おしげりなんし



江戸の標準時刻に針が合わせられた船舶時計は、午前七時半を指している。艦の食堂にやってきて窓際の定位置に座った彼、高杉晋助は、私が一人用の鉄鍋と火鉢を持って近づくと僅かに右目を細めた。

「おはようございます。今日はお寝坊さんじゃないんですね」
「社長出勤も大概にしろと言われたもんでな」

鉢に火をつけて湯豆腐をあたためる。ポ、と灯ったあたたかさは、朝のキリリとした空気にひとつ優しい。昆布出汁がほのかに匂い立った。

きっかり三十分後には見張り番を除いた鬼兵隊全隊員での集会が始まる。起床時間が定まらない提督はたびたび欠席するが、今日は姿を見せたので幹部席の武市さんがホッとした表情だ。いたところで座って紫煙をふかしているだけなのに。こうも彼が皆から必要とされる理由は、しがない調理担当の私にはまだ分からない。

集会は所属関係なく全隊員聴講するように言われているので、しがない調理担当の私も、高杉さんの斜め後ろの席に静かに腰を下ろした。



告知された大まかな本日のスケジュールのうち私の頭に鮮明に残ったのは、江戸、「吉原での取引」。場所は稲本楼という大見世だそう。

「晋助。今日の岸本屋との交渉だが」

皆が散り散りに持ち場についた頃、万斉さんが晋助さんに話しかけてきた。提督の鍋を片付けながらつい聞き耳してしまう。

「あァ」
「向こうが贔屓にしている遊女を呼ぶと言っているらしい。こちらも誰か呼ぶか?」
「馴染みなんていねェ」
「だが男一人というのも…」

ふと二人の視線を感じて顔を上げた。

「外八文字、出来るか?」
「なんですか?それ」
「万斉。この女はこういう女だ」
「だが、来島に務まる訳がないし…」

難しいことは分からないが、随分な言われようであることだけは分かる。それに、誰かさんときたらその「こういう女」に自分が随分と入れ込んでいるということは棚にあげたふうだ。不躾な男のどこか楽しそうな右目を睨み返すのをやめ、代わりに万斉さんに視線をやった。妙なことを言われた。

「まあ、名字であれば着飾ればそれなりの大夫に見えるでござろう。晋助に酌をするだけだから、頼まれてくれぬか」

◇◇

久しぶりに降り立った江戸をじっくり楽しむ暇もなく吉原遊廓に連れて行かれ、煌びやかな楼で老若様々な女の人に囲まれて、あれよあれよと言う間に着付けられた。黄金色の簪や蒔絵の笄をたくさん挿された気がするし、訳の分からないくらい高さのある重い草履もはかされた。初めて着た色打掛は辛うじて綺麗だとは思えた。

稲本楼二階、お座敷の四隅の燭台にはほんのりと火が灯り、床の間の調度品は控えめに輝いている。煌びやかな雰囲気に負けない存在感を放つのは、今回の交渉お相手、岸本様の横に鎮座する小稲太夫だ。こんなに綺麗な人は今まで見たことがない。着物に着られている私と違い、完璧に着こなしている。

「は、橋立にありんす…」
「ほお…」

着飾っているお陰でお相手の岸本様の私への反応は悪くないが、大きく抜いたお端折りの中、背中を伝う汗が止まらない。それもそのはず、急に見世の高級花魁になりきれと言われ、接待のお供を命じられたのだ。『橋立』という今日限りの源氏名を絞り出す声が震えてしまった。ででん、でん、と芸者さんの慣らす三味線が晋助さんの鳴らす音に似ているな、なんて見当違いなことを考えた。

「これは美しい。だが見ぬ顔じゃのう。稲本楼にはこげな花魁はおったかいな」

痛いところをいきなりつかれた。

焦りに押されて晋助さんの方をチラリと見やると、我関せず顔でお猪口に口をつけている。完全に面白がっているな。おかしい、あなたはこちら側のはずなのに。

「まあ岸本様。橋立はこないだ突出ししたばかりの、稲本自慢の振袖新造でござんす。わっちに夢中で、忘れてしまいましたかいな」
「ほう、そうじゃったかいな。わっはっは、小稲、上手いことを言う」

助かった。小稲太夫、なんて優しいのだろうか。それからも、私がピンチに陥るたびにこんなふうにそっと助け舟を出してくれた。言葉遣いでの失態を恐れ中々口を開けなかったのだが、それも「口下手だがその分秘密も絶対に漏らさないから今回のような取引接待のお供に向いている」とかなんとか言ってくれた。

◇◇

「どうでした?傾城橋立太夫のお座敷は」
「里言葉が使えてねェ。酌も普段俺にやってるようにやってどうする」
「万斉さんが普段通りでって」

用意された部屋、幾重にも積まれた布団の上で痺れかけていた足を投げ出す。滞りなく交渉が成立したことで機嫌がよくなっていた私だったが、窓辺に腰掛けた彼には調子に乗るな、といったような視線を向けられた。

はいはい、あなたのお陰です。緊張でふんわりとしか覚えていないけど、お相手に気分良くたくさん喋らせ、心の奥をするりと引き出していく様子はあっぱれだった。武市さんが、彼は人心掌握に長けていると言っていたのを思い出す。皮肉だが彼が鬼兵隊の皆に必要とされる理由が鬼兵隊の艦の外でようやく分かった気がした。

ずっと気になっていたことを聞いてみようと、体を起こし布団の上にきちんと座る。

「こういうお店は普段は来られるんですか」
「仕事じゃなければ今はそんな暇はねェ」
「じゃあどうして廓言葉とか外八文字とか、ご存知なんです」
「昔数度行ったことがあるからだ」

彼が立ち上がった。

「…お前はそういう話には無関心のきらいがあると思っていたが」

何故そんなことを聞く、といった視線を向けられる。隣に座られて、布団が少し沈んだ。横から視線を感じる。機嫌を損ねただろうか。

だって、曲がりなりにも恋人と呼ばれる間柄なのだし。関心ないわけがない。万斉さんと遊郭の話をしていたら聞き耳もしちゃうし、私のこのおめかしもどう思うかなって気になっちゃうし。こういうお店で息抜きしたりするのかなって、不安になっちゃうのは仕方ないのではないか。恋人といえど、知らないことが多い。

こんな子どもっぽい悋気、絶対言わないけれど。伝われ、と念じながら恐る恐る見つめ返す。口の端をあげてふっと笑われた。

「ガキくせェ悋気はやめるこった。俺は女は名前にしか興味がねェ」
「……」

赤くなってしまった頸から後毛を掬われて、するりと撫でられる。

「本当に心が読めるんですね」
「お前は顔に出過ぎるからな。……あぁ、その格好もよく似合ってる」
「もう読まなくていいです!」
「思ったことを言っただけだ」
「……あ、ありがとうでありんす」

非常に楽しそうな晋助さんにいつになく真っ直ぐな言葉ばかり向けられるのが恥ずかしくて、曲がった態度をとってしまいそうだった。でもまたガキくさいなんて言われたくないから、お礼だけ口先に乗せたのに。

「ありがとうござりんした、だ」

誤用してたし、廓言葉も彼が使えばとても色っぽいことが分かったのみだった。それこそこの国の傾城を目論む彼にこの職業はぴったりなのではないか。

恥ずかしいやら悔しいやらの葛藤は、しかし頭の後ろに回された手に遮られた。

「名前」

近づく煙の香りに反射的に目を閉じる。予想に反してやわらかく吸い付くような唇の動きは、夢の中かと思うほど甘く。胸の奥がぎゅうと締め付けられた。

ふわりと布団に倒されれば、もう彼の手に従うのみ。片瞼をそっと開いて見上げた右目は、僅かに細められていた。


2023.01.29 加筆修正
2021.08.10 Twitter掲載・加筆修正
Happy Birthday to Shinsuke Takasugi!