ロベールさんとの空間は今も昔も油絵の具と温かい紅茶の香りで包まれていた。あの頃の無邪気な私はいないけれど、目を閉じればいつだって柔らかな光の降り注ぐ部屋が私を迎えてくれる。そしてそこには優しく微笑むあの人が立っているのだ。





飴色の部屋






「少し顎を引いて、疲れるかもしれないけどなるべく背筋は伸ばしていてね」
「はい」
キャンバスに筆を滑らせる音が静かに響く午後のアトリエには傾きかけた西陽が射して部屋を茜色に染め上げている。傍らに置かれた紅茶はゆらゆらと湯気を燻らせ、その芳香が私の鼻腔をくすぐった。

「やっぱり大人になっても昔の面影が残っているね」
「そうですか?」
「でもとても綺麗になった」

柔らかく笑みを浮かべながらそんなことを言うものだから、知らず頬が熱を持ってしまう。夕日が誤魔化してくれるだろうか。恥ずかしさに頬を覆いたい衝動に駆られるが、そんなことをしたら迷惑になってしまうため、私は奥歯を噛んでぐっとこらえた。

ロベールさんはあの頃と何も変わらない。
柔らかくて優しくて、私がふとしたときに吐いた弱音も受け止めてくれる。気が張り詰めてばかりの今の生活の中でロベールさんの存在は私が唯一気を許せて一人の街娘に戻ることを許してくれる、そんな安息の場だった。



「…明け方の夢で」
「うん」
「城下にいたときのことを見ました」
「へえ、どんな夢だった?」

絵の具を足しながら、ロベールさんは私の瞳を覗き込んだ。その眼差しに鼓動が小さく跳ねる。

「父と母がいて、私は子供で…」
「うん」
「私はロベールさんに絵や勉強を教わっていて、とても幸せに過ごしている夢でした」
「そう、それは素敵な夢を見たんだね」
「はい、…でも―」

でも。その次の言葉は言えなかった。言ってはいけない気がした。言ったら今の生活の全てが崩れてしまう気がして。走り続けている足を止めるようなことは決して口にしてはいけないと私の中のもう一人の私が口止めしているようだった。

ロベールさんは動かしていた手を止め、口をつぐんだ私を初めは不思議そうに見ていたが、やがて何かを察したように小さくため息をつき、目を細めて私を見遣った。

「…ここには俺しかいないよ。誰も君を咎める人はいないし評価を下す人もいない。俺しか聞いていないから好きに話して良いんだよ」

先を促すように微笑んだロベールさんの腕が伸びて、私の頭を優しく撫でた。その暖かさにどうしようもなく目頭が熱くなってしまい、私は取り繕うように慌てて鼻をすする。


「…目覚めたとき、私は一人ぼっちで…どうしてこんなところにいるんだろうって」
「うん」
「寂しくて、帰りたくて、でも支えてくれる皆のために頑張りたくて…」


「○○ちゃんは本当にいい子だね」
気付けば涙が独りでに頬を伝っていて、その涙をロベールさんの華奢な指が拭ってくれていた。その温もりがとても心地よくて、私は甘えるように、けれど控えめに大きな手に顔を寄せた。


「俺は○○ちゃんのそういうところが昔から大好きだよ」
大好きという言葉に心臓がどくんと跳ねる。例え私の期待している『大好き』ではないとしても、今の私には十分すぎるほど甘美な響きで鼓膜を震わせた。

「…ありがとうございます」
涙混じりの鼻声で小さく言うと、いいんだよ、と首を降りながらロベールさんは笑った。とても綺麗なその顔は私の心をきりきりと締め付けてやまなかった。もっとその手に触れたい。もっと近付きたい。抱き締めてほしい。名前を呼んでほしい。その瞳を私だけに向けてほしい。



「…きっとロベールさんの言っている大好きとは違うと思いますがー」
か細い声で紡いだ言葉はこの狭い空間を容易に満たし、私たちの視線を交錯させた。


「私も昔からロベールさんのことが大好きです」

ぴくりと揺れたロベールさんの指先が赤の絵の具に触れ、床にかたんと音を立てて転がる。
あ、言ってしまった。後悔とも満足ともつかぬ感情が心を侵食していき、汗をかいた心臓が早いリズムで血液を循環させるのを感じる。

自分でも驚くほど淀みなく発した言葉が茜色に染まった空間をじわじわと満たしていった。目の前の色素の薄い瞳は驚いたように二、三度瞬きをした。そして、驚いたな、と溢しながら身を屈めて絵の具を拾い上げると、しばらく考え込むように絵の具を指の先で弄んでいた。
滲んだ汗ごと掌を握りしめると、今発した言葉の重みが音を立てて自分の肩にのし掛かるようだった。


「ごめんなさい、やっぱり今言ったことは忘れてください」
自分の浅はかさに逃げ出したくなる気持ちを抑え、消え入れそうな声でやっと切り裂いた沈黙。けれどそれはすぐに柔らかな体温でかき消されてしまった。

「…聞いてしまったものをそんな簡単に無かったことにはできないな」
ロベールさんは眉を下げながら笑うと不意に立ち上がり、身を屈めて私をふわりと抱き締めた。

「…っ、あの…」
「一国のプリンセスにこんなことしたらクビになっちゃうかな」
「ロベールさんっ…!」
自分の気持ちを丁寧に渡すように、ロベールさんはゆるりと私の髪をすいた。その仕草に甘い目眩を覚え、思わず瞳をきつく閉じる。


「俺がさっき言った大好きは、○○ちゃんが言ってくれた大好きと同じなんだよ」
「え…」
私の言葉は唇に塞がれ、行き場を失ってしまう。温かく、やんわりと唇を食むような口づけ。触れるだけのそれなのに、まるでもっと長い時間重ねているような錯覚を覚えた。


昔からずっと憧れていた。華奢だけれど骨張った手指も、私よりも大きいその足も。長身の背中に手を伸ばしたくて仕方がなかった。けれど今はこんなにも近くにある。想像したよりもずっとがっしりとした体躯は、彼が男性なのだということを如実に物語っていた。震える手をその背に回すと、耳元に吐息を感じて体が震える。


「君が思ってる以上に、俺は君のことを思っているよ」



やはり昔と何一つとして変わっていなかった。私を包むのは絵の具と紅茶の香り。頬をくすぐるのはミルクティーのような色の髪。胸に去来する幸せな思い出と、まだ見ぬこれからのこと。

遠くで雁の声が聞こえる。きっともうじきに、更に傾いた日が夕闇を連れてきて飴色の部屋が塗り潰されていくのだ。





ALICE+