薄膜に色づく



唇に紅を乗せるだけで顔色まで良くなる。瞼にラメを足すだけで眼差しまで輝き出す。少しの手間と技術で魔法のように人を変えられるメイクが、名前は好きだ。
 
疲れたときは頬に赤みを足せば心まで元気になり、好きな人と会うときは少しでも睫毛を長くして自信をつける。見た目だけでなく気持ちまでレベルアップすることができるこの魔法は、女も男も、そのどちらにも当てはまらない人々も、誰でも平等にその身に施す権利がある。
 
万事屋の居間のソファの上に正座する桂と、膝立ちで向かい合う名前。自身の顔に手を滑らせる名前を、桂は至近距離で見つめている。彼の瞳は綺麗な桑茶色で、眼差しの強さ、配置バランスなどさまざまな意味でアイメイクをする前からその完成度は高かった。

桂に薄いベースメイクを施し終えた名前が、早めに口紅を塗って顔色を見てから他のパーツに取り掛かろうと思い、リップブラシと口紅を手に取った。形の良い彼の唇に慎重に深緋色を乗せていく。彼の瞳の色は黄味がかっているが、肌色的にはブルーベースだろうと判断した上での選色だった。

上唇の山を縁取りながら名前は思案した。銀さんの友人に二枚目が多いのは何故だろう。類は友を呼ぶという言葉を体現するような粒揃い具合だ。先日会った高杉さんも銀さんの旧友らしいが、吉原の花魁もびっくりの妖艶さだった。あの瞳でしばらく見つめられれば男性だってノックアウトなのではないか。

目の前の桂さんも、こうして女装などしなくても元々そこらの女性より美しい、と名前は思う。余計な肉のついていない輪郭、凹凸のない肌。丁寧に伸ばされた黒髪はシンプルに横に結っただけで女物の着物にとても映えた。
 
ふと、桂にじっと見つめられていることに名前は気づいた。序盤こそ整ったその顔に化粧をできることに幸せすら感じ、勢いに任せ手を進めていたのだが、一度視線を意識すると途端に緊張が始まる。喉がひとりでに上下し、筆を持つ手に余計な力が入った。
 
「名前殿、手が震えているぞ」
「き、緊張して…すいません。桂さん、すごく綺麗だから」 
「…屈辱的だが今日ばかりは甘んじて受け入れよう。仕事のためだからな」
「メイクしなくても綺麗ですよ」
「フォローになっていないぞ」
 
どうしてそんなに見てくるんですか、とは聞けなかったものの、咄嗟に出た褒め言葉も名前の本心からくるものだった。しかし桂は男性への賛辞として適切ではないと言わんばかりに少しムッとしてみせた。
 
五分くらい経ち、名前によるメイクが目に移行した頃。桂は器用に左目だけを閉じてマルチアイベースを塗られていたが、ふと視線を名前の唇に移した。ふっくらとしたそれは彼の唇の深い赤色とは対照的に無色のリップクリームが引かれているだけだった。適度に潤い血色もよいが、化粧好きな彼女の普段の装いと比べると物足りないとも言える。
 
「今日はいつもの紅を引いていないのか」
「使い切っちゃって…あ、顔色悪いですよね」
「いや。今のほうが俺は好きだ」
 
突然の真っ直ぐすぎる表現に名前は項まで赤くし、熊野筆の動きは焦ったように少し散漫になった。
 
「おいヅラ」
 
銀時もといパー子が声をかけた。桂より先に化粧をしてもらっていた彼は、女物の着物が肌蹴るのも気にせず足をかっ開いて向かいのソファに座っている。
 
「セクハラしてんじゃねーよ。ここはお前の通ってる店じゃねーし名前はそこの人妻設定の熟女でもねーぞ」
「なっ……俺は○○○に通ってなどいないし名前殿を○○○○○と重ねている訳でもない!!」
「いや、誰もそこまで言っ」
「普段と違うから気になっただけで、それに対して率直な感想を述べただけだ!!」
「あっ桂さん、動かないで!」
 
名前が、ああ、やり直し…と肩を落とした。銀時の発言に過剰反応した桂が大きく動いたため、全集中鼻の呼吸で引いていたブラックのライナーが滑り、あらぬ方向に線が伸びたからだった。

だから彼女の頭を埋め尽くすのは桂ののっぴきならない性事情ではなく、目周りのベース類もざっと取り除いてから塗り直さないといけないことだと、彼女の様子から男たちは推測し、安堵した。男たち否、桂が。
 
そもそもは銀時が先日西郷に、近いうち店に太客が来るからヘルプお願い、と言われたのが事の始まりだった。かまっ子クラブに来る太客って誰? クリス? と垂れながらも、金が入るのが分かっている依頼にはそれなりに対応しようとする銀時が、以前客から好評だったから、と桂も呼び二人で向かうこととなったのだった。

ヘルプが必要な当日は前後にも比較的大人数の予約が入っており、銀時たちにヘアメイクのための人員と時間を割けるか分からないから手近な女の子にやってもらってきてほしい、とのことで指名されたのが名前だった。銀時の友人であり彼を通じて桂とも会えば話す仲になっていた彼女が選ばれたのはそれなりに自然な流れといえる。
 

 
「桂さんと銀さんの働きっぷり見てみたかったけど、明日早いから帰りますね。頑張ってください」
「銀さんじゃない、パー子よ」
「桂じゃない、ヅラ子よ。名前さん、お化粧ありがとうございました」
「身も心もオカマになりきったアル」
「名前さんのメイクのおかげですね」
 
万事屋のお留守番組と名前に見送られ、ヅラ子とパー子はかまっ子クラブへと向かった。銀時の適当な予想は案外当たり、太客は馬のような長い顔をもつ天人たちだった。店員がヘルプの二人も含め皆元攘夷志士の集まりにも関わらず滞りなく営業できたのは、二人の適当ながらも人を惹きつける接客技術、拙さと豪快さの共存が逆に可愛いらしい舞、そして某王子にも美人と言わせしめる相貌を形づくった高い化粧技術のお陰だった。
 

 
「名前殿」
「はい」
「何度も言うが、こんな時間に男を家にあげるべきではない」
 
夜八つ。かまっ子クラブでの仕事終わり、名前のアパートにて桂は名前に化粧を落とされていた。クレンジングシートで丁寧に肌を撫でられながら、頭を悩ませる。早番だと言っていた彼女が睡眠時間を犠牲にしてまで一人かまっ子クラブに駆けつけ、仕事終わりの自分を家に招き入れた意図について。
 
「桂さんなら大丈夫です」
「……それで、伝えたいこととは」
 
まともな連絡手段も定住地もない自身に接触するには居場所が分かっている時に動くしかないことは理解できるが、彼女が繰り返す「どうしても言いたいこと」には全く検討がつかなかった。
 
「あの、その……お昼話してた……、○○○と○○○○○のことなんですけど」
「ぐッ、ゲホッう! ゴホ、ウ゛ン、な、何だ、聞いていたのか」
 
予想外の内容と彼女の口から飛び出てしまった卑猥な言葉に思わず咽せ返る。何でも三割増で話す銀時と五割増で反応してしまう自分のせいで様々な誤解が生まれてしまったことを思い出した。
 
「あの、言いたいことっていうのは、その、私、そういうの全く気にしないので…っていうことで。いくら友人とはいえ、女には聞かれたくない話題だったかもしれないじゃないですか。桂さんが気にして、徐々に私から距離をられたりしたら悲しいなって。ずっとお友達でいたいので」
 
彼女の独白はツッコミどころ満載だったが、いじらしく言葉を繋げる様子を目の前にすると、銀時にするような激しい否定ムーブもぎりぎりのところで踏みとどまる。お友達でいたい、の締めに胸を抉られつつしばらく悩み、必要なことだけ先に伝えようと口を開いた。
 
「まず、今はそういう店に行く暇なんて無いし、そもそも若い時程興味もないということは先に言っておこう」
 
名前は、桂さんもまだ若いのではないかという言葉は飲み込んだ。
 
「…それに、一人の女性を慕っていたらそんな気も失せるというものだ」
「そうなんですか。…どなたか聞いても?」
「それは…」
 
誰なのか聞いてくるということは少しは希望があるのか、それとも単なる好奇心なのか判断しかね、桂は心中穏やかでなかった。化粧水で顔を緩やかに撫でられながら、理性と戦う。警戒が少なく勘の悪い彼女だから、もう少し踏み込まないと男の怖さにも自分の気持ちにも気づかないかもしれない。
 
「紅を切らしたと言っていたから買ってやりたいが、彼女は紅を引かないほうが美しいから、どうすべきか悩んでいるとだけ言っておく」
 
名前の手が止まった。桂は帰る、と呟き、頬を包む彼女の手を優しく引き離し立ち上がった。そして玄関にて無駄のない動作で草履を履き、ドアを開け夜の闇に溶けていった。
 
六畳半に一人残された名前は、その様子をぼーっとしながら見つめた。
 
女性が一つの化粧品を使い切ることなんて滅多にない。また、使い切ったとしてもそのことを話題にするほどの仲の女性が桂の周りに多くいる訳ではないことも、知っていた。
 
桂の今日一日の言動の真意に、漸く合点がいった。鈍感な彼女のすっぴんの頬も、さすがに熱帯の珊瑚のような色に染まる。チークは必要なさそうだが、彼女が睫毛を長く見せるための新しいマスカラを買う日は、そう遠くないかもしれない。



2021.7.28 Twitter掲載
2021.8.28 加筆修正