしまったんだろう。幸せが過ぎる。
きっと今の私の顔は、高専の誰にも見せられないような、女の顔をしていると思う。

「…楽しみにしています」
「素直でよろしい。さ、そろそろ休みましょう。明日も早いですよ」

火照った顔は上げられなかった。そのまま、七海に手を引かれて寝室へ向かう。
ふわふわの布団に、二人の匂いがするシーツ。その隙間に滑り込む。七海の両腕がゆるく私を抱いて、耳元でおやすみなさい、と囁かれた。低く、掠れたような声。鼓膜を震わせて、それが脳に伝わってくるのが快い。
ずるい。まだ私は眠れそうにないというのに。目の前の彼は何とも力の抜けたリラックスした様子で、やわやわと思考を手放そうとしている。眉間の皺が消えて、子どものような寝顔と可愛らしい寝息。胸が苦しくなるが、これがきっと愛しいという気持ちなんだろうと思った。


明日の朝目覚めた彼が、低血圧で不機嫌極まりないいつも通りの七海でありますように。
それも私の大好きな七海建人の姿だから。そう願って、私もとりあえず両の瞼を降ろした。





top