朝からスーツに袖を通し、狭い駅へと流れていく人々をみて大変だなぁと他人事のように思う。かつては私もあの蠢く人々の一員だったのだが、半年前に卒業した。結婚して家庭に入ったからだ。
なんともめでたい話だ。そしてそのお相手はプロヒーローのショートなのだ。誰もが羨む生活を手に入れた。そのはずなのに、気が休まる時がないのは、私がついた大きな嘘のせいだろう。
「……ショート」
「アンタは……? ここは?」
焦凍くんの言葉に戸惑った。まるで記憶をなくしたかのような反応だったのだ。
「私のこと分からないの?」
そう問い掛ければ、申し訳なさそうに眉尻を下げてから、こくんと控えめに頷いた。仕方がない。彼は頭を強く打ってしまったのだから。
あぁ、これは神様が私に与えた試練なのだと思った。
「大丈夫、覚えていなくても私が覚えているから」
「……付き合ってたのか?」
「隠そうとしていたから、周囲に私たちの関係を知る人はいなくて証明は難しいんだけど」
やはり焦凍くんは頭の回転が早い。僅かなやり取りだけで、すぐに状況を理解して、私の立場までも察してくれた。
焦凍くんからしたら知らない女だ。関係を証明できるものを提示して欲しいだろう。しかしそれは出来ないのだ。先手を打つように私がそれを伝えれば、焦凍くんの顔が曇った。きっと疑われている。
「でも、一昨日着ていた服も、夕飯のメニューも知ってる。黒いシャツに、デニムを合わせてたよね。夕飯には蕎麦を食べてた。本当にお蕎麦好きだよね。あと……そうだ、先週は緑谷くんと飯田くんとご飯に行ってたよね。スマホの履歴から確かめられないかな? スマホの暗証番号は誕生日、だよね?」
どうにか信頼を得ようと、彼の側でずっと見ていなければ知り得ないような情報を出す。焦りから早口になってしまった。焦凍くんは病室に備え付けられたサイドテーブルに置かれたスマホに手を伸ばし、ゆっくりと暗証番号を押し込んだ。
「先週アイツらと飯に行ったのは確かみたいだ。でもアンタ……」
「ミョウジナマエだよ」
「ナマエと連絡した形跡はないな」
「一昨日、喧嘩しちゃったのも忘れちゃったんだね」
焦凍くんの返答にほっと胸を撫でおろした。間違ってなかった。これで少しは信頼を得られたのかと思ったが、焦凍くんは案外疑い深かったようだ。私と連絡した形跡がないことを言及した。
ひたりと背中に嫌な汗が流れたが、それを隠すように笑顔を貼り付ける。ぎこちなくなってしまったが、それは恋人に忘れ去られてしまった動揺によるものだと受け取ってもらえたようだ。
「今までにないくらい大きな喧嘩しちゃって……その時にこれまでのやり取りとか全部消しちゃったの。部屋にも私の私物は残っていないと思う」
「喧嘩の原因は」
「ヒーローって危険な目に遭うことも多いでしょう? それが怖くて、どこにも行かないで欲しいって我儘を言っちゃったの」
なるほどな、と一応は納得した様子で頷いてくれた焦凍くんにほっと息をつく。
「心配してくれたのに連絡先まで消すって酷ぇ男だな」
「そんなことないよ、焦凍くんはすごく優しいよ」
「そんな仕打ちを受けても、駆けつけてくれたんだな」
「焦凍くんと一緒にいるのが私の夢だから」
記憶を失った焦凍くんはかつての自分に対して酷い男だと呟いた。私のために怒ってくれたのだ。眉を寄せた険しい表情すら、映画のワンシーンのようで見惚れてしまう。すっと伸びた鼻筋も、長い睫毛に覆われた左右で色彩が異なる瞳も、全てがうつくしい。
触れてみたい。顔の半分に広がる火傷の痕も、プロになってから一段と引き締まり精悍になった輪郭も、分厚い手のひらも、節榑立った指も、全て手に入れたい。
「なぁ、俺と結婚してくれねぇか」
「え」
「そうしたら不安とか少しは無くなるんじゃねぇかと思って」
一瞬彼の言葉が理解できず、間抜けに口をぽかんと開けてしまった。夢ではないかと疑ったが、私の手を握り込んだ彼の大きな手が熱くて、現実だと物語っている。
恋人の記憶喪失に加え、関係を証明する術がないことに対する不安を解消できるのではないかと考えたようだ。まさか、このような展開になるとは。
願ってもない話に何度も首を振れば、焦凍くんは「よろしくな」と目許を和らげて笑ってくれた。
そんなこんなで始まった新婚生活だが、何一つ不自由ない。自分の帰りを家で待っていて欲しいという焦凍くんの希望を受け、私はそれまでずっと真面目に働いていた仕事を辞めた。セクハラまがいのことをしてくる上司から解放され、ただ愛する人のことだけを考えて家事をこなす日々に不満なんて抱くものか。
夕食の下拵えを済ませた私は一休みしようと、プライベート空間も必要だろうと言って私のために用意してくれた一室に足を運んだ。いちいち鍵を開けたり、閉めたりするのは面倒だが、それを怠っては全てが水の泡になる。
「ショートくん」
焦凍くんは仕事から帰ってきていないし、この部屋には入ったことがない。しかしショートくんは沢山いるのだ。等身大のポスター、雑誌の表紙、ヒーローコスチュームを纏ったフィギュア、壁一面には写真が飾ってある。以前のものは視線が外れてしまっているが、結婚してからは正面から撮れるようになった為、それらのショートくんは真っ直ぐに私を見つめてくれる。
昨日のうちに回収しておいた、汗やらなんやらを染み込ませたボクサーパンツに鼻先を埋めれば、身体の奥底から満たされていく。ショートくんから分泌された乳白色の体液が閉じ込めたゴムは勿体無くて、購入したドリンク用の小さな冷蔵庫にしまってある。
私がついた大きな嘘。それは、ショートくんの彼女だと偽ったことだ。ショートくんが仕事中に崩落事故に巻き込まれ、頭を打ったとニュースで知った時には肝が冷えた。以前にスマホを拾うフリをして仕込んだGPSからすぐに搬送先は割り出せた。慌てて病院に向かい、知り合いのフリをして彼の病室に向かったのだった。
病室で初めて彼に話しかけられた時は心臓が止まるかと思った。記憶喪失になっているようだった為、これは神様が私に与えた試練であり、チャンスだとも思った。ショートくんの彼女になりたければ上手くやりなさい、そのようなお告げが聞こえてきたような気がした。
そこからは上手くそれらしい言葉を並べ、この結婚に漕ぎ着けたのだった。一般人でありながらも、全ての時間を注ぎ込むことで、彼の住所、交友関係などを調べ上げた。その努力が実を結んだのだ。
結婚した現在でもその努力は怠らない。以前よりも容易になってしまったがその日の予定、食事内容、全て把握している。それが私の愛なのだ。
GPSを確認すれば、ショートくんはどうやらまだ仕事中のようで、自宅から離れた位置にいる。寂しさを紛らわそうと、ショートくんがはじめて贈ってくれたクマのぬいぐるみを抱きしめる。
「……あれ」
静かな空間に私の声は消えていった。クマの瞳が左右で異なる。とてもよく似ているのだが、片方はレンズになっているようだった。胴体のあたりを触れば、何やら固い感触があった。
この違和感はよく知っているものだった。カメラと盗聴器だ。間違えるはずがない、だって私も同じ手でショートくんを見ていたのだから。
なぜ? 私を監視する意味があるのか? まさか記憶が戻ったのか?
慌てて部屋の外に出ると、キッチンにあった包丁でクマの身体を引き裂く。ごとりと音を立てて床に落ちたのは、小型の盗聴器だった。カラカラに乾燥した喉が張り付いて息苦しい。脚から力が抜けてしまい、壁にもたれかかりながら床に座り込んだ。
「大切にするって言ったのに、酷ぇな」
喉からひゅっと空気が漏れる音がした。GPSはずっと遠くを示していたが、背後からした声はよく知る人のものだった。
「怯えちまって可哀そうに」
包丁を握っている私の手をそっと包み込んだ手はゾッとするほど冷たかった。
「転がり落ちてくんの待ってた」
「……焦凍くん」
無惨な姿になったぬいぐるみを興味がなさそうに摘み上げた焦凍くんは、私の横に腰をおろすとそっと頬を撫でた。彼は何を言っているのだ。私の嘘に気づいていて、ずっと黙っていたかのような口ぶりだ。
「ずっと見ててくれたよな。気づいてねぇと思ってこそこそ俺の後ついてくるの可愛くて、ついつい意地悪しちまった」
悪りぃ、と抑揚のない声で言った轟くんは目尻から溢れそうになっていた涙を拭ってくれた。
「……全部知ってたの?」
「こうでもしなきゃ逃げちまうだろ? 目を覚ました時は一瞬だけ混乱して分かんなくなっていたが、結婚を申し込んだのは俺の意思だ」
承諾してもらえた時は嬉しかった、などと呑気に話しているが、その様子が正気とは思えず、恐ろしくてたまらない。
「嘘は良くねぇが、お互いさまだろ?」
はじめに嘘をついたのは私だ。そして焦凍くんはその嘘を利用したまでだ。これは神様が私に与えた試練という名のチャンスだったはずだ。本当に神に愛され、試練を与えられたのは誰だった?
「外は敵だけじゃねぇ、危険がいっぱいだ。だから此処に居てくれ」
鮮やかな海を閉じ込めたかのような色の瞳と、夜のような静かな色を閉じ込めた瞳。雪のように白い髪は光をまとって煌めき、灼熱のような赤い髪は太陽のような熱を孕む。形の良い薄い唇、高貴な印象をつくる細い鼻筋、時折頬に影を落とす長い睫毛。全てがうつくしく、まさしく神に愛されたような──。
「ナマエなら分かってくれるよな?」
誰もが羨む生活。焦凍くんのことを考えながら与えられた鍵だらけの広い家で一日を過ごし、焦凍くんに与えられたものだけを享受して生きていく。望む生活を手に入れたはずなのに、どうしてこんなにも心が落ち着かないのだろう。大きな嘘をつき続ける必要もなくなったのに。
「ずっと一緒にいような」
これが甘やかな日々の代償だ。
