夏と秋の境界線を踏んだような季節。独特の薄い雲が橙色の空に張り付いている。そろそろ陽が落ちるのが早くなる頃である。「今日は早めに帰ります」と玄関へと向かうなまえの後ろを歩く。暑いからと纏められた髪の毛、真っ白なうなじ、袖口から見える瑞々しい二の腕。そしてショートパンツから見え隠れするその少女らしさを残したしなやかな脚。

ああ…、夏が終わっていく…。

もうこんな無防備ななまえを拝めるのも今年はあと数日だけだろう。はぁ…。これほどまでに夏が過ぎ去っていくのが惜しいと思った事があっただろうか。夏なんて馬鹿みたいに暑くて、蝉が無駄に煩く主張をするだけの季節だと思っていたのに。はぁ…。夏って素晴らしい季節だったんだな…。

今すぐ後ろから抱き締めてその柔肌を思う存分堪能したい。しっとりと汗ばんだなまえを味見したい。「や、ですっ。そんな所舐めないで下さい…っ!」なんて抵抗するなまえを快感でなし崩しにしてしまいたい。はぁ…。夏が終わっていく…。

「あ、そういえば」

玄関の扉に手を掛けた所で急になまえが振り向く物だから、思わず肩が跳ねた。やばい、不埒な事ばかり考えていたのが彼女にばれてやしないだろうか。それだけは何としてでも避けたい所である。そんなぼくの想いに反してなまえは恐る恐るといった様子で口を開く。

「来月末のね、土日なんですけど…。露伴先生、何か予定ありますか?」

来月末とはこれまた先の話だな。1ヵ月以上先の予定…、思い当たる物がまるで無い。そもそも根本的に人付き合いの嫌いなぼくに予定なんて物が入る事は殆ど無い。おっと、別に友達がいないぼっちな訳じゃあないぞ。友達なら親友の康一くんがいるしな。無駄な馴れ合いが嫌いっていうだけだ。

「いや、特に何も無かったと思うが」
「…あのね、両親が結婚記念日だからって二人で泊まりの旅行に行っちゃうんです。それで、私家に一人だけなんですけど…」

ま さ か。

あれか?「誰もいないから家に来ませんか?」ってパターンなのか?ご両親に挨拶も済ませていないというのに、なまえの家にあがって、そしてなまえの部屋であんな事やこんな事が出来ると?な、何だそのおいしいシチュエーションは…ッ!そもそもご両親の了解を得ていないのに、家に上がるというのは中々興奮するポイントである。そして限られた時間の中で結ばれる関係。それってまるで人妻と間男のような、背徳的な関係じゃないか。

勿論、今のような誰しもが羨むカップルという関係に満足はしているがそういう倫理から外れた関係ってのに萌えるのも事実。いや、でも、そういうのはたまにだから良いんだけどな。大体、ぼくと結婚したとして人妻のなまえに近付く間男なんて物が居よう物ならそれこそ全力でヘブンズ・ドアーをかましてやる所である。残念ながらぼくには寝盗られ属性なんて物は存在しない。これっぽっちも、ほんのこれっぽっちもだ!

「一人で家で過ごすの寂しいなあって思って…」

ほら来た、よし来た。頷く準備は既に出来ている。「家に来ませんか?」とその唇でぼくを誘ってくれ。さあ、早く!

「…露伴先生のおうちに泊まりに行っちゃ、駄目、ですか?」
「ああ、勿論構わな…、え?」

深く頷いた所で気付く違和感。泊まり?誰が?なまえが。何処に?ぼくの家に。

…………。

なまえがぼくの家に泊まりに来る?

それってもしかして。朝は一緒に起きて、心地良い微睡みの中で身体を重ねてから「おはよう」の挨拶が出来るって事で。その後、一緒にお風呂に入ってこの前のようになまえの身体の隅々まで洗う事が出来るって事で。そして少し遅めの朝食を取ってから時間を気にする事無く、二人で何処かに出掛ける事が出来るって事で。挙句の果てにはぼくの為にと裸エプロンで夕食を作るなまえを夕食前に頂いちゃったり出来るって事で。「あ、ごはん作ってますから…っ。そんな、触っちゃ、だめぇ…」「ぼくは夕飯よりも先になまえを食したいんだ。なぁ、良いだろ?」「んっ、露伴先生の、ばかぁ…」…なーんて!なーんて!!

なまえの家に泊まりに行くという事を人妻と間男の関係に例えるならば、逆にぼくの家になまえが泊まりに来るのというのは新婚夫婦の関係だと思う。どう転んでもおいしい…ッ!

「泊まりが迷惑だったら、全然良いんですけど…」
「このぼくがそんな事を迷惑だと言って断るとでも思っているのか?」

ぱちぱちとなまえは瞬きをしてからぼくを見上げて頬を緩めた。そんな顔を見せられてはぼくの頬も緩んでしまいそうだ。どうしたって彼女には弱い。「露伴先生のおうちにお泊り」と噛み締める様に言葉を呟いたなまえの顔は喜色に滲む。ぼくがそう思うように、一緒に過ごせる事を嬉しいと彼女も感じているのだろうか。そうだとしたら、純粋にぼくだって嬉しい。

「露伴先生、ばいばい〜」

ひらひらと手を振るなまえが扉に隠れて完全に見えなくなったのを確認してから玄関に背を向けて、そのまま一気に廊下を走り抜ける。なまえが!ぼくの!家に!泊まりに!来る!!!

喜びが全身から満ち溢れて思わず階段だって二つ飛ばしで駆け上る。「へ、ブ、ン、ズ、ド、ア、−、!」なんて掛け声付きで。二階に上ってから勢いよくもう一度廊下を駆け抜けて一番奥の部屋の扉を開ける。等身大のなまえ抱き枕を取り出してから寝室へ向かい、そのままなまえ抱き枕を抱えたままでベッドへと飛び込めばスプリングがぼくの身体を跳ね上げた。ゴロゴロとベッドの上で回転しながらぎゅう、ときつく枕を抱き締める手に力を込める。

もう一度言う。いや、何度だって言う。

なまえが!ぼくの!家に!泊まりに!来る!!!来月末の土日はずっとなまえと一緒にいられる!朝から晩までずっと!

最早この家にはぼく以外の誰も居ない。だらしない顔をしたってどうって事無いのだ。子供のようにはしゃいで、時には抱き枕に「なまえ〜」なんて呼びながらキスしては一人悶えて。今からどんな計画を目論もうか。カッハッハッハーッ!

「………」
「………」

ふよふよと宙に浮かぶ見慣れた少年姿のスタンドと目が合った。「ど、どうしたの」と顔が語っている。というかお前、このぼくにドン退きしてやしないか。そもそも一体いつの間に出て来てたんだよ。一体いつからそこでこのぼくのはしゃぎっぷりを見てたんだよ、なァ。可哀想な目でぼくを見るのはやめろ。













それから数日後。いつもの如く、原稿を仕上げていると仕事場の電話が鳴った。ここの電話を鳴らすのはほぼ編集部の人間だけである。一旦ペンを置いて受話器を上げた。

「何の用だ」
『いつもお世話になってます、集A社ですゥ〜』
「とっとと用件を話せよ。ぼくは暇じゃないんだ」
『せっかちだなあ〜〜、もぉ〜。この電話に出るって事はご在宅って事ですよねえ?』
「は?」
『今、あたしS駅前にいるんですよぉ。今から露伴先生のご自宅にお伺いしようかと思ってるんですけどォ』
「おい、ちょっと待て」
『ココからタクシーで数十分て所ですかねぇ〜〜。じゃ、今から向かいますねぇ〜』
「おい!ちょっと待てって言ってるだろ!」

ブツッ。

そして左耳に響く「ツー、ツー」という何とも無機質な音。あ、あの女…!ぼくの都合なんてお構い無しに…ッ!編集者として優秀なのは認めるが人間性が欠如し過ぎだろう!大体、あの女のせいでなまえは勘違いをしてぼくの前で涙を流す羽目になったというのに。そしてぼくは死ぬ寸前のショックを受けたというのに。あの女のせいで…ッ!

込み上げる怒りに耐えたままでペンを原稿用紙に向ければ力を入れ過ぎたせいで、ペン先がぐにゃりと歪んで黒い染みが紙の上に出来上がる。くそ、苛々する…ッ!







「お邪魔しまぁ〜す」

思ったよりも早い到着にぼくの眉間の皺は更に深く刻まれた。相変わらず香水がきつい。ついでに化粧もきつい。

「はあぁ〜。やっぱり昼間はまだ暑いなあ〜。露伴先生、麦茶とかないですかねえ〜」
「君に出す麦茶は生憎無いね。おい、勝手に家に上がるなよ。ぼくが許可してないだろ」
「えぇ〜?先生、いつもに増してオレ様ですねぇ〜っ。アハハハハ!」
「ハァ〜!?大体何の用でS市まで来たんだよ!」
「ん〜…。先生、私が以前お話した事覚えてますぅ?」

以前話した事?というか以前、コイツを家に上げたせいでなまえにあらぬ誤解をされたのだ。くそ、今回は絶対に上げないからな。ぼくはもうなまえを泣かせる様な事はしたくないんだ。どうせなかせるならベッドの上で鳴かせたい。

「先生、何ニヤついてるんですか?ヤバイなああ…」
「黙れ。で?」
「前にお話した出版社主催のパーティーのお話なんですけど〜」
「ああ…、そんな話したな」
「先程、S駅前のホテルに会場が決定したのでそのご報告にと思いまして」
「ふーん」
「中々日程が合わなくて場所取るの苦労したんですよぉ〜。詳しい事はまた改めてご連絡しますねぇ〜」
「いや、それは結構」
「え?」
「ぼくは出席しない」

突き放すように言えば漆黒のアイラインで強調された瞳が更に大きく開かれて、次の瞬間には家中に響くような声で悲鳴を上げられた。く、くそ…ッ、本当にこの女…ッ!

「露伴先生は出席しなきゃ駄目ですよお〜!」
「何でそんな事を君に決められなくちゃならない。前も言ったがぼくはそういうのが嫌いなんだ」
「でもぉ…」
「出席しないって言ってるだろ!君もしつこいなッ!」

負けじと声を荒げれば驚きで彼女の肩がぶるりと震えたのが見えた。ふん、と鼻を鳴らした所で玄関の扉がゆっくりと開く。恐る恐る、といった様子で顔を覗かせたのはなまえだった。

「あ…。お、お取込み中でしたか…」

恐らくぼくが張り上げた声は外にまで漏れていたのだろう。少し怯えたような表情のなまえはぼくと彼女を交互に見遣ってから、そっと扉を閉めに掛かる。姿が完全に見えなくなる前に名前を呼べばもう一度なまえは扉から顔を覗かせた。

「なまえ、今日は気温が上がるらしいから外、暑かっただろう?何か飲むか?」
「あーっ!あたしには何も出してくれない癖に何なんですかぁ、この差!」
「当たり前だろう!君と彼女では雲泥の差だ!…なまえ、ジュースにするか?それともお茶にするか?」
「あたしダイエットしてるんで麦茶が良いです〜〜」
「君は黙ってろ!!」

いつもならさっさとリビングに向かうなまえは会話を聞いて狼狽え、未だ玄関にいる。文句を垂れるこの女を気遣っているのだろうが、こんな女に気を使う必要は全く以て無い。というか寧ろ、お前がなまえとぼくに気を使えよ。

「先生〜〜。本当に出席なさらないんですか?」
「くどい」
「でもぉ…。他の作家さんも出席するんです。他の作家さんとの交流はきっと刺激になると思いますし、今後の活動にも良い変化をもたらしてくれると思うんです」
「………」
「それに先生の漫画は人気がありますから、メディアミックスのお話だってうちの方でちらほら出てるんです。そういうのも本当に興味ありませんか?」

彼女はあの独特の喋り方やその立ち振る舞いでぼくを苛立たせる事が多々ある。事実、先程だってそうだ。けれども、もう一度言うが編集者としては優秀なのである。

人間嫌いで一人で漫画を描いているぼくだがそうすれば自ずと視野は狭くなってくる。それを彼女はわかっていたのだ。例の特殊能力で他人の体験を自分の物とする事も出来るが、その体験をどう漫画に生かすかのそもそもの考え方がワンパターンになってしまっているのであれば意味が無い。

彼女の言う事も一理ある。純粋にそう思ってしまった。

軽く溜息をついてからもう一度彼女を見遣る。

「……一つ聞くが、そのパーティーとやらはいつあるんだ」
「露伴先生!」
「出席するとはまだ言ってないぜ。質問に答えろよ」
「来月末の土曜日です。詳しい時間はまだ決まってませんけど」

…来月末の土曜日?その日は確か…。思わずなまえを見れば彼女の瞳が空虚に揺れていた。



20150828


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