ここに来て一度目の夜が過ぎた。
自分に宛てがわれた使用人用の部屋は、それでも充分に広かった。ベッド、机、クローゼットに窓。この家では最低かもしれなかったが、私はそれよりも下で過ごしてきたから申し分無い。(もちろん元の生活も充分快適だった)
今身体を包んでいる布団も枕もふかふかで、起きたばかりというのにまた眠たくなってしまう。
うとうと。あっ、駄目駄目。うとうと。お、起きなくちゃ……。
寝惚けたまま布団から這い出ると、ベッドの端から落っこちた。頭から、べちゃっと。
『いっ、たぁ……』
顔面を摩りながら、一人部屋でよかったと心から思った。こんな恥ずかしいところ誰かに見られて堪るか。
しかしその衝撃で目は完全に冴えた。壁に飾られている時計は午前五時前を指している。初日にしては上出来上出来。
クローゼットから所謂メイド服と呼ばれる仕事着を取り出し袖を通す。私のそれは他の人と違って全部が真っ白。なんでもこの屋敷では、見習いや幼いメイドは白、正規のメイドは黒のワンピースを来て区別されるらしい。うーん、こんなに綺麗な白だとすぐに汚してしまいそうで怖い。
髪も整えて一通りの身支度を終える。鏡に写った自分は、それでもどこか垢抜けない田舎娘だった。
『おはよう、ございます』
一階に下りると、既に何人かのメイド達が忙しなく歩いていた。その中にはお姉ちゃんの姿もあり、傍で老齢の女性が何かを説明している。
自分としては早起きだと思ったのに、ここではこれでも遅かったのだろうか。不安になりながら挨拶をすると、思っていたよりも小さな情けない声が出た。
「おっ、おはよう。マリアンといい早いね」
その声を聞き取ってくれた、近くで大理石の床を掃除していた女性が顔を上げた。茶色の髪を後ろで一つに結んだ、細身の若い女性だ。その笑顔で言われた言葉に安心感を覚える。
よかった、寝坊したわけじゃないんだ。
ほっと息を吐く。初日からそんなことになってしまったら大変だなんていくら私でも分かる。
きょろきょろと見回すと、お姉ちゃんはもう別室へと移動したのか姿を消していた。ああ、話しかけるタイミングを逃した。今度は溜息が出た。ううん、お姉ちゃんに頼ってばかりじゃ駄目だ。自分から動かないと。気合を入れようと拳を作ると、クスクスと楽しげな笑い声が耳に入った。
彼女は大人だが、とても子供っぽい顔で笑っていた。
「ごめんごめん。ころころと表情が変わるのが可愛くて、つい」
『はあ……』
ずっと都会の女性は大人びているものだと思っていたので、ちょっとだけ驚いた。あの老齢のメイドももしかしたらこんな顔をするのかと思うと、結局いつまでも子供っぽさは抜けきらないんじゃないか、なんて。
そんなことを考えているうちに、女性は笑顔のままモップとバケツを各々両手に持ち歩き始めた。自分が何をすればいいのか、何が出来るのかなんて分からなかったけれど、水が並々と入ったバケツを片手で運ぶことがどれだけ大変かは知っている。手のひらには食い込んだ持ち手の跡がつき、下手をすれば零れてしまう。慌ててその背を追いかけて私が持つと告げると、今度はさっきの幼げな表情ではなく、大人の女性の笑みを浮かべてありがとうと言った。
奥が深い、のかなあ。いつか姉も私もこんな風に両面性を持つのかと思うと、やはり不思議だった。
流れで私も床掃除をすることになり、いつの間にかモップを持ち、いつの間にか床をせっせと磨いていた。
女性の名前は、リザ、と言うらしい。彼女は生まれも育ちもダリルシェイドで、ここのことで知らないことは無いと自慢気に語っていた。
『私もお姉ちゃんも田舎生まれの田舎育ちなんで、色々なものが新鮮です』
「おっ、なら今度の休みにでも私がダリルシェイドを案内してあげようか?」
『本当!? 約束ですよ!』
「……プッ、あはははは! うん、約束約束」
豪快に笑った後、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。折角いつもより気合入れて整えたのに、と思ったが、何故だか嫌ではなかった。まるでお姉ちゃんが二人に増えたかのよう。
磨いては移動して、磨いては会話をしてを繰り返すうちに、いつの間にか時計は六時を指していた。初めは少なかったメイドも、屋敷中何処へ行っても会えるくらいの人数になっていた。一体何処にこれだけの人がいるのか。改めて屋敷の広さを実感する。
私とリザさんは、汚れた水の入ったバケツを持って外へ出た。彼女は大抵、屋内ではなく外の水道を使うらしい。屋敷の裏側になるから少し歩くし、正面の庭と比べて整備はされていないが、自然な草花は美しく、時折鳥がやってくるそうだ。ここに来たばかりの頃は唯一の憩いの場所だったとリザさんは言った。
そして実際に目にすると、成程と納得した。確かにここは誰にも邪魔されることなくゆっくりと伸びをするには最適かもしれない。御伽噺のお姫様が踊りながら歌いだしそうな感じ。
早速良いことを知れた。後でお姉ちゃんにも教えてあげよう。ほくほく顔でバケツを洗い終えると、不意にリザさんが口を開いた。
「坊ちゃんにはもうお会いした?」
坊ちゃん? ああそうか、あの子は坊ちゃんと呼ばれているんだった。
姉を見て驚いていた少年。私に見向きもしなかったあの少年を思い出し、こくりと頷く。
「そう。マリアンもだけど、特にノアは気を付けな。あの歳で口が達者でね、あっという間に言い負かされちゃうから」
『へえ、凄いんですね』
「凄い、と言っていいのかねぇ。そうならざるを得なかったと言うか……おっと、そろそろ坊ちゃんのお目覚めの時間だ」
そう言って、言葉途中にリザさんは踵を返した。
“そうならざるを得なかった”というのは、恐らく昨日のレンブラントさんの話がそうなのだろう。所謂大企業の跡取りとして、上に立つものとして恥ずかしくないよう、きっと色々と叩き込まれてきたのだ。ヒューゴさんにはまだ直接会ったことはないが、私の中で、確実に、その像を成していった。
屋敷に戻ると、丁度エミリオが階段を下りているところだった。傍についている老齢のメイド(確かあの人がメイド長とかいうのだった気がする)に何か話しながら歩いている。
ふうん、本当にあの子が取り仕切ってるんだ。エミリオが通ると、作業を中断したメイドが次々と挨拶をする。しかしその間目線が合うことは一切無く、挨拶を終えたらすぐに作業に戻っていた。まるでそれさえも一つの作業であると言わんばかりに。
何だろう、凄く変。
じっとその様子を見ていたら、リザさんに「さ、私等も挨拶するよ」と言われ、小さく頭を下げた。そして顔を上げた時、昨日の様にばちりと目が合った。何も言わずに見詰めると、やはりさっと逸らされてしまった。
ふーむ、昨日から何だというのだ。小首を傾げてみても、何も思い浮かばなかった。
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