(side 赤司)
 名前がどこかへ走り去ってから、暫く呆然としていた。
 泣いていた。誰よりも大切な幼馴染みが。そうさせたのは、他でもない僕自信。
 ――征十郎だけを、想ってたのに。
 先程告げられた言葉が、頭の中で繰り返される。
 名前が僕のことを? しかし彼女は玲央と付き合っているんじゃ。否、それは今し方名前自身によって否定された。
 勘違いをしていたんじゃない。全てが態とだ。何かの為に変わり始めた名前にどこか寂しさを覚え、目に見えて僕を攻めようとする名前が可愛くて、つい、意地と悪戯心とがでしゃばってしまった。
 泣かせるつもりは毛頭なかった。
 玲央の手でより綺麗になっていく名前を見ていると、ぞわぞわしたものが身体中に走る。ただ気に入らないだけだ。
 普段こそ男らしい言動を見せたりするが、名前は紛れもない女だったのだ。昔から傍にいてよく知っているのに。僕もまた、ただの一人の男だったようだ。

「征ちゃん、いい加減気付いてない振りしてんじゃないわよ」

 突然の声に、ゆっくり振り向く。
 何時の間にか出入口に立っていた玲央の表情を見れば、怒っていることがすぐに分かった。この様子だと、どうやら初めからいたらしい。

「何が言いたい」
「分かってんでしょ。あの娘の気持ちと、征ちゃんの気持ち」

 ピリ、と体育館に緊張が走る。
 そんなものとうの昔から分かっている。お前に言われるまでもない。
 心の中で言い返す。
 分かっていても見て見ぬ振りをしていたのは、どこか心中で大丈夫だと安心していたからでもある。
 否、結果名前を悲しませてしまったのだから、今更こんなことを考えたって無駄だ。今僕がやるべきことはきっとそれではない。

「僕が正しい筈なのに、どうも名前のことになるとおかしくなるね」

 ぽつりと言い残し、僕は玲央の横を通り過ぎるように走り出した。二人共世話がかかるんだからという溜め息を背に受けながら。


◇◇


 終わった。終わってしまったのだ、呆気なく。
 どうやら長く長く育て上げてきた数年来の気持ちは、その先端さえ届くことなくその生涯を終えるらしい。
 賑やかな声は遠く、踞って啜り泣く私の声だけが聞こえた。
 どうしよう。これじゃあ戻れないな。
 はぁと溜め息を吐いて、取り敢えず自身を落ち着かせようとする。ぼやける視界には、揃えられた膝と綺麗になった爪が映る。そうだ、マニキュアも落としたんだった。
 髪も、メイクも、口調も、何もかも変えたのに。駄目だった。
 お前が勝手にしたことだと言われたらそうなのだが、言い知れぬ悔しさは涙となって溢れ出てきて止まらない。しまった、余計涙出てきた。

『っ、こんなの……!!』

 こんなもの、もう有ったって意味が無い。
 髪の毛をぐしゃぐしゃにしようと頭に手を置く。しかしそれが動くことはなかった。

「折角綺麗なのに、そんな勿体無いことをしようとするな」
『……征、』

 私の腕を掴む手を伝って顔を見る。走って来てくれたのか、その息は荒くなっていた。
 何でここにいるのかと問うと、僕に分からないことなんかないと返される。違う、私が訊きたいのはそうじゃなくて。

『何で私を追ってきたの』

 嗚咽混じりの涙声が出る。
 いくらウォータープルーフであれど、酷い顔には変わりない。見られないように顔も背けた。

「僕が泣かせてしまったんだ。放ってはおけない」
『憐れだって言いたいのかよ……そんなの、余計惨めにっ』
「違う。僕は名前だからここに来た。ずっと、名前だけを見ていたから」

 耳を疑った。驚きからか、止まることを知らなかった透明な液体が、頬を滑るのを止めた。
 そんなの、都合良く捉えてしまうよ。何故。私だからって、何。
 征十郎は普段から冗談等を言う人じゃない。そんな彼がこんなところで、人をからかうようなことを言う筈がない。そう分かっていながらも、どうしてか信じられなくて、強く強く膝に顔を埋めた。
 反面、綺麗だという単語だけが胸を旋回し続け、単純すぎると罵られそうなくらい胸が高鳴る。

「嫉妬したり意地を張ったり、全く僕らしくもない。本当にすまなかった」

 優しい手付きで頭を撫でられる。懐かしいその手のひらは、私の記憶より遥かに大きい。声色もどこか優しく、幼い頃を思い出させる。
 思わず顔を上げて、一つの言葉を繰り返す。

『……嫉妬?』

 征十郎が?
 まさかと思ったが、微妙に目を逸らして口元に手の甲を当てている。その人間らしい仕草に目を点にした。
 恥ずかしいものだ、と溜め息を吐くと、僅かに俯いて征十郎は喋りだす。

「仕方ないだろう。綺麗だと言ったが、他の男に見立てられたお前なんて正直何も面白くないからね」

 妙に現実味のない光景に、まさか夢じゃなかろうなと頬をつねってみた。痛い。夢じゃない、嘘じゃないんだ。
 まだ死んでなかった、この想いは。
 口元が弛んでいるのが鏡を見ずとも分かった。何笑ってるんだ小さく小突かれたが、不満げだった征十郎の表情も段々と笑顔に変わっていく。そのまま、珍しく柔らかい笑顔のまま、征十郎は近付いてくる。それに反応する間もなく、私の唇に何かが押し当てられた。

『……っ!?』
「今の色も悪くない。が、やはり名前には赤が一番似合う」

 朱に染まっているだろう私の頬が、大きな手に包まれる。そしてもう一度、形のいい口唇と私のそれを重ね合わせた。
 淡い色を放っていた恋心が、赤く、赤く色付いた。


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