修学旅行という名目で何故か無人島に連れてこられてから、既に十日は過ぎた。最初こそ只々混乱するばかりだったが、自分の置かれた境遇に、俺を含め誰もが何も思わなくなってきている。人間の順応性も嘗められたものではないと思う。
 本日の採集も終わり、俺は、引率の先生だと言うウサミから貰ったお出掛けチケットを片手に、ある人物を探していた。
 しかし、探せど探せど見当たらない。おかしいな、何時もなら目の届く範囲には居る筈なのに。首を傾げつつ仕方が無いから取り敢えずホテルのロビーに戻ると、相変わらずゲームをしていた七海にそいつの居場所を訊いた。

「七海、苗字見てないか?」
「……んー、苗字さんなら旧館に行くって言ってたよ」
「旧館?」

 偶々会った七海が知っていて良かったと思うと同時に、何故またホテルの旧館に行くのかという疑問がわいた。
 彼処には広間と汚れた倉庫、厨房、事務室がある。用事の対象として有り得そうなのは厨房ぐらいだが、花村以外は滅多に使わないし行きもしない。そもそも、図書館、海、遊園地や軍事施設と余暇を埋める為の施設は揃いに揃っている為、旧館に行くこと自体がないのだ。
 何をしているんだろう。七海に礼を言って、俺はすぐに目的地へと向かった。中に入り、ギシギシと音を立てる廊下を進む。広間を見て、事務室も確認する。トイレ……は流石に無いから残るは二部屋だ。
 って、俺はストーカーかよ。はは、冗談じゃない。
 そう一人苦笑しながら厨房の扉を開けた。僅かに開いた隙間から、ぶわりと甘い臭いが漂ってくる。もしやと期待を込めて中に入れば、質素なエプロンを身に付けた苗字が此方を見ていた。

『あれ、日向くんだ』
「やっと見付けた。何やってんだ?」
『ご覧の通り、お菓子作ってんの』

 これが巷でよく言われる女子力というやつなのだろうか。割りと粗雑で、澪田と揃えば五月蝿いと思わせる程の普段の彼女とはおよそ結び付かない光景だった。多分これを言ったら酷いよ日向くんと大声で捲し立ててくるのだろう。
 只、エプロンというオプションがあるせいか、今クッキーが焼けたところだと笑う苗字が何時もより可愛く見えた。こうしていれば只の女子なんだけどな。日常でのこいつに少しばかり残念に思うが、今この可愛い苗字を俺が独り占め出来るのだからもう何だっていい。
 だが、これだと何処にも行けない。今日は諦めよう。持っていたチケットを、バレないようにポケットに押し込んだ。

『日向くん』
「何、むぐっ」

 瞬間、温かい甘い味が口に広がる。咀嚼すればサクサクと音を立てるこれは、今しがた焼けたと言っていたクッキーだろう。
 感想を求めているのだろうか、飲み込むまでの間、期待したような目でジッと見られた。流石に恥ずかしいから止めてほしい。自然的に頬が熱を持ち始めた。

「す、凄く美味いよ」
『本当!? よっしゃ!』

 拳を作って笑う彼女は文句無しに可愛い。
 それより、勝手に口に入れられたものだから気にする間もなかったのだが、よくよく考えるとこれは俗に言うあーん、てやつじゃないか。口に手を当て、多分赤くなっているだろう顔を隠そうと苗字から背ける。まさかこんな成り行きで恋人みたいなことをするとは思わなかった。心臓に悪いぞ。
 一人で悶える俺等に気付かず、苗字は近くにあったボウルと泡立て機を取り忙しなく手を動かし始めた。
 暫くの間、シャカシャカと混ぜる音だけが響く。初めはリズミカルだったそれは、すぐに崩れていく。
 程々に熱が治まってきた頃、チラリと苗字を見ると、いつの間にか持ち換えたらしい左手で苦戦していた。
 閃いた。これは俺が留まる理由に使えるんじゃないか。

「俺がやるよ」
『え、でも日向くんは』
「いいから、さっきのクッキーの礼だと思ってさ」

 下心を隠してそう言うとあっさり渡してくるあたりは何時も通りだ。疲れたんだな、やっぱり。
 慣れないながらも泡立て機を動かす。
 恐らくメレンゲというやつだろう。クッキーに付けるのか、また別のものを作るのかは分からないが、取り敢えず混ぜよう。
 採集に比べたら訳無いが、確かに地味に腕が疲れる。しかしここは意地だ。気になる娘には少しでも格好いいところを見せようという思考は、大抵の男が持っているものだろう。
 頬の筋肉を弛めながら俺を見てくる苗字に、何だよ、と言う。今日のこいつは何時に無く笑っている気がする。

『や、日向くんとお菓子作りとか新鮮だなーと』
「そうだな。俺も、殆どしたことないし」
『……嬉しいな』
「え?」
『日向くんと居るとなんか安心するんだ。だから、日向くんが態々私を探して、一緒に過ごしてくれてるのが、凄く嬉しい』

 ボウルに泡立て機を落とした。カシャリと音が響いても、驚愕が勝って何の反応も出来ない。
 聞き間違いでなければ、今凄く嬉しい言葉が聞こえたんだが。返答を探そうにも、情けないが言葉にならない声しか出てこない。
 あ、日向くんのアンテナが立った。そう言ってまた笑う苗字の頬は朱に染まっていた。
 畜生。何で今日のこいつはこんなにも女子なんだ。


270310



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