自分のことを不幸だなんて悲観したことはない。しかし、これを悲観せずにいられる人間がいるだろうか。
「何でよ!」
何だ何だとこちらを窺うような視線が煩わしい。女が一人でバーに来て、怒りながら酒を呷っている光景はそれ程までに珍しいのだろうか。
遠巻きにみていた男が「ありゃ彼氏に浮気でもされたな」と憐れんだような声で言っていたが、彼氏に浮気されたくらいで私は荒れたりしない。これ程までに私が荒れている理由は別にある。
長年勤めていたヒーロー事務所が自己破産したことによる失業、借りていたマンションが倒壊してしまい住居を失い、スマホを排水路に落としおじゃんにして、大好きだったアイドルの熱愛、クレジットカード類などをいれた財布の紛失(カード会社には連絡済み)したため所持金は3万円のうち5千円は図書カード、帰り道に犬の糞を踏んでしまい靴も失う。
この現状をみても、幸せだなんて言える人がいたならば是非とも私の人生と交換して欲しい。今すぐにだ。
現金2万5千円で当面を生活しなくてはいけないわけだが、あまりにも辛い現実から逃避するため、酔わずにはいられなかった。一種の自己防衛本能だ。
誰か近づいてくる気配を感じた。
このバーは以前からの行きつけであり、ニュースなどでこちらの事情を把握してくれているマスターは酒を出す時以外は近づいてこなかった。
マスターではないとすれば、酔った女を美味しくいただこうという下心をもった男か、静かにしろとクレームを入れにきた客か。どちらにせよ面倒には変わらない為、視界に入れないようにして酒を呷ることにした。
「酷ぇツラしてんなァ」
「足の小指を椅子にぶつけてしまえばいいのに」
「ヒーローがンなこと言っていいのかよ」
もっとマシな挨拶があっただろうに、なんと失礼な男だ。どこかに行けと念じながら恨み言を吐いたが、クツクツと笑った男はこれほどまでに空席の目立つ店内でよりにもよって私の隣に腰を下ろしてきた。
「無職、宿無し、金無し、靴無しのナマエチャンよォ」
挑発するような言葉が続いて、ようやくその男がよく知る人物だと気づく。
「爆豪」
爆豪勝己。私の高校の同級生であり、卒業後にはその才能と貪欲さで、瞬く間にトップヒーローに昇り詰めた男だ。
なにやら名前がやたらと長いカクテルを注文した爆豪は、私の顔をみてフンと鼻を鳴らして笑った。
「バケモンかよ」
「酷い!」
「テメェの顔がな」
先ほどから目元をこするたびに、手の甲を黒い涙がぬらした。泣きすぎてアイメイクも含め、ぐちゃぐちゃになっている自覚はあった。
しかしメイクが崩れて顔が大変なことになっている、だなんて些細な問題に嘆くような心の余裕はなかった。それもそのはず、私は一日にして全てを失ったのだから。
その事情を知りながら、追い打ちをかけるだなんて爆豪には人の心がないのだろうか。爆豪の言動に驚き、とめどなく溢れていた涙がぴたりと止まってしまった。
「こっち向け」
顎を掴まれ、爆豪と向き合わせられる。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、温かい手に頬をさすられ、アイメイクがにじんだ目尻を撫でられた。赤子に触れるかのような優しい手つきが心地よくて、ぽろりと涙がこぼれた。
「相変わらず微妙に優しいよね。ありがとう」
「テメェは相変わらず一言多いな」
アイメイクを拭ってくれている爆豪に、鼻を小さく啜ってから礼を伝えれば、ハッと笑った爆豪に嫌味を返されてしまった。片方の口角がつりあげた歪な表情すら、様になっていた。
「泣き虫」
仕返しにしては随分と優しい手つきで私の頬を引っ張ってきた。声色は随分と穏やかで、落ち着く。
「自分が泣かせたくせに」
「だから、こうして責任取りにきてんだろうが」
私が借りていたマンションを倒壊させたのは爆豪だ。敵と交戦している際に爆破してしまったらしい。泣く原因をつくった張本人のくせにと涙声で不満をぶつければ、さらに頬を伸ばされた。
それからさらに酒を取り込み、身体がふわふわと浮かんでいるような心地に浸っていた時。
「黙って守られとけ」
ふと爆豪が呟いた。何から? と思ったが、目蓋が重たくのしかかり、聞くことはできなかった。
とても長い夢を見ていた。前半は恐ろしいほどリアルな悪夢、後半は爆豪が登場してくるという妙な展開だった。
夢で良かった。寝起きの頭でのんきな感想を抱いた私の視界に入ってきたのは、見覚えのない天井だった。
「ようやくお目覚めかよ」
そして聞こえてきたのは爆豪の声だ。
夢で良かったと、少しくらい安心させてくれたって良いではないか。
爆豪が目の前にいる。つまり長い夢だと思っていたのは、昨日実際に起こった出来事だったのだ。
「ひとのベッドを占拠したわけだが、さぞかし気分は良いンだろうな?」
どうやら爆豪のベッドを奪ってしまったようだ。知らぬ間に爆豪からの恨みを買ってしまったようで、皮膚が厚くなった手のひらで私の頭を鷲掴みにされた。
ミシミシと音を立てる頭で昨夜の記憶を辿るが、どうもおぼろげで爆豪と再会したところまでしか覚えていない。
一線を越えてしまったか。確認のために慌てて自分の身体を確認すれば、下着のみの姿だった。
「……もしかしてヤッちゃった?」
「酒くせぇオンナは論外。テメェが勝手に脱いだんだろうが。痴女」
「良かった」
かき集めた布団を抱きながら、恐る恐る尋ねれば、論外だと否定の言葉が返ってきた。痴女と認定されてしまったのは全く喜べないが、酔った勢いで取り返しのつかないような行動を起こしていなかっただけ良いとしよう。
そそくさと服を身にまとい、爆豪の隣をすり抜けて部屋から出ようとした。
「じゃあお邪魔しました」
「なに帰ろうとしとんだ」
「え?」
立ち塞がった爆豪が私の眼前に突きだしたのは、婚姻届という文字が書かれた用紙だった。そこには夫となる人の欄に爆豪勝己、妻となる人の欄に私の名前が記入されていた。
「婚姻届? ……え、私、爆豪と結婚したの?」
「まだ提出してねぇから成立はしてねぇがな」
なぜ婚姻届を爆豪が持っているのか。それ以上になぜ私たち両名の名前が記入されているのか。
身に覚えのない婚姻届に手を伸ばせば、爆豪はあっさりと渡してくれた。
「偽装……?」
「テメェの直筆だわ!」
光に透かしてみたり、角度を変えてみたりするが、やはりどこからどう見ても婚姻届だ。
タチの悪いドッキリで、これは偽装されたものなのではないか。そう思ったのが声に出ていたのか、爆豪が吠えた。
確かに筆跡は私のものによく似ている。まさか酔った勢いで結婚に同意したというのだろうか。
「忘れたんか」
「あーなんか書いたような?」
「んなことだろうとは思った。もう一回言ってやるから耳の穴かっぽじってよく聞け」
曖昧な反応から昨夜の記憶がないことは伝わってしまったのだろう。爆破されるかと思ったが、爆豪はため息を吐いただけだった。そして、あろうことか昨夜のことを覚えていない私の為に、再現をしてくれるというのだ。
結婚するか死ぬか選べ、と究極の選択を迫る姿は容易に想像できるが、甘い言葉をかける姿は想像できない。期待からか心臓が妙にはやく脈打っていた。
「爆破されるか、俺と結婚するか。好きな方を選べ」
「予想通りの圧迫プロポーズ」
予想通りすぎて逆に恐ろしい。顔を赤らめることも、動揺することもない私の反応がおもしろくなかったのか、爆豪は下唇を突きだした。
「んだ、その反応。不満なんか」
「だって私にメリットなさすぎる」
「メリットならあんだろうが。働き先と住居が同時に保障される。月給制にするが時間外の勤務には特別手当をつける。生活費など必要経費はこっちで負担、週休完全2日、残業なし。ついでに親戚から結婚を急かされなくなる」
澱みのない口調で並べられた結婚をするにあたってのメリットは、なんとも心惹かれる内容だった。このような高待遇があるだろうか。
爆豪とは同じ寮で生活していたし、今さら気を遣うような仲でもない。同じ空間で生活することに何ら問題はない。
毎日顔を合わせるようになるのだから容姿も重要なポイントだ。品定めをすることを申し訳なく思いながらも、円満な夫婦生活を送るために必要なことだと割り切り、爆豪の顔に視線を向ける。
煌めく金色の髪、柘榴のように瑞々しく赤い瞳、高尚な印象をつくるすっとした鼻、少し厚みがある唇、全てがバランスよく小ぶりな輪郭におさまっている。正直かなり好みだ。
「採用!」
「なに採用側になっとんだ! テメェは採用される側だろうが」
熟考の末にだした結果を伝えたのだが、なぜだか爆豪に爆破された。これはさっそく家庭内暴力なのではないか?
こうして名字が爆豪に変わり、爆豪勝己との結婚生活が始まったのだった。
