――ユゥイを出して
「……っ!」
そんな昔の夢を見て、ファイ・D・フローライトは覚醒した。ほとんど反射で上半身を起こす。……自分でもひどく狼狽しているのが分かるほど息が荒かった。
「……夢、」
悪夢を見たとき特有のひどい倦怠感が身体を包む。纏わりつくようなじっとりとした暑さは、ここがセレスに比べて温暖な気候だからというのだけが理由ではあるまい。らしくもなく心臓は早鐘のように鼓動を刻んでおり、相当魘されていたことが察せられる。悪夢に慄くように震える右手首を無理矢理左手で押さえつけ、ファイは「参ったなあ……」と小さく呟いて布団の上に蹲った。いつもなら息をするように容易く浮かべられる笑顔が引き攣っている。
「……大丈夫だよ」
大丈夫だよファイ、オレは忘れていない。今でも覚えている。雪深きヴァレリアの谷のその底で、ただ無為に在り続けた日々。死体の腐臭も、生まれてきただけで罪である絶望も――大切な君を犠牲にしてまで、命惜しさに自分だけのうのうと助かってしまった汚さも。ちゃんと覚えている。
知らなかった、そんなつもりではなかった、そんな言い訳は通用しない。あのときファイ≠選ばなかったのは紛れもない事実で、だからこそ自分は生き残った。……生き残ってしまった。その選択が、今に続いている。臭いものに蓋をするようにアシュラ王を眠りに就かせ、これから共に旅をする仲間をずっと裏切り続けるという現実に。
――構わない、と思った。無論良心の呵責はあるが、どうせ自分はいちばん最初の段階で間違えている。何よりも大事な片割れを踏み台にして生を奪い取り、本当の父親のように愛してくれた王はこの身のせいで狂気に走ってしまった。
……ならば、せめてこの世でいちばん大切なひとつだけは取り戻したいと思うのは何がおかしいというのか。
間違えてしまった愚かしい
よろりと立ち上がり、引き戸を引いて廊下に出る。同室の黒鋼は壁にもたれて目を閉じたまま指先のひとつも動かさない。ひょっとしたら起こしてしまったのかもしれないが暗がりのせいで狸寝入りしているかどうかまでは分からなかったし、何より今のファイにそこまで気遣う余裕はなかった。……一度落ち着かねば眠ることなどできそうにない。
水でも貰って落ち着こうか。本当なら浴びるぐらいに酒を飲んで全部忘れてしまいたいのだが、明日は小狼たちと姫の記憶に関する情報を集めるために周辺を探索する約束がある。前日の無茶は控えるべきだろう。
引き戸を引いて廊下に踏みだそうとすると、小柄な人影がよろよろとこちらに歩いてきているのが目にとまった。一瞬小狼かと思ったが、彼の泊まっている部屋は逆方向だ。となれば――。
「あれ、未侑ちゃんだ。まだ起きてたのー?」
「……ファイさん」
今にも倒れそうな足どりでふらふらとこちらに向かってきていたのは未侑だった。その表情は憔悴しきっているが、こちらを不審に思うような様子はない。この分だと、上手く笑顔の仮面を貼りつけることはできているようだ。……ひょっとしたら、彼女も自分と同じで何か悪い夢でも見たのかもしれない。
「……その、眠れなくて」
「ん、オレもなんだよねー。目が覚めちゃってー。はい、お水どうぞ」
「……ありがとうございます」
ふたりで居間のソファに腰かけ、食器棚から取り出した来客用のコップに水を注いで彼女に渡してやる。呟くようなか細い声で礼を言った未侑は俯きがちに水を飲み干し、何かを考え込むように黙ってしまった。
初日は慌ただしかったためゆっくり彼女を観察する暇はなかったが、こうして改めて見ると本当に平凡な、どこにでもいる少女だった。小狼のような揺るぎない信念があるわけでもなければ黒鋼のように無理にでも自分を押し通すような我の強さがあるわけでもなく、かといって自分のように我が身を削ってでも果たしたい目的があるわけでもない、ひどく普通のこども。市井で平凡ながらもささやかな幸せを掴み、緩やかな日々を過ごすのがお似合いの、こんな危険な異世界の旅など無縁としか思えないような人間だった。現に今も心細さからか目に涙を溜めている。泣くまいと堪えてはいるようだが、その努力は実っていないようだ。
「……泣いてたのかな?」
「……え」
思わずといった風に顔をあげた未侑の、紫の瞳と視線がかち合う。暗がりに涙で揺らめく瞳がよく映えた。
「オレは自分の意思で世界を渡ったクチだから、君の事情について知ったように慰めたり共感したりすることはできないけど――寂しいなら、泣いてもいいんじゃないかな」
「それ、は……」
「ね?」
そっと後ろを向き、彼女が泣けるようにと見ないふりをする。ある程度事実を把握している自分には、こんなことしかできない。
――だって、彼女はどうせ元いた世界には帰れない。
飛王がファイにかけた呪いはふたつ。ひとつは思い出せないが、もうひとつは自分より強い魔力を持っている人間を殺害する≠ニいうもの。
更にファイにはもうひとつ、飛王から与えられた使命があった。
「魔女の一手として、女が更にひとり同行するだろう――機を見てそれを殺せ。我が計画の、ひいてはおまえの願いの邪魔になる」
谷底での契約を思い出す。理由は説明しなかったが、あの男はこの娘が願いを妨げる要因になると言った。……ファイ≠生き返らせるために、排除しなければならないのだと。
嘘かもしれない。いや、嘘なのだろう。そんなことは分かっていた。こんな無力なこどもがファイの願いの邪魔になるなんて到底思えない。――でも、それでも。少しでもそうなる♂ツ能性があるのなら。
「……大した目的も信念もなく旅の同行を選ぶような脆い女だ。それらしい言葉のひとつでも囁いてやれば簡単に心を許すだろう。女の心を開き、近付いて殺すのだ」
今、後ろで帰りたいと縋りながら泣いている彼女は永遠に元の世界には帰れない。オレが殺す。いつかこの手で殺す。今こうしていることだって未侑が少しでも自分に心を許すように彼女の欲しい言葉を囁いているだけの、打算と企みと――あとはほんの少しの同情によるものでしかない。いつか死ぬことが決定している家畜を可愛がるような、薄汚い自己満足。
(……とんだ偽善者だ)
やはり自分の性根は腐っているらしいと小さく吐いた溜め息は、嗚咽に紛れて掻き消えてしまった。
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