秋湿りに埋もれる



迫る厚い雲に予感するのは、悪いことばかりじゃない。寺子屋時代は、雨が嬉しかった。お気に入りの傘を差して、友達と並び学び舎を目指した午前七時半。泥水の溜まる畦道のくぼみにわざと長靴をつっこんでみたり、いつもより響いて聞える自分たちの声に、きゃあきゃあとはしゃいだり。何事も楽しみに変えられる力があった。湿気でうねる前髪も庭の洗濯物のことも気にしない、奔放さと自由さがあった。

水曜の夕方というのは、十年前に思いを馳せるのにうってつけである。小さなアパートの六畳一間で、先ほどせっせととりこんだTシャツやら靴下やらベッドシーツやらの山に埋もれながら、そう思った。窓の外には、一帯を覆うほどの大きな雲が広がっている。仕事帰り、全速力で自転車を漕いでいた五分程前までは、あんなに重く厚く垂れこめていなかったはず。

ぼんやりと雲の動きを目に流していると、ぽつ、ぽつ、と音を立てながら重力に負けた水滴から地上へと脱落していき、降ってきたなあ、なんて思っているうちに、ざー、と大音声をあげ町中を濡らし始めた。

数少ない窓を閉めようと立ち上がったところで、ピンポーン、と小気味良くチャイムが鳴った。訪問者の大体の見当をつけ、チェーンをかけてから鍵を開ける。

「名前!!ちょっ、入れて!!チェーンかけろっつったの俺だけど、今はいいから!その顔ヤメロ!!お願い入れて!!」

びしょ濡れの恋人がいた。今朝の天気予報を信じなかったのか、傘の類は一切持っていない。

以前、焦っている銀さんを見るのが楽しい、と伝えたら最低、と言われたことを思い出す。しかし、既に服を着たまま滝行したかのような格好になっている彼を見て笑っていられるほどの嗜虐性愛者でもないので、チェーンをするりと外しドアを開けた。



「もう!名前ったら、いっつも変なとこでニヤニヤするんだから!彼氏が風邪ひいたらどうするの!?」

お風呂を終えた銀さんが、タオルで頭をがしがしと拭きながらベッドにもたれかかる。着ている黒のスウェットは、ちょっと前に彼が勝手に置いていったものだ。心なしか女性っぽい話し方になっているのは、今朝方完遂したという知り合いのお店での接客業務のせいだという。

「あ、タオル、名前みたいな匂いがするわ」
「そりゃ、私が使ってるタオルだもん。飲み物飲む?」
「えっ、名前の使用済み?それはヤバいな……」
「牛乳でいい?」

キリリとした顔でタオルの匂いを吸い込み始めた彼の返事を待たずにピンクと青のマグカップを用意する。ピンクが銀さんので、青が私の。それぞれに「おいしい牛乳」を注ぎ、電子レンジに入れる。箱型の機械がブイーン、と安っぽい音を立てた。

「名前」
「はい」
「銀さん、名前の洗濯物畳んでる」

彼は、私がとりこんだままだった布の山をせっせと崩しては、横に綺麗に畳んだものを並べていた。

「ありがとう」
「もっと心を込めて」
「銀さん、ありがとう」
「どういたしまして」
「銀さん」
「はい」
「私、銀さんの牛乳あっためてる」
「あっためてるのはお前じゃなくて電子レンジ」

「ああ言えばこう言う」。「揚げ足をとる」。社会で嫌われがちな言動を遠慮なくぶつけてくる彼は、しかしこのかぶき町という社会に全く嫌われていない。かくいうこの私にも。

チン、と耳に慣れた音を立てて箱型の機械が活動を停止した。ふわふわと湯気を立てる二色の陶器を慎重に運び、ちゃぶ台にそっと置く。

「電子レンジ、ありがとう」
「ここまで運んだのは私だよ」
「ああ言えばこう言う」

それは銀さんでしょ、と言う前に、脇に手を入れられ、胡座をかいた銀さんの上に乗せられた。

「洗濯物、ブラあるかと思ったのに、なかった」
「別の場所に干してるよ」
「ちぇっ」

やっぱり。いつになく行いが良いとは思っていたら、下心がベースだった。

彼の恋人というポジションと、彼の胡座の上を心地よく感じてしまうのは、なぜだろう。お風呂上がりのあたたかい彼の首に手を回し、思案する。

一年前、穴の空いたアパートの屋根を何日もかけて修繕してくれた。半年前、鍵をなくした、と言ったら夜明けまで探してくれて、なのに「たまたま落ちてた」なんてクマ全開の顔で言ってきた。四ヶ月前、よっちゃんイカとチロルチョコどっちが好き?と聞いてきて、チロルチョコと答えたら別の日、二種類のチロルチョコを見せてきて、どっちが好き?と聞いてきた。一回目にチロルチョコを選んだのは消去法だったけど、その時から銀さんは会えば必ずチロルチョコをくれるようになった。
二ヶ月前、『ぎ、銀さんの、かかか彼女になる?』と真っ赤な顔で言われたとき、可笑しくて嬉しかった。

「ふふ」
「またニヤニヤしやがって。何か良いことでもありましたか?」

横抱きみたいな状態で、ずっと私の首元の匂いを嗅いでいる銀さん。顔も上げずに喋るものだから、彼の息のかかる辺りがムズムズする。

「ねえ、牛乳冷めちゃうよ」
「先に癒しをもらいたい」
「癒し」
「ずっとバケモン共の中にいたからよ」

すー、と私の鎖骨あたりで息を吸い込みながら、「あ、これチロルチョコな」と片手間に渡されたそれは、中で溶けているのか受け取るとゆるゆるとした感触がした。ずっと顔を埋められているので、彼の首の後ろでノールックで開封し、口に入れる。柔らかい甘さが舌に広がった。
外では依然大雨が猛威を奮っている。屋根を叩きつける水音に混じり、遠くの方で小さく雷も鳴っている。

けれど、やっぱり迫る雲が運んでくるのは悪いことばかりじゃない。今日も、雲みたいな頭をした人を連れてきてくれた。体臭を吸ったり吐いたりされながら、擽ったさに一人ふふ、と笑った。


2021.09.08 Twitter掲載
2021.09.19 加筆修正