また食べたくなる味



秋の夜は存外賑やかだ。ルルル、と鳴く邯鄲だったり、さわさわと風に揺られる芒の穂だったり、単調なチャルメラの音楽だったり。

どこからともなく聞こえてきた「ソラシ〜ラソ、ソラシラソラ〜」に、アツアツのスープを連想して腹を鳴らしてしまった私はさながらナントカの犬である。今日こそは夕飯を少なめにして早く寝ようと思っていたのに、コンビニで買ったサラダチキン一個はさすがに少なすぎて、空腹のせいで眠れなくなったなんてあまりに馬鹿すぎるし意識薄弱にも程があるな。

電灯のぽつぽつと並ぶ住宅街を、ラーメンへと突き進む私のサンダル。秋の夜は賑やかでもあるが、外気は冷たく肌が出ている部分がちくちくとする。ぴゅう、と吹く風に、半纏の襟元を思わず縮めた。

くたびれたOLに気づいたチャルメラカーが、数十メートル先で停止した。

「こんばんは。しょうゆ一つお願いします」
「はいよ」

ダイエットは明日から。こういうのは楽しんだもん勝ちだから、何も考えず今は炭水化物の幸せに浸ろう。「おねーちゃん、かわいいからオマケね」と言って味玉を乗っけてくれた親父さんにお礼しながら、そう気持ちを固めた。

スープは透き通った琥珀色で、出汁の煮干しと、醤油の香ばしい匂いが最高だ。卵の分量が多いのだという縮れ麺は美味しそうな濃い黄色。薄めのチャーシューと、秋の夕日みたいに輝く味玉の断面には思わずごくりと喉を鳴らした。

「いただきます」

冷めないうちにとりあえずスープからいただこうと皿の端に口をつけたところ。

「おっちゃん、しょうゆ一つ」
「へい銀さん、久しぶり」
「たまごオマケしてよ」
「やだね。百円払いな」

聞き慣れない低音が隣に並んだ。ぎんさん、と呼ばれたその人は、私のどんぶりに乗った味玉を見れから私を見、眉を顰めた。

「おねーさん、それ、オマケしてもらったでしょ」
「、あっ。はい」

突然話しかけられたので喉がつっかえて乾いた返事しかできなかった。彼は、「ったく〜、世の中は三十路の男に厳しすぎるんじゃないの?」とぶつくさ言いながらも受け取ったラーメンを熱がりながらすすり始めた。

漢字で書くと「銀」さんになるらしい。彼は、通りの向こうの借家に一人暮らししていて、市内の高校で国語教師をやっているそうだ。最近中間試験が終わったとかなんとかで、解答を持ち帰って採点作業に勤しんでいて、集中力が切れたあたりでちょうどチャルメラの接近を嗅ぎつけ、繰り出してきたという。絶妙な距離感で接してくる彼に、ラーメンの残りがあとはスープだけになった頃にはかなり気を許していた。

「いや、なんか思ったより俺のクラスの平均点高くてさ〜。アイツらが勉強してくるわけねーし、簡単に作りすぎたかな? また主任に怒られるな、これ」
「何点くらいだったんですか?」
「ん〜、だいたい二十五点ってとこ?まだ半分しか見てねーけど」

あれ、二十五点って高い方だっけ。三割が赤点ラインだった高校時代を思い出す。まあ、最大値ではないだろう。そもそも、百点満点かどうかも分からない。

「てゆーかその半纏、いいよね」

ラーメンのお陰で体がほかほかしてきていた。あっちこっちと飛ぶ話柄にも、戸惑わないようになっているどころか心地よささえ感じている。ルルル、と鳴く邯鄲の声が耳をくすぐった。

「あったかいですよ。最近急に寒くなったから、引っ張り出してきたんです」
「いや、なんか、ギャップ的な意味で」
「ギャップ?」
「あと、そんな感じなのに深夜にラーメン食いにきてるとこも、いい」

「そんな感じ」とはどんな感じだろうか。再び投げられた「いい」に、ちら、と彼のどんぶりを見やる。ほとんどなにも残っていない。スープに浮かんだ脂の玉を割り箸でつついたりくっつけたりしている。

私の視線に気づいた銀さんが、ハッとして焦り始めた。

「い、いや、違うよ?ナンパじゃないよ?さすがにラーメンの屋台で口説くとか、そういうことは銀さんはしないからね、うんうん……。多分……」

口説かれているとは思っていなかったし、むしろ彼との時間がラーメン一杯で終わってしまうことに名残惜しさを感じていたのは自分の方だった。だから彼が変なことを言って妙に焦っているのを見るとこちらが照れ臭くなってしまう。

先程までテンポ良く続いていた会話に、小休止が生まれた。邯鄲は相変わらず鈴を鳴らしている。吹く風は冷たいというよりは、火照った身体に涼しく感じていた。

「…ゴホン!えー、その、あれだ。食べ終わったんなら帰んなさい!家どこ!」
「あそこです。あの、角の」

急に先生っぽく話し始めた彼がちょっと可笑しい。数十メートル先にある電灯にうっすらと照らされた小さいアパートを指差す。

送ってもらうほどの距離でも年齢でもないのだが、彼は既に私が指さした方向に歩き始めていた。

私はまた笑いながら、どんぶりを親父さんに返した。

「次、この辺通るのいつですか?」

と聞きながら。



2021.09.20 Twitter掲載
2021.10.16 加筆修正