底に飴玉





 数日しないうちに、わたしはまた三人にみつけられた。
「葵ちゃん?」と声をかけてきたのは祐樹さんだった。のどから背中にしっぷを貼りたくっていたわたしは、その日もあてどなく動いていた足を止めて、三人の顔をみあげた。

「……あ、」
「うん?」
「あの、ごめんなさい。勝手に、帰っちゃって」

 申し訳なくてうまくしゃべれないわたしの頭をやさしく撫でて、楓さんは「気にしなくていいよ」と笑った。祐樹さんが同調するようにふかくうなずく。瞳さんはなにも言わなかったけど、わたしの手を引いて歩いてくれた。
 わたしたちは住宅街にぽつんとある公園をおとずれ、ベンチに腰かけて、どこの小学校に通ってるのか、三人がどこの高校の一年生なのか、あたりさわりのない話をした。すぐに呼び声が聞こえてわたしは帰ったけど、数日以内にまた街中で出くわす。彼らはわたしをみつけるのがうまくて、二、三日に一回かそれ以上の頻度で名前を呼ばれた。大抵、楓さんか祐樹さんの声だった。三人そろっていない日もあったけど、誰かがみかけたらかならず、と言いきれるほど、彼らとわたしは頻繁に顔をあわせた。
 最初に会った日の痣が薄れてきても、毎日肌の上にはあたらしい痕がうまれるから、見ばえにそこまで変化はない。
 わたしは変わらないけど、季節は変わる。
 蝉の声がすくなくなると、あっという間に夏が終わる。
 樹の多い公園にいればまだいくらか聞こえてくるけど、駅前の商店街ではほとんど聞かなくなっていた。九月もなかばを過ぎると、わたしと三人が会った回数は片手の数をこえた。わたしは小学校でよく話す子もいなければ家が近い子もいなかったので、高校生のおにいさん三人と一緒にいることは誰にも話さなかった。
 わたしが帰る家には、わたし以外に三人の住人がいる。百日紅の匂いがする要さん――わたしの父親と、要さんの弟の文月ふづきさんと、ふたりとだいぶ年の離れた睦月むつき。睦月はわたしとみっつしか違わないけど、要さんと文月さんのことを兄と呼ぶ。顔はよく似ているけれど、睦月だけ髪も真っ白で瞳の色もうすい。わたしが知らなくてもいい、ちょっとたのしくない感じの話が、いろいろあるのだろう。みんな名字は寿賀すがで、わたしも小学校に通う前は同じ名字だったらしい。是枝という名字が離れて暮らしているおかあさんのものであることは、睦月が教えてくれた。要さんがふらりと外に出て、文月さんが仕事部屋の書斎にこもっているとき、睦月はたまにわたしの相手をしてくれた。
 その睦月も含めて、わたしはけっして、三人の話をしなかった。
 なんとなく、話したら奪われてしまう気がしたのだ。睦月はなにもしないけれど、要さんに抵抗する力はないし、文月さんのすることも咎められない。文月さんはわたしのことを叩いたり殴ったりしないけど、……三人のことを共有したい、とは思えなかった。
 だから数日おきに声をかけてくるおにいさんたちとわたしのやりとりは、わたしたちしか知らない。それは思い返してみれば、わたしの人生におとずれたはじめての自由だった。必要にせまられない誰かと一緒にいて、他愛ない話をくり返す。それだけの些細なことがずっと、起きなかった。
 わたしは大抵、読んだ本の話と、授業で習った内容、登下校中にみかけた花について話した。三人は自分の話をしたり、それに絡めてわたしについてたずねたりしてくれた。写真を撮るのがすきな楓さんがわたしに写真はすきか訊いたり、勉強が得意な瞳さんが算数でちょっとわからないところを解説してくれたり。祐樹さんはわたしたちの話をにこにこと聞いていることが多かったけど、家の話になるとすこしだけ、眉をひそめて目を伏せた。

 九月末、蝉の声がわずかに残る公園で楓さんが差しだした飴をあらためて拒否するわたしに、「この飴、嫌いなの?」とたずねたのも祐樹さんだった。
「ううん。……たべたことないけど、嫌いじゃないと思う。でも、要さんが怒るから」
 口に出してから、あたりに百日紅の匂いがしないか注意深く空気を吸いこむ。仕事についていない要さんは毎日どこかをふらふらとして、家に帰ろうというタイミングでわたしを探しはじめる。時間にはムラがあった。話しはじめてすぐ帰る日もあれば、日が暮れるころまで平気なときもある。なんにせよ、わたしがなにか一定の存在を意識して帰宅していることは、三人とも理解してくれていた。

「要さんっていうのは、葵ちゃんの……お父さん?」
「うん」
 おとうさん、と呼んだことがないのは要さんにそう言われたからだ。文月さんや睦月もわたしにどこかよそよそしく、おかあさんとは会話をした記憶がない。わたしに家族と呼べるひとはいなくて、それを特別つらく思ったことはない。困ったことといえば、家族に手紙を書きましょう、という授業くらいだ。道徳や国語で家族の絆を教わるときは、正解に近そうなことを言えばいい。手紙は空想で書ききるのがむずかしかった。でも、それくらいだ。

「葵ちゃんがごはんを食べるの、お父さんは嫌がるの?」
「……なんでも、いやだと思う。ここにいるのも、学校に行くのも」
「学校も嫌なの? どうして」
「家にいてほしかったんだと思う、から」

 小学校にはいるまで、わたしは家の地下室から出たことがほとんどなかった。本とちいさな灯りしかない部屋を出るのは、トイレに行かせてもらうときと、たまに文月さんがお風呂にいれてくれるとき。ごはんもねるのも、わたしの一日は地下室の中で完結していた。睦月と顔をあわせることすらなかったのだから、いまわたしが小学校でそれなりに多くの他者にまざって生きていることは、きっと要さんには不愉快だろう。
 祐樹さんが「……ひどいね」とつぶやく。わたしは首をかしげて、「わかんない」と答えた。ずっとそうだったのだ。普通のことに疑問をはさむ考えがなかった。

「要さんのすきなひとに、わたしの顔が似てるんだって。だから……」
「そんなの、葵ちゃんを殴る理由にならないよ」

 祐樹さんの声がふしぎなほど低く強張っていて、顔をみると怒りをこらえるように唇を結んだ祐樹さんと目があって、「葵ちゃんには怒ってないよ」と顔がほころぶ。
 となりでわたしたちをみていた瞳さんが、「バレなきゃいいんだよ」とそっけなく言った。楓さんも「そうそう、飴なんてとけちゃうんだから」と軽く同意をしめす。わたしは「とけるの?」と、楓さんの掌にあるちいさなピンクの包みをみた。
「とけるとける。言わなきゃ大丈夫っしょ」
 じっと飴をみていると、楓さんが包みをひらいてちいさな三角形の宝石をだした。「はい、口開けてー」と言われるがままに唇を開くと、ころんと宝石が放りこまれる。舌の上をころころと転がる飴は、果物や野菜とはぜんぜんちがう、とろけるような甘さだった。目をぱちぱちさせて飴を口のなかで動かしていると、楓さんが「うまい?」と笑う。三回うなずいた。
「噛んでもいいけど、噛むとすぐなくなっちゃうからなー」
「……」噛めるんだ、と思っているとちょうど飴が奥の歯にあたって、そのままがり、と歯ではさみこんでしまった。しゃくしゃく、がり、という音を聞いて「あ」と祐樹さんが声をもらす。噛むとそのあたりいったいに甘い味が広がって、それもおいしかった。
「おいしい」
 三人をみあげる顔がほころぶのが、自分でもわかった。
 呼吸がすこしだけ楽になるのを感じて、わたしはいままでの自分が、そうとは知らぬままぴんと張りつめていたことに気づく。わたしは普通に呼吸をして生きているつもりだったけど、いつも要さんの存在を気にしたり、文月さんの心配を気にしたりしていた。自分が自分のままで生きていられる瞬間が、ほとんどなくて。

 もしかしたらそれはすこし、さみしいことなのかもしれない。

 わたしが飴をおいしいと言っただけで、祐樹さんはひどくうれしそうにした。楓さんもにこにこしていて、瞳さんはあまりしゃべらなかったけど、わたしのランドセルを膝にのせてくれていた。
 夏が終わっていく時期の夕暮れは、思っていたよりも早い。烏とヒグラシが鳴きはじめたのと同じくらい、百日紅の匂いがぴんとわたしの背筋をのばした。ベンチから飛ぶようにおりて、「帰るのか」と言いながらランドセルをわたしてくれる瞳さんにうなずく。

「うん。いかなくちゃ。飴ありがとう」

 その日、わたしははじめて三人に手を振って、「……また」と口にした。祐樹さんがきらきらした笑顔でうなずいて、「うん、うん。またね」と答える。わたしの言葉に誰かが笑ってくれるのがうれしいなんて、知らなかった。



 ランドセルを背負い公園を出て、百日紅の匂いがするほうへ小走りする。夕時の住宅街はちょっと不気味で、細く枝分かれした路地の奥が黒々としているのも苦手だった。蟻地獄のような闇が、いたるところで口を開けている。
 うつむきがちに道の真ん中を走っていると、目の前にみなれた靴がみえた。
 顔をあげる。
 まっかな陽に照らされた切れ長の瞳が、わたしをぼんやりとみていた。作り物のような顔立ちが幽鬼のように暗く曇って、黒い瞳はいまにも死にそうな苦痛を湛えている。わたしと同じ色の、わたしとぜんぜん似ていない目。
 黒い鏡のような瞳孔にわたしの顔が映りこむなり、要さんは手をあげてわたしの頬を叩いた。
 強い力が全身を揺さぶって、アスファルトにおしりをつく。叩かれた頬を中心に頭がぐらぐらしたけど、だまって立ち上がる。抵抗すると要さんはもっと怒るから、なにも言わずに顔をみあげる。要さんは苛立ちを隠さず、わたしの目元を殴りつける。地面にたおれこむと、なまあたたかいアスファルトで肩をうった。

 いたくはない。
 なんにも、どこも、いたくなったことなんてない。
 ただ頭が揺れて、吐きそうになるだけで。
 毎日、同じことをくり返している。わたしが殴られるのも蹴られるのも、誰のせいでもない。おなかを蹴られて胃の中のものを吐き出しそうになるのを、ぐっとこらえる。いま吐いたら飴をもらったことが知られてしまうかもしれない。
 いたくなるより顔がはれるより、そっちのほうがいやだ。

「なんで笑ってるんだ」と、くぐもった声がわたしを責める。わたしは地面に這いながら自分のほっぺに触れた。もちろんそんなことしたって、笑っているかどうかなんて、わかるはずもない。
 わらってる?
 自分が笑っていたことに、殴られていることもそっちのけですこし驚いていた。
 ……なんで。
 もうあのひとたちはいないのに。
 離れても、わたし。
 わらってるんだろう。
 要さんはすぐに飽きたのか、嘔吐をこらえてせきこむわたしを冷たくみおろして「帰る」と手首をつかんでくる。粗い手つきで立たされて、ぐいぐいと引っ張られるまま歩くわたしは、ふと後ろをみる。

 あたりまえのように誰もいないことに、ひどく安堵した。



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もうじき夏が終わるから










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