あなたを撃てない機関銃





 梅雨が細くなっていく糸のようにすぎると、花屋に桔梗や朝顔が並びだす。もう歩いているだけで汗がにじむ。夏が来たのだ。
 きのうプール開きがあったけれど、わたしは一年のころから全部休んでいるので関係ない。夏休みは学校がないぶん家にいなくちゃいけないし、お兄ちゃんともそうそう会えなくなる。あきれるほど青い空も川をつくる星も、まぶしい色を湛える花もきれいだけど、だから夏が楽しい、と思えることはとくべつない。花も星も、いつだってそこにあるものはきれいだ。要さんや文月さんが、いつだって変わりなくわたしになにかを求めるように。
 七月にはいってから、わたしは夏の花とお兄ちゃんのことばかり考えてすごしていた。時々テストがあったり、授業中にあてられても、困るようなことはない。小数のかけ算とわり算は瞳お兄ちゃんが真剣に教えてくれた甲斐もあって困らなくなっていたし、勉強自体は得意だ。体育は相変わらずだけど、もうあきらめている。平均台を歩くだけなのに、あまりにも落ちて脚が痣だらけになってしまう。……ひとには向き不向きがある。

 足しげく通う公園にも、さすがに日が照っていた。早起きの蝉がどこかの樹で、孤軍奮闘といった風に鳴いている。きょうは祐樹お兄ちゃんがテスト前の補習とかなんとかで、脱走に成功した楓お兄ちゃんと、補習の必要がない瞳お兄ちゃんがいてくれた。
 刺繍がほどこされたリボンを結って、ぱしゃぱしゃと写真におさまっているだけでもワンピースの内側に熱気がこもる。休憩、と瞳お兄ちゃんが座っているベンチに腰かけて、わたしはふと「楓お兄ちゃんの写真は、撮らないの?」とたずねた。
 楓お兄ちゃんがごつごつしたカメラをかまえたまま、首をかしげる。

「――俺の?」
「うん。いつもわたしたちのこと撮ってくれるけど、お兄ちゃんの写真は撮らないでしょう」
「そりゃ、俺は撮る側だからね。撮るのが好きだし」
「……撮らないの?」
「撮りたいの? はは」

 かわいい顔、とつぶやきながら、ちょっとしょぼくれたわたしのことを撮る。瞳お兄ちゃんが「こいつのこと写真に残したってしょうがねえだろ」と、わたしの隣でため息をついた。楓お兄ちゃんがなんとも言えない笑顔で「はは、そうねー」と返すので、わたしはふたりの顔を交互にみた。これはよくないやつだ。
 祐樹お兄ちゃんがいないと、ふたりはたまに気分のテンポがずれたような雰囲気になる。わたしは祐樹お兄ちゃんではないのでじょうずに対応とか、場の空気をやわらげたりとかが出来ない。苦しまぎれに「だって……」とむくれたまま口を開く。

「楓お兄ちゃんはわたしの写真、持っててくれるでしょう。わたしだってお兄ちゃんたちの写真あったら、うれしいもの」
「俺の写真もあってほしいんだ」
「うん。……すきだもの」
 後半は、ちいさな、ささやくような声だった。瞳お兄ちゃんは無表情でだまってわたしをみおろしていたけど、楓お兄ちゃんは「ん? なんて?」と黒いカメラから顔をのぞかせた。
「なんでもない。でも、写真はあったらうれしい。ほんとだよ」
「そこは疑っちゃいないけどさ……」

 祐樹お兄ちゃんがいないときの楓お兄ちゃんは、ちょっとだけ饒舌になる。けど、ふたりきりで川原にいったあの日に比べれば、無口なほうだった。なんせ、わたしの隣には瞳お兄ちゃんがいる。ふたりきりではない。
 瞳お兄ちゃんは唇をまっすぐに結んで、英語の参考書をめくりながらわたしのランドセル番をしてくれたり、ベンチに座ったわたしの前髪を整えたりしてくれた。家が厳しくて成績もいい瞳お兄ちゃんは、テストに関係なく勉強をしておいたほうがいいんだと、前に聞いた。邪魔しないようにベンチから離れてばかりいると、「ちょっと休め」と声をかけられるし、わたしの些細な気づかいはほんとうにたよりなかった。いまだってベンチで休んでいるけど、瞳お兄ちゃんが水を飲ませてくれたり飴をわたしてきたり、あれこれお世話されている。すぐに手が届くだけましかもしれない、とすら思う。
 カメラをかまえた楓お兄ちゃんをじっと、みつめる。
 楓お兄ちゃんはわたしのことを写真に撮って、のこしてくれる。祐樹お兄ちゃんのことも、瞳お兄ちゃんも、お兄ちゃんがすきな景色も、切り抜いて。
 でも、そこにあなたはいない。
 写真を撮られるひとの笑顔はのこる。のこされる。
 撮るひとの、笑顔は? 声は? 楓お兄ちゃんがいてくれるいまこの瞬間を、楓お兄ちゃんはのこしてくれない。切り抜けない。
 眉がさがっていくわたしをみて、楓お兄ちゃんは困ったようにふぅ、と息をついた。「ごめんなさい……」とあわてて口にすると、「なにが?」とずいぶんほがらかに、なんでもなさそうに笑って、カメラの持ちかたを変えた。

「じゃあさ、葵が撮ってよ」
「えっ」
「俺の写真。俺は撮れないでしょ? 葵が撮ってくれないと」

 いたずらっ子みたいに首をかしげる。くろぐろとしたカメラを大事に差しだしながら、感情の読みとりにくい、淡いまなざしをしていた。怒らせてしまったのだろうか、と不安になる。あきれさせてしまったのだろうか。
 瞳お兄ちゃんの顔をちらりとみると、「……いいんじゃねえの。撮れば」と参考書を閉じながらうながされる。わたしはベンチからおりて、ゆっくり、ふしぎな温度で微笑んでいる楓お兄ちゃんに歩み寄った。すぐそばに楓お兄ちゃんの顔がある、と思ったら、ぶわっとリンドウの匂いがした。ひさしぶりに楓お兄ちゃんの匂いを意識したせいなのか、妙に顔があついし、胸が苦しくなる。困ってうつむき加減になりながら、わたしは両手でカメラを受けとる。どれほどそうっと抱えても、乱雑なのではないかとびくびくした。
 お兄ちゃんが持っていると軽々としてみえるのに、わたしが持つとカメラはずっしり骨にしみるような重たさで、鉄のかたまりのようだと思った。楓お兄ちゃんは鼻唄でもうたうように、わたしの首にカメラのストラップをかけてくれる。

「重たいでしょ。冴木に手伝ってもらいな」
「う、うん……」

 やさしい声に耳を撫でられて、ますます顔があつく、目のしたがはれぼったく感じたけれど、両手がふさがっていて目元をこすれない。よてよてとベンチに戻ると、瞳お兄ちゃんがわたしの脇の下に両手をつっこんで、自分の膝に座らせた。今度はクレマチスの匂いが濃厚になる。わたしは思考をカメラに集中させて、へんな気を払おうとする。

「これ、とりあえずシャッター押せばいいのか?」
「あー、うん。設定はいじんなくても大丈夫だと思う」
「だってよ。……ほら、ちゃんと構えろ。お前が撮りたいんだろ」

 瞳お兄ちゃんも不慣れそうな手つきで、わたしの両手を包むようにカメラを支えた。おおきな手のひらにわたしの手はすっぽりかくれて、カメラを持ちあげる腕がとつぜん楽になる。わたしはすこし離れたところにいる楓お兄ちゃんと、お兄ちゃんの姿を映す四角い画面を交互にみる。切り取られた景色の中の楓お兄ちゃんは、なんだかいつもとちがうような気がする。
 レンズで覗きこんだ景色は、楓お兄ちゃんが撮る写真とちがって、奇妙にくっきりしたりぼけたりしている。角度をちょっとずつ変えていると、楓お兄ちゃんの顔に焦点があう。カメラはわたしの手元よりずっとかしこい。
「……撮るね!」
「はい、ちーず」
 自分でそうつぶやきながら、楓お兄ちゃんは会心の笑みを浮かべる。

 かしゃ、

 機械的な音が響いて、せかいが切り抜かれる。
「どう?」
「……ううん……」
「ブレてるな」
 こっちに歩み寄ってきた楓お兄ちゃんは瞳お兄ちゃんのシンプルな感想を聞いて、むしろうれしそうに「はは、ほんとだ」とうなずいた。画面の中で楓お兄ちゃんは全身を左右に振られたようになっていて、せっかくの笑顔もあまり判別出来なかった。
 わたしは肩を落とす。

「ごめんなさい、失敗しちゃった」
「いや? 俺は全然いいよ。もっかい撮る?」
「ううん。多分、また失敗しちゃうから……」

 ゆっくり丁寧に、カメラを返す。楓お兄ちゃんはなぜかわからないほど底抜けに楽しそうで、カメラを受けとっても「はは」とちいさく笑い続けていた。
「葵が大きくなったら、また撮ってもらおうかな」
「……れ、練習する」
「大丈夫だって。今回は冴木のサポート不足だから」
「人のせいにすんな」
 瞳お兄ちゃんの悪態もまるで気にせずに笑っている楓お兄ちゃんの様子は、別段めずらしくもないのになんだか新鮮だった。
 夏のはじまりらしく、陽射しは木々や砂場を照りつけている。孤軍奮闘の蝉が死ぬころにはあふれるほどの数になって、夏を埋めつくすだろう。立葵はもう朽ちてしまいそうだけど、これからは向日葵がいちばんきれいな時期だ。暑さにすこし目を細めると、瞳お兄ちゃんが前髪を払いながら「どうした」と顔をのぞきこんでくる。首を振ってだいじょうぶと表すと、静かな眼差しのまま、冷えたペットボトルをおでこにあててくれた。

 楓お兄ちゃんはしばらくカメラの画面を開いていたけど、ふと顔をあげて「月末の土曜日、大丈夫そう」とつぶやいた。ペットボトルをおでこにあてられた姿で、わたしはぱっとはしゃいだ顔になる。
「ほんとう?」
 七月最後の土日いつも顔をあわせる駅から各駅停車ひとつぶんの場所で、夏祭りがあるらしい。結構ながく住んでるのに知らなかったけれど、よくみればたしかに、商店街や住宅街の電柱に、ちらほらとそのちらしが貼られていた。夏休みもはじまっていてわたしはやることなんてないので、お兄ちゃんたちが行けそうなら行こう、ということになったのだ。
 瞳お兄ちゃんと祐樹お兄ちゃんはなんとか予定をあわせられることになって、楓お兄ちゃんはおととい、カメラをかまえながら「難しいかも」と苦笑いしていた。お兄ちゃんを縛っているひとのそれは、呪いのように楓お兄ちゃんの全身をむしばんでいるようだった。祐樹お兄ちゃんのおとうさんに抱いたような、奈落のようにふかくて暗いきもちが生まれる。口を閉じて、妹と呼ばれても違和感がないような笑顔を浮かべる。
 誰も、彼もがなにかの呪縛を受けて。
 いつまでも、どこにもいけない。
 楓お兄ちゃんは「うん。まぁ人も多いし、向こうが予定あるから、大丈夫」とわたしの頭を撫でる。楓お兄ちゃんが選んでくれたリボンと髪が、夏のなまぬるい風にあおられる。
「うれしい」
 ぽつりとつぶやくと、楓お兄ちゃんは「喜びすぎでしょ」とたおやかに笑った。困っているようにはみえなくて、安心する。わがままを言ってしまったのではないかと、すこしだけ気になっていたから。
 わたしはじっと、さっきのお兄ちゃんの笑顔を思いだす。永遠にならなかった、あの笑顔。じょうずにのこせなかった一瞬。
 まぶたの裏で、鮮明にその笑顔が浮かぶ。
 楓お兄ちゃんのその顔をみれるのは、多分すごいことなんだろう。
 誰かが呪いになるほど強く、願うほどに。

 増えていく蝉の鳴き声に追われるように日々は過ぎて、あっという間に夏休みになった。夏はほんとうに生き急いだ季節だ。なにをするにもあしがはやいし、たいして常備してもいない生命力的なものをアスファルトも青空も植物も吸いとろうとしてくる。日中はゆっくり花をみる余裕もない。

 七月最後の土曜日、おやつ時をすぎてからねむりこけている要さんを確認して、家をでる。睦月も文月さんも他人の外出にはてんで無頓着で、この家の防犯が心配な反面、助かったとも思う。睦月とは冬に軽く話をしたきり、ほとんどお兄ちゃんたちのことを言っていないけれど、わたしがつけたあたらしいリボンのことは「兄貴の趣味じゃないね」と言った。わたしがだまってうなずくと、それ以上は聞かずにいてくれた。
 外にでると日がかたむきはじめていて、庭の向日葵が夕の風にさびしく揺れていた。お兄ちゃんとしか会わないから、きょうは白いワンピースを着ていた。ちょっとおとなっぽいデザインで、布がうすくみえるけどあんまり透けない。文月さんに、ちょっと背ものびてきたしあたらしい夏服がほしい、と言ったら用意されていたもので、かわいいからきょうまでとっておいたのだ。リボンも悩んだけれど、瞳お兄ちゃんが選んでくれた白いものにした。ぺらぺらのポケットに赤くてちいさながま口財布がはいっているのを確認して、白いサンダルで地面を蹴る。
 はずむように歩きだす。

 いつもの駅前広場で待ち合わせをしていたけれど、三人はもう集まっていて、私服姿できょろきょろとわたしをさがしていた。祐樹お兄ちゃんがわたしに気づいて、「あっ、葵ちゃん」とうれしそうに手を振る。わたしも手を振って、駆け寄る。
「なんか、いつもとちょっと違うね? かわいい。なんでかな」
 制服から私服になった三人のほうが変化はおおきいはずなのだけど、祐樹お兄ちゃんはわたしの服装をみて、わくわくした声でそう言った。

「これ、はじめて着るの。きょう着てこようと思って」
「そっか。そのせいかな。すごく似合ってる。すごくかわいいよ」
「えへへ、ありがとう」

 白いワンピースは袖がなくて肩がむきだしだったけど、丈はながくておなかから太ももの痣はほとんどかくれた。すこしだけ肩にのこっている殴打の痕も、髪であまりみえない。夏休みにはいってからの数日、ずっと家にこもって注意深く要さんの世話をし続けたのもあって、なんとか顔は殴られずに済んだ。お兄ちゃんたちとせっかくお祭りにいくのだし、きれいな自分でいたかった。いままでで一番、みためだけでもきれいに。
 祐樹お兄ちゃんと手をつなぐと、夏の湿っぽく灯るような空気にチューリップの匂いがまじる。ふくらんできた胸がいたむのをつないでいないほうの手でおさえて、静かに呼吸をする。祐樹お兄ちゃんはてろりとしたTシャツに細身のジーンズで、ひごろ制服をまじめに着ているのもあってずいぶんリラックスした雰囲気にみえる。楓お兄ちゃんも似たような服装だけど、ジーンズのシルエットはゆったりとしていたし、裾をすこし折っているせいかぜんぜん印象がちがった。瞳お兄ちゃんはふかいグレーのシャツに黒いズボンで、ひとりだけ腕時計をつけていたので、さっと電車の時間を確認してくれた。誰も鞄は持っていなくて、わたしはちょっと夏休みがうれしくなる。いつもとちがうお兄ちゃんたちをみれて、うかれていた。
 時期もあって駅前の人通りはすごかったけど、誰もがなんら関係のない、みしらぬひとだ。お兄ちゃんたちがわたしをみつけるこの駅前で、ほかにわたしたちをみつけるひとはいなかった。きっと、他人ってそんなものなんだ。わたしが思ってるより湿ったくなくて、やさしくもない。学校の先生も相変わらずわたしのことはみてみぬふりで、同級生たちははれもののように離れていく。……それが、きっと。普通。
 だから、みんなすきなひとのことを、とくべつだと思うのだ。
 どんな他人よりも色濃い、たいせつな時間を共有したいと願える相手は、とても得難いから。こんな出逢いがまるで起きない人生だって、あたりまえだろうから。とつぜん彗星のようにあらわれて花咲く、自分以外への強烈なきもちを、せかいのすべてと思うほどに重んじる。
 わたしだって似たようなものだった。
 すこし前まで、要さんのことも文月さんのことも、話に聞くおかあさんのことも、理解出来ないと思っていた。恋情に狂って、叶わないものを呪って。人生ぜんぶがまっくろい波にのまれて崩落するように、どうしようもなくなるのだ。どこにいっても、なにをしても。そうして腐りかけの花のような匂いをただよわせたまま、朽ちきることも出来ずに生きていく。
 そういう彼らに対するあわれみを、むかしはふしぎに感じていた。説明の出来ない奇怪な憐憫を持つ自分を、とっても薄情なこどもなんだ、と思っていた。
 自分の視界が開けると、あのひとたちが自分で自分を呪って、自分のすきで凍りついて、半分腐ったまま生きているとわかった。わたしの憐憫は、ちょっとの共感と、そうなりたくないという反発のいりまじったものだった。
 彼らのことを、おとななのに、とは思わない。おとなだって、年を重ねただけのこどもだ。わたしやお兄ちゃんたちがどこにもいけないように、あのひとたちもどこにもいけない。どこにいたって同じだから、どこにも、いけない。年を重ねたら自分の意思で出来ることは増えるけど、そうすれば親だとか幼馴染だとかの呪縛から逃げられるかもしれないけど、自分で勝手に呪われてしまった感情からは逃げられない。いくら年を重ねても。時間は呪いをといてくれない。
 わたしもかんたんに、そうなる。わかっているから、呪いたくない。自分も、他人も。腐らせたくない。
 祐樹お兄ちゃんの手をつよく握ると、お兄ちゃんはやさしく笑って「葵ちゃん、力ないねえ。かわいいね」とわたしの手をやわらかく、握りかえす。チューリップの匂いがする。せわしなく歩いていくひとたちの、あつさに滅入った横顔。楓お兄ちゃんがカメラをかまえて、「ふたりとも、こっち」と声をかける。振り向いて、レンズに笑いかける。
 駅前に樹はほとんどないのに、蝉の声がさわがしい。
 つないだ手のひらに汗がにじむ。
 わたしはワンピースの裾とリボンを揺らして、駅に向かうための階段をおりる。祐樹お兄ちゃんののんびりとした歩きかたに、ぎゅっと喉がつまる。いとしい、と思う。
 わたしはだいじょうぶ。
 だいじょうぶ。小説の中の女の子にも、恋に呪われたおとなたちにも、ならない。
 いまはまだ。
 楓お兄ちゃんのカメラが、夏に暮れた景色を切りとる。
 ぱしゃ、とシャッター音がひびいた。


 隣駅の商店街は、いつもの駅前とまるでちがった。駅を出るとすぐ、暗くなりはじめた空に浮かぶちょうちんが左右にのびていた。真夏の百鬼夜行みたいに連なっているそれをみあげていると、同じように駅からでてきたひとたちの波がわっと背中を押してきて、転びそうになる。瞳お兄ちゃんがぽすんとわたしの肩を支えてくれた。祐樹お兄ちゃんが申し訳なさそうに「ごめんね」とつぶやくので、だまって首を振る。

「……ひと、すごいね」
「うん。俺もほんと、久しぶりに来た。こんなに人いたんだ」
「おい、立ち止まってるとあぶねえから。何か食べるぞ」

 瞳お兄ちゃんの声に、わたしは「はあい」とうなずいて、一歩を踏みだす。ひとの群れに飛びこんだ瞬間、びっくりするほど空気がうすくなった。人間同士の距離が近くて、サウナみたいにあつくて、歩くのも苦労するほどだ。普段は普通に車道である部分を一帯閉鎖して夏祭り用にあてているらしく、夏祭りの端と端では消防車がでん、と車道を横断している。瞳お兄ちゃんが説明してくれた。祭りの道はぜんぶ、歩行者天国なんだって。
 楓お兄ちゃんはふしぎなくらいするするとひとの隙間を抜けて、器用に写真が撮りやすい地点をおさえていた。屋台を撮ったり、わたしたちを撮ったりしながら、「まずは焼きそばじゃね?」と提案する。瞳お兄ちゃんですら進みにくそうにしているので、わたしたちは楓お兄ちゃんが先陣をきる中、焼きそばの屋台へと歩きだす。ひとの密度もあってうす暗い空に、お祭りの屋台はよく映えた。みているだけでまぶしくて、楽しそうで、みんな夢のようにはしゃいでいる。へんなきぐるみを半端に着たおにいさんが、「きゅうりはいかがですかあ」と大声をあげて通りすぎていく。

「四パックでいい?」
 焼きそばの屋台にならぶと、楓お兄ちゃんが瞳お兄ちゃんに手を差しだす。瞳お兄ちゃんはすげなく、
「なんの手だバカ。どういう計算で四パックなんだよ」
「え、一人一パック食べない?」
「わたし、ちょっとでいい。ひとつあったらのこしちゃうかも……」
「じゃあ、葵ちゃんは俺と分ける?」
「葛は自分で買え。葵と日吉がひとつ?」
「あ、俺もね、今日はお金あるよ。お父さんなんか機嫌よくて、千円抜いてもバレなかったから」
 内緒だよ、とちいさく首をかしげながら祐樹お兄ちゃんは笑う。わたしはうなずいて、「わたしもきょう、お金ちょっとあるよ」と答える。ポケットのがま口には、睦月が持たせてくれていた五百円玉が二枚ある。出かけること自体はなにも言わないけど、睦月はお兄ちゃんたちといるわたしのことをそれとなく案じてくれていた。
「ここは俺が出したいから、出してもいい? 葵ちゃんのお金は、あとで葵ちゃんが好きなもの買うのに使ってほしいんだ」
「……わかった」

 三人がひとつずつ、一パック二百円の焼きそばを買う。愛想のいいはきはきしたおにいさんが、「妹さんのぶんもお箸いれとくね」と祐樹お兄ちゃんに声をかけて、お兄ちゃんは心底うれしそうにうなずく。
 お祭りの夜は全体にじりっとした興奮が充満しているようで、あちこちで浴衣を着たりネオンぽく光るヘアバンドをつけているひとたちが、小爆発を起こすように大声で笑っている。四人で道のすみに行って焼きそばをひとくち食べると、出来立てのそれはたまらなくおいしかった。楓お兄ちゃんがおどろきの速度でたいらげて「次なに食う?」とわたしに聞いてくる。瞳お兄ちゃんが「お前以外の全員は箸持ってるだろ」と背中を肘で小突いていた。
 時間の流れはとてつもなくはやいようにも、ふしぎとのんびりなようにも感じた。いままでもすくなくはなかったけど、きょうは楓お兄ちゃんにこっち向いて、と言われることがすごく多かった。かき氷を食べて写真を撮って、息をつくようにひとのすくない場所を歩いてたらそれも撮って、お兄ちゃんたちが笑ってるのも撮って。気がついたら空は濃紺になって、屋台とちょうちんの明かりが夜を煌々と照らしている。
 じゃがバターの屋台をわたしがちょっと気にしたことに気づいたのも、レンズを覗きこむ楓お兄ちゃんだった。「食べる?」とたずねられて、すこし迷ってから「……たべたい」と答えた。祐樹お兄ちゃんと手をつないで、列にならぶ。熱に浮かされたようなぼうっとした心地で、わたしは白いワンピースにソースやシロップをこぼしてないか、いまさら気にする。真っ白な布は汚れもなく、屋台の強烈なライトを受けて幽霊のようにうっすら光ってみえた。

「妹さんと?」
 屋台のおねえさんはやっぱり、そんなことを口にする。祐樹お兄ちゃんが「はい」とほこほこうなずくのをみあげてると、「かっこいいしやさしいお兄ちゃんで、素敵ね」とわたしにも話しかけてくれた。
「……はい。だいすきな、お兄ちゃんです」
「仲がいいのね。素敵だわ」
「ありがとうございます」
 紙製の容器にはいったじゃがバターを受け取って、待ってくれていた瞳お兄ちゃんと楓お兄ちゃんのもとに戻る。祐樹お兄ちゃんが「俺、葵ちゃんと兄妹に見えるみたい」と歌うように話すあいだ、わたしは手の中の容器をじいっとみつめていた。ひどく蒸しあついこの空間でも、とろけたバターがかかったじゃがいもはほかほかと湯気をたてている。
 大柄な男のひとがずんずんと歩いてきて、ぼんやりしていたわたしの背中にどかっ、とぶつかる。ぎょっとした楓お兄ちゃんが片手で支えてくれて、わたしは容器に顔をつっこんで転びかけている、なんとも言えない姿勢でかたまった。濃厚な、バターの匂いがした。っていうかバターの匂いしかしなかった。
「あ、葵ちゃん? 大丈夫? どこか痛くした?」
「……あつい……」
 鼻の頭をバターまみれにしたわたしは、お兄ちゃんたちが見守る中そうつぶやいて、ちょっとべそをかいた。あついし、すごくあついし、なんだか言いようもなく悔しいようなかなしいような気がした。すんすんと鼻をこすっていると楓お兄ちゃんがレンズを向けてきて、「葵」とやさしく呼びかける。顔をあげると、不満そうに泣いているわたしの写真を撮った。楓お兄ちゃんはふしぎなほど楽しそうだった。

「こんなかお、撮らないで」
「いいじゃん。かわいいよ。鼻にバターつけてる葵、すげーかわいい」

 べそをかいたままむっとしているわたしの鼻を、笑いをこらえているような瞳お兄ちゃんが拭いてくれる。「はは、べったべた」じゃがバター屋さんでもらったおてふきはぬるかった。祐樹お兄ちゃんもふふ、とひそやかにだけどしっかり笑っていて、わたしはむすったれているのに、三人はどんどん楽しそうになる。いままで一緒にいたどんな日よりも、なににも縛られず、気にもせず、三人は笑っていた。
 バターの匂いが落ちついて、わたしはようやくじゃがバターを食べる。祐樹お兄ちゃんが「おいしい?」と顔を覗きこんできて、チューリップの匂いがする。むすったれた感情が晴れたわたしは、ちょっとだけ口元をほころばせた。
「うん。おいしい」


 遅くに帰ることは出来ないので、そのあとすぐ電車に乗って、駅前からいつもの公園までを歩いて、公園で三人とわかれることにした。次はいつ会えるのだろう。夏休みの三人は、それぞれの事情でとてもじゃないけれどわたしと会っている時間なんてなかった。
「次のおっきなお祭りはね、来月の二十五日にあるんだ」
 暗い公園で、祐樹お兄ちゃんはうれしそうにそう言った。三人の花の匂いに、夜が夢をみるようなお祭りの残滓がまじっている。
 わたしは目を見開いて、

「祐樹お兄ちゃんの誕生日」
「わ、憶えててくれたんだね」
「うん。忘れない。ふたりのもちゃんとおぼえてる」

 祐樹お兄ちゃんは八月二十五日、わたしは八月十九日に生まれた。誕生日を祝ってもらったことは一度もなくて、気にしたことはない。でもそれを話したら、三人はすこし遅れるけど、とお祝いの約束をしてくれていた。わたしも祐樹お兄ちゃんの誕生日をお祝いするつもりだった。

「お祭りが誕生日にあるの、すてき」
「今日は楽しかった?」
「すごく」
「じゃあ、二十五日も一緒に行こう。俺、予定あけておくね」

 わたしはふかくうなずいて、誰もいない公園の外をみる。百日紅の匂いはしない。
 あぁ、かえらなくちゃ。
 帰ったら、次は一月くらい会えない。わたしはこの一年ほどでおそろしいほど弱くなっていて、三人がいないとあからさまに肩を落としてさみしがる、だめなこどもになっていた。三人と会っているときは楽しいのでずうっと笑っていられるけど、確実にわたしのこころはおさなくなっていた。情に食われて。
 会えないことを呪ったら、それこそあのひとたちと同じになる。
 わたしは笑顔をつくって、「……また」と手を振る。瞳お兄ちゃんが頭をぎゅっと押すように撫でてくれた。楓お兄ちゃんが最後に一枚、写真を撮ってくれると言った。「普通に歩いてっていいよ」とうながされて、わたしは静かに公園の入り口までを歩きだす。

「――葵」

 呼び声に、振り向く。
 ぱしゃ、
 切りとられたわたしは、どんな顔をしていたのだろう。楓お兄ちゃんは満足そうにうなずいて、「またな」と笑った。それを確認することはなかった。
 わたしは手を振って、公園をでる。
 息をつく。
 夏の匂いがする。


 家に帰ると、めずらしく話し声が聞こえた。要さんはこんなに饒舌じゃないし、睦月は友達を家に呼ばない。文月さんと編集のおじさんかな、とリビングを覗きこむ。
 知らない女のひとがいた。
 真剣そうな顔の文月さんと、なにか話している。ソファに座ったそのひとの顔はわたしからみえなくて、ながくてやわらかそうな黒髪がふわふわと、背中にたれている。
 文月さんがわたしに気づいた。顔をあげて微笑む。
「葵、おかえり」
 その声に、女のひとがわたしを振り返る。
 あっ、とわたしはつぶやいて、言葉をなくした。知ってるひとだ、と思った。わたしを五年前、この家からだそうとしたひと。もともと細かったのがさらに痩せたようだけど、顔はおぼえてる。
 おかあさん。
 すごくいやな、どろどろとした不安が毒のように胸に広がっていく。ふくらみを押しつぶすようにおさえて、わたしは文月さんに「ただいま」と声を絞りだす。おかあさんは穴があくほどわたしをみつめて、まばたきすらしない。幽霊のように青ざめているせいか、すごく美人だけど、みていると不気味で落ちつかない。わたしの母親だなんて信じられない、うつくしくて似ていないひと。
 文月さんがわたしを手招きする。
 ソファの横まで歩み寄ると、わたしの顔をまっすぐにみて、

「葵、あのね。九月から学校が変わるかもしれないんだ」
「……ひっこすの?」
「あぁ、違うんだ。俺たちは変わらないよ。……葵は本当なら、翼さんのもとで暮らすはずだったから。翼さん、先日再婚したそうなんだ」

 わたしはだまったまま、文月さんの顔と、おかあさんの顔をみる。目があうと、おかあさんは弱々しく微笑んだ。うれしくもみえないし、申し訳なさそうにもしていない。なにを考えているのかさっぱりわからない。なにも考えていないようにもみえる。文月さんの目元はよくみればかすかにひきつっていて、あぁ、このひとは目の前の女がすきですきで凍りついたのだった、と思いだす。
 文月さんがわたしに、濁った視線を向ける。
 そんな目を向けられても、わたしにはどうしようもない。
 自分のすきで腐らせた気持ちでしょう。そう言いたくなるのをぐっとこらえて、母親と叔父をあわれむような、みくびるような気持ちを、噛み殺すように歯ぎしりする。わたしはこどもで、おとながいないと生きていけなくて、まだどこにもいけない。どれだけおとなをあなどっていても、わたしひとりでは自由になれない。こどもはよわくてちいさい。
 手を引かれたら、どこかへ。
 いかなくちゃいけないのだ。

(お兄ちゃんたちと、ずっと、一緒にいたい……)

 脳裏に、いつか叫んだ言葉がよみがえる。あぁ、破ってしまうのだ、と切なくなる。わたしが願ったのに。わたしが言ったのに。わたしが、すきなのに。離れてしまうのはわたしなのだ。ここにいられないのはわたしだ。なんてひどいことをしたんだろうと、絶望的な後悔がおしよせる。守れもしないことを願った。暗い海に放り込まれたように全身が冷える。
 わたしも同じようになってしまうのだろうか。
 この、ひとたちと。同じように。
 失うものを永遠に欲して、腐った花をあきらめきれずに抱え続けて。
 誰かに代理をおしつけて。
 そんな人間に、なるんだろうか。
 冷房のきいたリビングに立ち尽くしたまま、わたしはそっと目を閉じる。「……うん、わかった」とふたりに聞こえるよう返事をして、すこし笑う。それからうつむいて、ちいさくつぶやいた。


「……おにいちゃん」


 お兄ちゃん。


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もうじき夏が終わるから










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