岸辺露伴は天才漫画家である。そして超売れっ子漫画家でもある。ゆえに私のような新人編集員が逆らえる人間では無いのだ。私の方が年上だとかそんな概念はそもそも存在していない。

「塩焼きそばのが好きなんだよなァ」

皿の上に置かれた焼きそばをぐにぐにと箸で突きながら目の前の岸辺露伴は言ってのける。水分の量を間違えたのかそれともソースを入れ過ぎたのか何故だか団子状になってしまっている麺が突くのはやめてくれと懇願している気がする。可哀想な焼きそばさん。

「あ、で、でも塩焼きそばの材料は見当たらなかったので、」
「へぇ、悪かったな。ぼくの家の冷蔵庫にロクな物が無くて」
「そ、そこまで言ってないですよ!」

肘を付きながら未だに茶色い塊を弄っている所を見るとどうやら食べてはくれないらしい。大体どうして原稿を取りに来ただけなのにこんな料理を作ってあげなければならないんだ。大体どうして私はM県S市まで原稿を取りに来なきゃいけないんだ。元々都会に住んでいたのに自分から引っ越していったのはそっちじゃないか。その理由だってFAXがあれば都会に住むというくだらないステイタスが何たらかんたらという実に自己的な物でそれこそその便利な電子機器を駆使してくれれば私がここまで来る必要は無いというのに。

「…お昼ご飯、作り直します…」

そっと皿に手を伸ばせば骨ばった指がぺちりと私の手を叩いた。

「食べないとは言ってない」
「え、あ、」

それからぶつくさと文句を言いながら岸辺露伴は私の作った焼きそばをきれいに完食してくれた。キャベツの切り方が雑だのどうしたらあんなに汁っぽくなるんだ、なんて文句を百ほど垂れた後には小さく礼を言う辺り彼は律儀な人間である。そしてそういう部分があるせいで私はこんな酷い仕打ちを受けても彼を嫌いになれないのだ。

漫画家っていうのは変わってる人間が多いなんて言うけれど本当だったんだな。奇人と言っても過言じゃないしなあ。他の漫画家を担当した事は無いけれど他の漫画家もこんな人ばっかりなのかな。原稿が早いのは助かるけど。泡立てたスポンジでもきゅもきゅと皿を洗えば自然と溜息が零れた。

「なまえ、ぼくの目の前で溜息とはいい度胸だな」
「ひ、ひえ!」

いつからそこに立っていたのかはわからないがすぐ背後から耳元で喋られて変な声が出た。前から思っていたけれどこの人は妙に距離が近い。そしていつの間にか名前も呼び捨てにされていた。おかしい、初めて会った時はなまえくん呼びだったような気がするのだけれど。

「なァ、今日は何時に帰るんだ」
「え、まだ、決めてないです…」
「そうか。なら今日は夕飯は外で食べる。18時に家を出るからそれまでに準備しておきなよな」
「え、」

そう言って岸辺露伴は満足げに笑って二階の作業場へと戻っていった。「30分後に茶を淹れてくれ」との言葉を忘れずに。

ん?んん〜?えっと、これはつまり。お食事に誘われたという事、だよね?ん?何で?頭の上に無数の疑問符が思い浮かぶが答えが出る筈も無い。大体準備って何だ。私にどんな準備をしろと?しかも悲しいかな。私に拒否権は存在しなかったようである。ど、どうしよう。この場合は私がご飯代を出すんだろうか。岸辺露伴とのご飯。駄目だ、絶対高い所に連れてかれる。もしかして奢りだったり…する?いやいやいや、そんな恋人とのデートじゃあるまいしせいぜい割り勘がいいところである。ああ、どうしよ、経費で落ちたりしない、よね?


18時が私の死刑執行時間である。動悸が凄まじいのは気のせいではあるまい。震える手で彼がご指名した銘柄の紅茶を淹れてから私が手土産で持って来た菓子を皿に乗せて作業場まで近付けばある事に気付く。

しまった、両手塞がってる。扉が開けられない。

残念ながら私はエスパーでは無いのでこの思いが扉の向こうの岸辺露伴に通ずる訳が無い。あ、や、やばい、どうしよ。大声で「露伴先生ー、両手が塞がってて扉が開けられませんー!開けて下さいー!」なんて言えば事は済むのかもしれないが彼の作業を中断するのは何だか憚れるし、何よりさっきよりも文句を言われるに違いない。てか何で私こんなに馬鹿なの。

「…なまえ、何してる」
「あ、あぅ…、露伴せんせ…」

私はエスパーの気があるかもしれない。思いが通じたのか扉が開いて心底呆れたような岸辺露伴が顔を覗かせた。とりあえずまた罵られるのは間違いないが今は早くこの紅茶たちを何処かに置きたい。両腕がぷるぷるしてどうにかなりそう。


「君なァ…。そんな大量に菓子を持ってくるから両手が塞がるんだろ」
「は、はい…」
「大体ぼく一人でそんな量を食べきれると思ってるのか?考えたらわかるだろ?なァ?」
「はい…、仰る通りです…」

椅子の上で足を組んで紅茶を啜る岸辺露伴の前では正座をして小さくなる他ない。ちらりと目線を上げれば何か文句でも?とあの瞳に一蹴された。ひ、ひえ…、こっわ…。お母さん助けて。

「君は本当に馬鹿だな」
「ふ、ふぇ…」
「君は本当に馬鹿だ」
「に、二回も言わなくていいですよ!」

いい加減足が痺れてきた所で溜息を吐いた岸辺露伴に手招きをされた。少しばかりよろけながら近付けば腕を引っ張られて何とも簡単に私の身体は岸辺露伴の腕の中へと収まってしまった。

…ん?な、何だこの状況は…ッ!

落ち着こうと深呼吸すれば岸辺露伴の匂いを多大に含んだ酸素が鼻から入ってきて逆効果となった。あ、や、やばい。ぎゅうってされてる。何で、ていうか何で。胸元に埋めていた顔を上げればそこには初めて見る表情の岸辺露伴がいた。何だその愛おしそうな表情は。不覚にも胸が締め付けられてきゅんときてしまったじゃないか。呆気に取られていると彼の右手がそっと頬に触れて優しく撫でられた。私のときめきが半端無い事になってしまっている。

「…なまえ」

今まで生きてきて一番なんじゃないかって思うぐらい優しい声で呼ばれてそれからもう一度ぎゅうって抱き締められた。どうする事も出来なくて、とりあえず私も応えればいいんだろうか、なんて必死に脳味噌フル回転させて考えておずおずと私もぎゅうとすれば益々彼の力は強くなった。


それが終わってからは彼はいつもの岸辺露伴に戻ってしまった。茶封筒に入れられた原稿用紙を渡されて部屋を追い出された私は覚束ない足取りで何とか1階のリビングまで辿り着き、他人の家だというのに自分の部屋にいるかのようにソファへと身を投げた。ふかふかの感触が私を受け止める。

あれは何だったんだ。一体あれは何だ。何でぎゅうってされたんだ。疑問が尽きる事は無い。ソファの上でじたばたと暴れればまた岸辺露伴と同じ匂いが鼻孔をくすぐって余計に居た堪れなくなってしまう。耐えるように原稿の入った茶封筒をぎゅうと抱き締めれば今度は岸辺露伴に抱き締められた感触が鮮明に浮かび上がる。

「ぎゅ、ぎゅうってされた。ぎゅうって…!」

男性経験が無い訳では無いけれど今回のこれはあまりにも不意打ち過ぎるじゃないか。あー、とかうー、なんて呻き声を上げては悶々と考え、そして再びソファの上で暴れるなんて行為を繰り返している内に私は気付いたら意識を手放していた。




…何だか息苦しい気がする。

「ふが」
「おい、ぼくは言ったよな。18時には家を出るって」
「あ、あがが」

寝ている内に死刑執行の時間がやってきていた。執行人は勿論私の鼻をつまみながら眉間に皺を寄せている岸辺露伴である。口を開けて寝ていたせいで口の周りが何だかかぴかぴする。

「ほら、さっさと準備しろ」
「う、うう、はい…」

とりあえず化粧直しでもしようか、なんてバッグの中からポーチを取り出した所で目の前で仁王立ちしている岸辺露伴を見上げた。

「あ、あのですね」
「何だ」
「一つだけ宜しいでしょうか」

どれだけ下からなんだと自分で自分が悲しくなるがもう慣れた。言ってみろと岸辺露伴が促すのでゆっくりと口を開く。

「えと、何でまた私の事を、…夕飯に誘ったんでしょうか」
「…1ヵ月だろ」
「え、」
「今日で付き合って1ヵ月だろ」
「は、」
「…ぼくにはよくわからないが女ってのはそういう記念日とかを気にするんだろ?」
「…」

ぼりぼりと照れ臭そうに頭を掻く岸辺露伴はこれまた私が見た事の無い岸辺露伴であった。耳がほんのりと赤い。待て、何でそんなに照れてるんだ、いや、ていうか違う。

つ、付き合って1ヵ月って何だ。いつ私はこの男と恋人同士になったんだ。誰か教えてくれ。

「つ、付き合って1ヵ月、ですか」
「ああ」
「え、えっと1ヵ月前に私たちは交際がスタートしたと」
「ああ」
「…」

1ヵ月前の私に何が起こっていたんだ。必死にもう一度脳味噌をフル回転させてみる。えっと、1ヵ月前、1ヵ月前…。多分あの時はまだ私の呼び方もなまえくんだった時期だ。付き合う…、付き合う…?

「あ」

そういえば岸辺露伴に「なあ、なまえ。付き合ってくれないか」と言われたのでえ?何処に?と思いながら「はい」と答えた記憶がある。あれ、それ告白だったんじゃ…?言われてみればあの日から岸辺露伴はやけに私との距離を詰めるし飯を作れだの何だのとプライベートな我儘が多くなった気がするがまさか。は、はは…。笑えない。

いやでも岸辺露伴に抱き締められてときめいたのは事実だ。まあイケメンですし。自分より年下だけどお金はあるし将来困る事も無さそうだ。まあ人気漫画家ですし。あ、あれ、これかなり優良物件なのでは…。今週末の合コンキャンセルしようかな、なんて思った所で突っ立っていた岸辺露伴が屈んで私と同じ目線になる。

「何だ、記念日の食事に感動して何も言えないのか?」
「え、あ、ちが…」
「…可愛い所あるじゃないか、なまえ」
「あ、いや、だから」

そう言って近付いてくる岸辺露伴の顔を跳ねのける事が何故私に出来ようか。そしてその数秒後そのまま私の唇は岸辺露伴を受け入れる事となる。少しだけ唇がくっついてそれから離れていった岸辺露伴は相変わらず愛おしそうに私を見つめていて、不覚にもそれにめちゃくちゃきゅんときてしまった。やっぱりときめき半端無い。

お母さん、私、この人と付き合ってたみたいです。



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