「一体ぼくの何が不満だって言うんだよ!」

露伴くんは叫んだ。

「…ぼくよりソイツの方がいいっていうのか。」

答えない私は、ズルいのかもしれない。
でも、私の中に明確な答えなんてなくて、どっちがいいとか悪いとか、そもそも何を基準にして比べたらいいのかさえ、わからなかった。
答えない私を見て露伴くんはさらに苛立ちを募らせたようで、握った拳を忌々しげに壁に叩き付けた。

*****

どうしてこんな関係になってしまったのかわからない。憧れの漫画家がこの街にいると聞いて、それが知人の息子さんの友達だと聞いて、それで。

会ってしまったのが、間違いだったんだろうか。意地悪で不遜でそのくせ時折ひどくへこたれるこの魅力的な男を、知ってしまったのがそもそもの発端で。

「…なぁなまえ、ぼくの書く女性キャラには何かが足りないんだって。…君はどう思う?」

そう言われた時に、「柔らかさが足りない」なんて真面目に答えてしまったのが、私たちの関係を作った原因だ(と、私は思っている)。

ぼくはリアリティの為ならなんだってする。そうキッパリと言い切る強い瞳を、どうして断われるというのだろう。
漫画のため、という大義名分を翳して、ズルズルとこんな関係になってしまった。いい加減に抜け出さなくては、と思いつつも、どうしてか露伴くんの腕の中が心地よくて仕方ない。

「…なまえ。」

「なぁに?」

露伴くんは私の左手を指し「それ、外せよ。」と呟いた。世間なんて気にしませんみたいな顔をしているくせに、こんな小さな指輪を気にする彼の気持ちは未だにわからない。そもそもリアリティとやらは、私を抱いた時点でもうとっくに掴めているんじゃあないだろうか。言ったら終わってしまう、と思うと今日もその言葉は私の心の中でしか繰り返されない。

「こっち、来いよ。」

手招きされるままに近寄って、膝の上に座る。漫画、終わったの?と問えば、肯定の返事と共にぎゅうと抱きしめられた。

「…私は、露伴くんの漫画が大好きだよ。」

そう言うと一瞬だけ安堵の色を滲ませ、また不安げに「…でも、」なんて。
描き終わるといつもそうだ。世に出るまでの間、読まれなかったらどうしようとかもうぼくはいらないんじゃないかとか、ありもしないことに心を砕いている。
私の心配を他所にいつの間にか復活して、「はァ!?ぼくがそんなこと言うわけないだろ!」と少しばかり頬を赤らめる露伴くんが、可愛くて仕方ない。
そんなことを思いながら身体を捩って露伴くんの首筋に甘えるように擦り寄る。白い肌の感触を確かめるように何度も唇を寄せると、露伴くんは私の髪をくしゃりと撫でた。

「…君はそんなんでよく生きてこれたなァ。」

今回も早々に復活したらしい露伴くんは、私の髪をぐしゃぐしゃ掻き回しながら、溜息を吐くように言った。

「…自分でも、そう思うよ」

小さく返すと露伴くんは笑った。流されっぱなしの人生の、一体何が面白いのか。彼はいつか私に言ったことがある。大切な物だけを大切にする露伴くんには、特段の主義もなくただ流される私の生き方が理解できないらしい。

「その癖そんな安易に誓いなんて立てて君は」

馬鹿じゃあないのか。と、彼は私を抱き締めながら言った。その言葉に切実な響きが含まれている気がするのは、私の願望なのかもしれない。

「…でも、そのお陰で、露伴くんに会えた。」

主婦の座があればこそ、の今だという思いが拭えない。だって普通に働いていたらこんな、平日の真昼間に昼ドラみたいな真似はできないわけで。複雑な気持ちではあるけれど、今目の前に露伴くんがいることは「幸せ」だと思う。合わせて罪悪感も付きまとうわけだけれども。

「…本当に馬鹿だな。」

誰に向けての言葉なのか。その意図はわからないけれど、露伴くんはそう言って私の唇を突っついた。ぱく、と指先に噛み付く。露伴くんの指先は、魔法みたいだと思う。そこから紡ぎ出される絵もストーリーも、私の肌を這う時ですら、どうしてそんなことができるのか、と思わせる、魔法の手。

「…好き。」

唇に触れた手を取って、頬を摺り寄せる。
しがらみも体面もなく、彼の前だけでは「私」でいられる。それは露伴くんが自分の好きなものだけを自由に愛しているから。

「不倫なんてしてる割に、随分な口を利くじゃあないか。」

「…ッぅぐ、」

私の言葉が何か気に障ったのか、露伴くんは私の口の中に容赦なく指を突っ込んで、その指先で舌を挟み込んだ。

「…夜になったらその口で、ぼくじゃあないヤツに同じ台詞を吐くんだろう?」

「…ッやらぁ、ろは…ぅく…ッ…」

嘘をついたら、閻魔様に舌を抜かれるんだぜ?と、彼はなんとも複雑な視線を私に浴びせながら舌を引っ張った。指先が喉の奥まで入って来てえずきそうになる。

「…その指輪を捨てるなら、聞いてやってもいいけどな。」

吐き捨てるようにそう言って、露伴くんは指を離した。私の唾液に濡れる指先を見つめて、「どれ、味も見ておこう」なんて。

「…それは…ッ…」

なんと答えるのか正解なのか全くわからない私は軽いパニックを起こして。そして冒頭の、怒りに塗れた瞳の露伴くんに対峙することになった。

ダン、と大きな音を立てて、露伴くんはもう一度壁を叩いた。

「…流されるのが君の常なら、さっさとここまで堕ちて来いよ、…クソッタレ。」

「露伴くん…」

私はどうしていいかわからない。彼は私のことが好きなんだろうか。リアリティのためにからかわれているのか。いろんな考えが脳裏を巡って、収束なんてしそうにない。ただひたすらに息苦しい。

視界の端に、私が外した指輪が見えた。露伴くんがほんの少し手を伸ばせば投げ捨てられそうなほどに、無防備に置かれた銀の枷。
それでも露伴くんは、それを捨てるような真似はしない。責めるような焦がれるような瞳で私を見つめてただ苛立ちを募らせるばかりで。

ちら、と視線をテーブルに向ける。蛍光灯の光を控え目に反射する、細い細い銀色の、小さな輪。

私はどうしてしまったのだろうか。

この枷を捨てることが、一番簡単で、魅力的な解決方法に見えてしまうなんて。



ALICE+