大袈裟に指先にぐるぐると巻かれた絆創膏や纏わせた甘い匂いで今日が2月14日だと知ったのはとうに昼を過ぎてからの事であった。

もうそろそろダンボール箱に詰められた大量のチョコレートが我が家に届く頃かと思うと憂鬱になってしまうのは仕方が無い。その殆どは自分の描く漫画のキャラクターへの物であったけれど中にはこの岸辺露伴宛ての物も幾つか混じっていて陳腐な愛の言葉が綴られたメッセージカードがチョコレートに添えてある事も珍しくは無かったのである。はあ、憂鬱だ。あれだけ大量のチョコレートが家に届いたところで処分に困るだけだというのに。百貨店で扱う高級ブランドの其れならともかくとして、赤の他人の手作りなんて代物は口にしたくも無い。かと言って全て潔く捨ててしまうかと言われると躊躇してしまうのは其れらの送り主が全員自分の漫画のファンだからである。何だかんだでファンありきな職業。大切にしたいと思ってしまうのも本心である。はあ…もう数日すれば宅配業者が大きな段ボールを抱えて呼び鈴を鳴らすかと思うと頭が痛い。

「溜息吐くと幸せが逃げるんだよ、露伴ちゃん」

絆創膏が幾重にも巻かれた不格好な指でページを捲ってからなまえが視線を寄越せば身長の低い彼女は自ずとぼくを見上げる形になった。この世界で色んな人間が吐いてきたであろう何とも安っぽい台詞に思わず鼻で笑う。大袈裟にふん、と鼻を鳴らせばなまえは不機嫌そうに眉を顰めたが彼女の持つ本をよくよく見れば今度は自分が眉間に皺を寄せる羽目になる。

「ぼくの前で他の漫画家の描いた漫画なんて読むなよ」
「そんな事露伴ちゃんに言われる筋合い無いもん」
「何だってェ?そんな俗っぽい絵が視界に入るだけでイラつくんだよ。まさかそれ自腹で買ったんじゃ無いだろうな?」
「オレ様露伴ちゃんがうざいよお」
「その言い方はやめろ。余計にイラつく」
「お子ちゃま露伴ちゃんのがいいかな」
「やめろって言ってるだろ」

身を乗り出して漫画を取り上げればなまえもまた「返してよお」なんて身体を被せるように寄せるものだから再びぼくの鼻孔は甘い匂いにくすぐられる事となる。フーン、どうせなまえの事だから今年も手作りチョコとやらをぼくに用意しているんだろう。そう思えばこんな漫画の事なんてどうでも良くなってしまって結局は素直になまえに漫画を返す事となってしまう。

大体何でそんなに指に怪我をするんだよ。何をぼくの為に作ったかは知らないがお菓子作りで怪我をするって相当センスが無いんじゃあないのか?大方チョコレートを細かく刻む時にでもやらかしたんだろうが最近は製菓用に小さなタブレット状になってる物を売ってるのを知らないのか?不器用なんだからそういうのを使えばいいだろうに。そもそも自分に見合ったレベルの物を作ろうとしないからそんな風になるんだろ。せいぜいなまえにはチョコレートを溶かして型に入れて再び固めました、なんて料理とは到底呼べないような物がお似合いだと思うね。

文句を百ほど並べてみても「露伴ちゃんにチョコレートだよ〜」と差し出されるのを想像するだけで緩む頬には何の効果も無いらしい。どうせそのバッグの中にそっと忍ばせてあるんだろうがこんな温かいリビングに置きっぱなしだと溶けるんじゃあないのか、なんて余計な心配までする始末である。もしかして溶けないような代物なのか?例えばガトーショコラとかあの類か?…いやいやなまえがケーキなんて作れる訳がない。そう言えば去年くれたのも中々酷かったよなァ。チョコレートが混ぜられたクッキーで見た目はまあそれなりだったけれど一口かじれば中身は半生、というかほぼ生焼けな状態のとんでもない代物だった訳だ。卵とバターと小麦粉が混ぜられただけの状態の物を食わされる身にもなってほしい。…まあ結局は全部食べたんだけどな。翌日腹を下した記憶がある。

「あ、もう15時だ。今日はもう帰るね」
「え」

甘い記憶どころか苦いばかりの過去の2月14日を振り返っていた所で急遽部屋の空気を切り裂く言葉に思わず目を見開けば「どうしたの」と返される。いや…いやいや…どうしたのじゃないだろう君。貰ってないぞ、ぼくは未だ貰うべき物を貰っていない…ッ!

「随分と今日は早く帰るんだな。何か予定でもあるのか」
「うーん…うん、ちょっと…」
「へ、へぇ…」

歯切れの悪い返答に声が裏返ったのですぐに咳払いをして誤魔化すがなまえはそんな事を気にも留めていないようでコートを羽織って帰り支度をしている真っ最中である。まさか今日が2月14日だと言う事を忘れているんじゃあ無いだろうな?マヌケななまえの事だから可能性が無くも無いが甘い匂いを纏わせているあたりそれは無さそうだし…それならばどうして、と頭を捻ればすぐにははあ、と口元を歪ませる考えが浮かぶ。

なまえの奴…ぼくにチョコレートを渡すのを恥ずかしがっているな?

「露伴ちゃんにチョコレート作ってきたけど恥ずかしくて渡せないよぉ…。どうしようどうしよう」なんて内心気が気じゃないなまえを想うと再び頬が緩む。馬鹿な奴め、何年の付き合いだと思ってるんだよ。チョコレートを渡すのが恥ずかしいだってェ?知らない所が無いと言うぐらいに外見も中身も把握しているつもりなのだから今更そんなウブな反応を見せられた所でぼくの中のなまえの評価はそう簡単に変わるまい。だからとっととチョコレート渡しなよ。ほら、そのバッグの中に忍ばせてあるんだろう?用事があるっていうのも嘘なんだろう?玄関まで見送ってやるからその間に決心して早く渡せよ、なあ。「上手く作れたかわかんないんだけど…」なんて恥ずかしそうに上目使いでぼくを見つめろよ、なあ!早く!

「じゃあ露伴ちゃんばいばい」

ギイ、と音を立てて扉が閉まればなまえは見えなくなった。………。腕組みしていた両手を見てみる。何もない。何も手にしていない。チョコレート、貰ってない。携帯の画面を確認してみる。2月14日。バレンタインデーだよな。もしかして今年はバレンタインデーは休止なのか?携帯電話でインターネットに接続すれば大手検索サイトのトップページはハートに塗れていた。バレンタイン、やってる。チョコレート、貰ってない。







気付けば夜になっていた。部屋が暗い。覚束ない足取りで照明を点けてもう一度ふらふらとソファへと身を投げる。別にチョコレートなんて欲しく無かったから全然気にしてなんかいない。どうせなまえなんて食えるかどうかも甚だしい物しか作れないのだから寧ろ何も貰えなくてラッキーかもしれない。それにあと数日、もしかしたら明日には都内から大量のチョコレートが送られてくるかもしれないだろうし。そうだよな。最初に言ったがチョコレートの処分方法には困ってるんだ。だから寧ろ貰える数が一つ減ったという事は此方としても都合良いって事だよな。

自分に言い聞かせれば言い聞かせる程どんどん虚しくなっていく。何だってぼくが自分で自分を慰める様な事をしなきゃならない。しいんと静まり返った部屋にさえも嘲笑われているような気がして舌打ちを一つ零す。誤魔化すようにテレビをつければそこには菓子会社の戦略に踊らされるメディアの図が煌々と映し出されたのでものの2秒で画面を消してやった。何がバレンタインだ、何が。

大体なまえもなまえじゃあないか。なまえの雰囲気からして何らかの菓子を作ったのは間違い無さそうであるが何故それをぼくに渡さない?「失敗したから露伴ちゃんに渡せないや」って事か?いいや、でもそんな奴が去年の生焼けクッキーをぼくに平気で手渡すとは思えない。……もしかしてなまえはぼくに「渡せなかった」のではなくて意図的に「渡さなかった」のではないだろうか。そうやって一度負の考えに行き着いてしまえば後は坂道を転がる如くどんどんと卑屈な方へと考えが募る。

ぼくに渡さなかっただけでなまえは違う誰かにチョコレートを渡していたのでは?用事があるっていうのはその違う誰かに会う為だったのでは?それってつまり浮気という奴なのでは?…待てよ、何も貰えてない所を見るともしかしてこっちが浮気でその違う誰かが本命なのか?

「…は、何だ。そういう事か」

弱った心の人間というのは何を言われても「そうなのかもしれない」と思えるぐらいに視野が狭くなるものだがまさしく今のぼくはそんな状況下にある。普段のぼくなら「なまえが浮気?フン、笑っちゃうなァ」ぐらいの余裕があったかもしれないが今日はそういう訳にはいかない。以前許可を得てなまえの事を読んだ際にはびっしりとぼくの名前とぼくに対する想いが綴られていて「君ってば本当にぼくの事好きだよな」なんて彼女をからかったりもしたがそれは一体いつの話だ。もう数カ月も前の話だ。そこから心変わりしていても何らおかしくはない。人の心が変わるなんて事は赤子の手を捻るより簡単で一瞬の事なのだ。数カ月前に変わったかもしれないしそれこそ昨日変わった可能性だってある。その時は「露伴ちゃんのばかばかあ」と顔を真っ赤にして自分の腕の中で抗議してきたなまえだって今頃は誰かの腕の中にいるかもしれないし、はたまたベッドの中で誰かに顔を真っ赤にされているかもしれない。何だそれは、ふざけるなよ。


一人でいると気分が滅入る。康一くんにでも電話をしようかと思ったが彼の事だからきっとあのプッツン女と幸せなバレンタインデーを送っているに違いない。親友ながらリア充爆発しろ。


「…寝るか」

就寝するには少し早い時間だけれどあと2時間もすれば日付が変わる。小さく鳴った腹が昼食以降何も食べていない事を思い出させてくれたが今更食事なんてする気も起きない。もういい、寝てしまおう。寝れば何かが変わるかもしれない。何も考えたくない。




溜息を零して寝室に向かおうとすれば響くインターホンの音。誰だよこんな時間にと覗き穴を見れば其処には間抜け面をしたなまえが突っ立っていた。本命への用事が済んだから次はぼくの所に来たっていうのか、なんて相変わらずの卑屈な考えばかりが横行して扉を開けずにいると痺れを切らしたなまえが向こう側で何やら声を上げ始める。

「開けてよお、露伴ちゃん。外は寒いよお、死んじゃうよお」

どんどんと扉を叩く手には昼間と違って手袋が装着されていた。よく見ればぐるぐると巻かれたマフラーに頭の頂上に付いた馬鹿みたいなボンボンが特徴的なニット帽も昼間の格好に追加されている。吐く息の白さを見ると外は相当寒いらしいがそんな中になまえを突っ立たせるのは可哀想だと思うあたりぼくの想いはまだ彼女から心変わりしていないらしい。そっと開ければ凄まじい勢いでなまえが扉を開けるものだから一気に家の中に冷たい空気が流れ込む。


「寒さで死んじゃうかと思った!」

そんなんで死んだら杜王町から人がいなくなるだろマヌケめ。言いたい事が沢山あるのになまえを目にしたら何も出て来ない。ああ、だったらヘブンズ・ドアーをしてしまえば良いのか。然すればなまえがぼくの知らぬ間に何処の誰と愛を育んでいたのかって事もわかるだろうしな。しかしながらヘブンズ、と言い掛けた言葉は目の前に押し付けられたピンクとダークブラウンの組み合わせの紙袋によって遮られる事となる。

「ハッピーバレンタインだよ露伴ちゃん」

小さな紙袋を手に取ってまじまじと見つめるも何処にもブランドネームが記されていないあたりこれはなまえが個人で用意した袋らしい。バレンタイン用に組まれた何処かの催事場ででも購入したのであろうという事はこの2色が織り成す安っぽいカラーに見て取れる。中を覗けば袋に見合ったサイズの小さなダークブラウンの箱がシャンパンゴールドのやや歪んだリボン結びで彩られていた。

「あとちょっとでバレンタイン終わっちゃうから早く開けて欲しい!」

早く早くと急かす視線と言葉を尻目にリボンを解いて封を開ければいくつもの仕切りの中に一個ずつ収められたチョコレートが姿を見せた。ココアパウダーが塗された其れは丸みを帯びながらも何処か歪で不格好で如何にも手作りだと見てわかる風貌である。

「本当はね、昼間にちゃんと渡せるように昨日の夜から作ってたんだけど失敗ばっかりしちゃって間に合わなくって…。市販品にしようかなあって思って一応既製品も買ったんだけど…やっぱり露伴ちゃんには手作りをあげたかったからお家に帰って急いで作ったんだあ。ねえねえ早く食べてみて!」

チョコレートを手にしたまま呆然とすればなまえが再び「早く〜」と視線を寄越すので一番形が綺麗だと思われる物を一つ手にすればリキュールの香りが鼻孔をくすぐる。匂いだけだとそれなりに食える物を作ってきたように思えるが問題は味だ、味。そのまま口内へと運べば舌先に感じた仄かな甘味。そして苦味、苦味、苦味…。

「露伴ちゃんおいしい?」

感想を今か今かと待ち望む輝きを放つ瞳を向けられながらぼくは必死にチョコレートと思しき物体を飲み込む。間違い無くリキュールを入れ過ぎている、それも尋常じゃないぐらいに。口に入れた瞬間にとんでもないアルコールの匂いが鼻を突き抜けて独特の苦みが舌に残る所を見ると正直去年の生焼けクッキーと同レベルである。何だってこいつは見た目はまあまあな物を作る癖に味がこうも壊滅的なんだ。掌に力が入って爪先が箱にぎゅうと音を立てて食い込む。あんな時間に帰っておきながらこんな時間に持ってくるなんてどれだけこのトリュフに時間を掛けたんだか知る由も無いがそれなりの時間を費やせば普通ならもっとまともな物を作れるだろうに。

不味い、と一言突き付けてやろうと思って開かれた口は紙袋の底に残ったメッセージカードに書かれた文字を見てすぐに閉じられる羽目となった。いい歳して丸みを帯びた子供っぽい文字で「露伴ちゃんだいすき」なんて書かれてしまった日にはそんな事は言える訳が無いのだ。

「ねえってばあ」
「…悪く、ないんじゃあないのか…」
「え!やったあ!」

「嬉しい!」と抱き付かれれば間に挟まれた紙袋が悲鳴を上げる。その中に佇むメッセージカードは無事だろうかと一瞬頭を過ったがなまえが寒さで赤くなった頬を必死に胸元に擦り付けているのを見ればまあいいか、と指先を彼女へと伸ばす。名前を呼べば何かを察したなまえが不思議そうにぼくを見つめる。

「へぶんずどあーするの?」
「ああ。……嫌か?」
「ええ〜…。だって露伴ちゃんてば私がチョコレート作りを何回も失敗した所ばっかり読むんでしょ?それできっと笑いながらからかうんだもん…」

笑うもんか。からかう事だってしない。少しだけ屈んで同じ目線でそう言えば少しの間があってからなまえはこくりと頷いてそれとほぼ同時に姿を変えた。チョコレートを適当な場所に置いてから手早くなまえのページを捲って行く。なまえが違う誰かと関係を持っているんじゃないかとかそんな疑念はとうに消えていたけれど彼女のぼくに対する想いを事細かに知っておきたい。そう思ってなまえを本にした癖に目当てのページまで辿り着いて指でなぞりながら文字を読み始めればものの数分でぼくは彼女を閉じたくなった。

数行の中に何度も出てくる「露伴ちゃん」という単語とぼくに対する想いは誰がどう読んでもきっと同じ解釈にしかならない。

顔が熱い。率直にぶつけられたなまえの想いを感じて、そして先程までの自分を恥じてきっと顔が真っ赤になっている。近くに鏡はあったけれどそんな物見ずとも自分がどうなっているかなんて痛い程にわかるしそんな情けない顔はわざわざ拝みたくも無い。じんじんと熱くなる耳を感じて文字をなぞっていた手は自分の顔を隠すように口元に添えられる。それから少ししてなまえを閉じれば先程と同じように再び不思議そうな目線を寄越された。

「ん〜…もういいの?」
「ああ、充分読ませて貰った」
「人を本にするってよくわかんないけど…でも読まれるのはやっぱり恥ずかしいかも」

へへへと照れたように笑うなまえの顎を掴んで持ち上げれば察したように薄く唇が開かれた。普段は同い年と思えないくらいに子供っぽい癖にこういう時だけはそれなりの、いやそれ以上の表情をする物だから参ってしまう。そのまま触れるだけの口付けをしてからすぐに離れれば物足りなさそうに名前を呼ばれて思わず口角を上げてからもう一度距離を詰める。

「君ってば本当にぼくの事好きだよな」
「……そうだよ、露伴ちゃんの事だいすきだもん。…知らなかったの?」

なまえが顔を赤くしながらそんな事を上目遣いでいう物だからぼくの意地悪く笑った顔なんてすぐに崩れてしまった。おいおい、自分で言っておきながら何そんなに赤面してるんだよ君は。おかげでぼくまでこんなだらしない顔になったじゃないか。

参ったと白旗を上げたのはぼくの方だった。知らなかったからもっとちゃんと教えてくれよときっと赤いままであろう顔でせがめば細い腕が首へ廻されて今度は小さな唇の方からぼくの唇へと重なる。ベッドへ行く間も惜しいとなまえの身に付けていたニット帽とマフラー、それに手袋を何処かのお伽話の如く廊下に点々と印して結局ぼくたちはリビングのソファへとそのまま沈んだ。

チョコレートがどれだけ苦くてもなまえがこれだけ甘いのだから寧ろバランスが取れて丁度良いのかもしれない、なんてくだらない事を考えつく頃にはバレンタインデーはとっくに終わっていた。


20160219

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