黎明用


昇華 回鍋肉

カンパーニュとコーヒーの、香ばしい匂いが鼻を掠め堪らず目を覚ました。
いつのまにか肩にかけられていたやたらと大きいTシャツを着ると、ルチアはふらりと立ち上がった。
いくら私が我慢強い人間だったとしても、空腹にだけは耐えられない。常人より食べる量が多い彼女には無理な話だ。
「ボンジョルノ。早いんだね」
そう挨拶を交わすと、レイは軽く笑った。
「早朝に目が覚めたからな。寝顔見ながら残りの課題片付けてた」
「まさかまだいるとは思ってなかった。いつも起きたらいないから」
「ああ、驚いたよ。ツンツンしてるお前がいきなりさびしーって泣きついてきたからな」
「そうだっけ」
昨日のことなんか覚えていない。と言ったら嘘になる。だがどれもこれも忘れたいことだらけだ。無性に腹が立ってくる。
ルチアは不快感に顔を歪めると、一刻もはやく忘れ去りたいと言うように綺麗に盛られたパニーニにかぶりついた。
「はしたねぇぜシニョリーナ」
「今更ってもんじゃないの」
今更。レイはその言葉をしばらく頭の中で反芻させた。
そう、今更なのだ。二人は幼馴染。昔から常に一緒だった。中学生になりしばらくした頃、気恥ずかしさからお互い避けるようになったが、結局二人の気持ちは同じだった。それから、大学生になった今でも続いている、長い付き合いだから、性格や行動パターンは知り尽くしている。信頼もしている。
信頼しているからこそ、相談できる悩みがあった。

「……またつけられたのか」
さっきまでの賑やかさは、一瞬にして消えた。
「きっと死ぬまで一緒にいるつもりなんでしょうね」
賑やかさの代わりに、ルチアの心に鎮まっていた怒りが再び湧き上がった。
警察には何度も連絡をした。だが、ストーカー被害を彼らに訴えたところで状況は変わらない。
伝統高いイタリアの街並みも、入り組んだ道に進めばスラム街だ。"あいつ"は終始にこにこしながら、暴力を振るわれてはいないものの、逃げているうちに迷い込んでしまった時はパニック状態に陥ってしまった。
レイと交際を始めてからエスカレートしたのは確かだが、あそこまで追い詰められたのは初めてだった。傷を負わずに戻れたのが不思議なくらいだ。
……いや、傷は負っているか。精神的な傷を。
しかし"あいつ"には見えているんじゃないかと思う。一つ一つ、ゆっくりと刻み付けるその感覚を、彼はきっと知っている。


*


メルキオーレもまた、ルチアとレイの幼馴染であった。
蜂蜜色をした髪は絹のようにさらさらとしており、アイスブルーの澄んだ目はダイヤモンドよりも美しい。神のための人形そのものだ。
彼は知っていた。レイがルチアに想いを寄せていることを。学校では常に成績トップ、運動神経も抜群でルックスに関しても群を抜いている。いつも彼の周りには人だかりができていたが、完全に無視し二人と他愛のないを会話をしていた。そんな彼を二人はメリーと呼んでいた。少々からかわれているような気もしたが、ルチアが楽しそうに笑っているのを見てメルキオーレはどうでもよくなった。
確信したのは中学二年の春。ルチアの誕生日のことだった。
「もう今日で十二歳だね。誕生日おめでとう」
そう言い少ないお小遣いで買った花束を渡すと、ありがとうとはにかんだ。かわいい。
「誕生日パーティーは開かないの?」
「来年、試験あるから。一日も無駄には出来ないなって」
「…来年……。……嘘だね。遠慮しなくてもいいさ。僕は君のことなら何でも祝ってあげたいと思えるのに」
「あはっ」
まだガキんちょのくせに心は立派なイタリアーノだ。ルチアといる時は普段周りに見せる冷静沈着なメルキオーレとは全く違うもの。僕もバカだなと自嘲的な笑みを浮かべる。
ふとメルキオーレは辺りをきょろきょろと見渡した。
やはり。レイがいない。
十二歳といえば丁度思春期にブチ当たる時期だ。いつもなら自分と同じように笑ってルチアに祝いの言葉を贈るはずだ。…………チャンスかもしれない。好きだの可愛いだのと自分の前で零していたルチアに対しての本音を、僕は知っている。
その頃からか、と乾いた空気の中小さく呟く。自分がおかしくなったのは。

それが今ではどうだろうか。全く笑えるものだ。常にルチアに尽くし、愛されるよう努力をしてきた。しかし彼女は僕を散々振り回し、結局レイの奴を選んだ。何だこのザマは。

昔は甘い言葉なんかいくらでも出て来たはずだったが、今ではチープな言葉でしか君を愛せないな。悲しい事だが、仕方ない。それを選んだ君が悪い。
メルキオーレは有り余る美貌を服の中に押し込めた。何もしなくても女は自然と寄ってくる。だが僕が欲しいのはルチアだけなんだ。
道行く人々の記憶の片隅にも残らないように着替え終えた彼は、いつものように愛しのルチア求め外に出た。





「ね、あとでジェラテリア寄ってもいいかな」
「本当に甘党だな、お前は」
文句を言いながらも付いて来てくれるレイが好きで仕方ない。ルチアはぎゅうっとレイの腕に抱き着いた。
「随分と大胆じゃあねえの」
「路地裏だし、」
誰も見てないでしょ。そう言おうとした瞬間、心臓が大きく鳴った。

「相変わらずだね」
ルチアの怯えた目と、アイスブルーの目がかち合う。レイは地味な格好をしたメルキオーレを強く睨んだ。
「白馬の王子様がこんなことしてるなんて、学部中の女子が泣くぜ」
「……」
微かな光さえ反射しない、もはやどこを見ているのか分からない目を二人に向ける。
しばらくの沈黙が続く。
そして、レイが何か言おうと構えると、メルキオーレはそれを遮るように突然口を開いた。まるで機械のように、何の感情も込めずメリーは言った。

「人生の3分の1が睡眠、探し物が5か月。笑っているのは22時間3分で泣いているのが1年と4か月らしい。出会う人の数は、何らかの接点を持つ人が3万人。 そのうち学校や職場など、近い関係が3000人。更にそのうち親しく会話を持つのが300人。友人と呼べるのが30人。親友と呼べるのが3人。あぁ、でも天文学的な確率で言っても、こうやって君と出会ったのは心理学的に言えば必然って説もあるんだよ。……よく分からないって顔してるね。僕もだよ」








掠れた声で呟いた。

あの世界に帰りたい。
白いウサギのぬいぐるみ、すり減ったクレヨン、レースのついた花柄のワンピース、使い古したピンクのゴムボール、繊細なタッチで描かれたアンデルセン童話集。そして、いつも隣で笑っていた二人の"彼"。
何もかもが大きくて楽しくて面白いと感じた、あの時に戻りたい。
しかし、好きだと感じたものは全てどこかに消えてしまった。
嫌いなものだけが残った世界。

せっかく言葉を覚えたのだから、最後くらい可愛いこと言いたかった。
しかし血溜まりを前にしたルチアの口から出てくるのは、嗚咽だけだった。


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