「…思ったよりも荷物が多いな」

露伴先生のお家にお泊りする日が遂に来た。あれも必要だし、これも必要な気がする、って思って色々荷物を詰めていたらいつもより大きなバッグが必要になってしまった。結局、普段は使わないリュックを引っ張り出す羽目になったんだけども、リュックを背負うなんて遠足の時以来かもしれないなあ。昨日の夜に感じていたどきどき感とわくわく感は遠足の前夜に感じたあの気持ちと少し似ている気がする。

「何をそんなに詰め込んだんだか知らないが、家には大概の物は揃えているつもりだぜ?なまえが手ぶらで泊まりに来ても何ら不自由はさせないつもりなんだがな」
「えっ。お、お泊りなのに手ぶらはちょっと…」
「ふーん?で、何を持って来たんだ?」
「何って言われると困るんですけど…。パジャマとか…歯ブラシとか…」
「…パジャマに…歯ブラシだと…?…ちなみにその歯ブラシはいつも使っている奴なのか?」
「あ、はい。本当は使い捨ての奴買っても良かったんですけどお金勿体無いかなあって思っていつも使ってる奴を持ってきちゃいました」
「……レアアイテムゲットの予感…ッ!風はこの露伴に吹いている…ッ」

露伴先生は時折、独り言をぶつぶつ呟く時がある。酷い時はその場で崩れ込む時もあるくらいだから具合が悪いのかな?って思ってたけどどうやらそうでは無いらしい。前に聞いたら「いや、凄まじくインスピレーションを刺激されてね…。おっと、刺激されたのはインスピレーションであって身体的な場所じゃあ無いぜ」と返された。露伴先生はいつも漫画の事を考えているんだな、なんて酷く感心した物だ。

「で、どうする?ぼくが出て行くまで暫く時間があるが何処かへ出掛けるか?」

露伴先生は手土産で持ってきたクッキーを一口で食べてから、指についた粉をぺろりと舌で拭った。それから私の答えを促す様に少しだけ首を傾ける。その様子が子供みたいで何だか可愛い。少しだけ笑ったら「何が可笑しい?」と言うように眉を顰められたので思わず視線を時計へと移す。

露伴先生は18時半過ぎくらいに家を出る予定で、今は15時過ぎだ。3時間ほど時間がある。だけど、その3時間が過ぎたら露伴先生はお仕事の集まりに行ってしまう。先生は「長居するつもりは無いからすぐに帰ってくるつもりだ」と言っていたけれど、それでも少しの間だけでも露伴先生は私の知らない人がいっぱいいる所に行ってしまうんだ。元々そういう風に促したのは自分だけど、でも、やっぱり寂しい。

「なまえ?」
「あ、えっと…」

不思議そうに露伴先生が此方を伺っていた。顔を上げれば一瞬目が合ったけど、そんな自分勝手な事を考えてるって知られたくなくてすぐにまた顔を俯かせる。えっと、どうしよう。露伴先生と行きたい所、何処かあったっけ?散々考えるけれど何も思い付かない。何て役立たずな私の頭。

「…特に希望が無いのならぼくのしたい事に付き合って貰う事になるが?」

その言葉に顔を上げてうんうんと勢いよく頷けば露伴先生はにやりと口角を上げた。




「最近、久々に完徹してね。流石に3日完徹はぼくでも少しばかりきつい」

そう言った露伴先生が私を抱きかかえてベッドに沈んだのは今からもう1時間ほど前の事だろうか。静かな部屋に時計の秒針の音と露伴先生の呼吸音だけが聞こえる。どうしよう、私も一緒に寝れば良いんだろうか。そう思って幾度と目を閉じた。だけども寝れない。寝られる訳が無い。

目を閉じればより鮮明に聞こえる露伴先生の寝息。開ければ至近距離にある露伴先生の顔。こんな状態で寝ろという方が無理難題だ。そもそも今日の夜は一体どうやって寝るつもりなんだろう?まさか今夜も抱きかかえられて寝る羽目に?だとしたら私は一睡も出来そうにない。露伴先生が眠ったのを確認してからそっと身体に廻された腕を振り解こうとしたけれど、眠っているというのに案外強い力の其れに私は屈服するしかなかった。

先生が疲れて眠るのは良いけれど、どうして私を抱きかかえてなんだろうか。ううん、と唸ってみても状況は変わらない。露伴先生の腕によって行動を制限されている私は大人しく先生の顔を眺める事にした。

思えばこんな近くで露伴先生の顔をまじまじと見るのは初めてかもしれない。長い睫にすっと筋の通った鼻。少し厚みのある唇。パーツだけ見れば何処となく女性的だけど、顔の輪郭は男の人特有のラインだ。何にせよ、露伴先生の顔が整っているのは間違い無い。本当に、何でこんな人が私の彼氏なんだろう。

「露伴先生」

規則正しく呼吸を繰り返す露伴先生は何も答えない。返事なんて最初から期待していない。

「露伴先生…」

もう一度消え失せそうな声で呼べば露伴先生の腕にぎゅうと力が込められた。あ、と思わず声を上げれば薄く目を開いた露伴先生と視線がぶつかる。

「なまえ、君なァ…」
「お、起こしちゃってごめんなさい…」
「…そんなにぼくに構って貰いたかったのか?」

からかうような言い方をしてから露伴先生は私に唇を落とした。おでこと、頬と、最後に唇に。一瞬触れるだけのキスが物足りなくて身体を摺り寄せればもう一度露伴先生は唇を合わせてくれた。露伴先生とのキス、気持ち良い。もっと、いっぱいしたい。我慢出来なくて自分から唇を合わせれば、頭の後ろに先生の手が廻される。

「んっ、んぅ…」

にゅるにゅるとした露伴先生の舌で口の中を撫でられて思わず声が零れた。先生の服を握って耐えるけれどそれでも身体が反応してしまう。何度も何度も深く口付けされて身も心も融け切ってしまいそうだ。

「ろはん、せ、んせ」
「…なまえ、続きは帰ってからだ」

そうか、もう露伴先生は準備しなきゃいけない時間なのか。ぼんやりとした頭のままで頷けば先生の手が頭を撫でる。「良い子だ」と愛でるような手つきに思わず恍惚の表情を浮かべれば露伴先生は軽く笑みを浮かべた。



しかしながら私が本格的に恍惚の表情を浮かべるのはこれからとなる。

思わずごくりと喉を鳴らした。露伴先生は格好良い。それはわかっている。さっきだって再三それを思い知らされたのだから。

だけど。だけども。

スーツ姿の露伴先生って卑怯過ぎる…!

スーツ萌え、なんて言葉を聞いた事があるけれどそれはまさしくこの事を指すのだろうか。普通の人がスーツを着たら格好良く見える、なんて事があるぐらいなのに元々格好良い露伴先生がスーツを着たらどうなるかなんてそんなの考えなくたってわかる。

「なまえ、ん、」

目の前に差し出されたネクタイは「付けてくれ」との意味合いなのであろう。恐る恐るそれを手に取れば露伴先生はネクタイを付けやすいように顔を少しだけ上げた。まるで新婚さんの間で行われるようなやり取りと、目の前の露伴先生のスーツ姿とでどうにかなってしまいそうだ。というか、正直もうどうにかなっている。格好良すぎて変な笑いが起きる始末である。

「付けますね…」
「ああ」

男の人にネクタイを付けてあげるなんて初めてだ。上手く結べるかな。えっと、こっちを長くして、そっちを巻いて、ここに通して。あれ、何かおかしい。もう一回。今度はこっちをもうちょっと短くして、それで、えっと。あれ、やっぱり何かおかしい。

「なまえにネクタイを付けて貰うには1時間あっても足りないんじゃあないのか」

くつくつと喉を鳴らして笑う露伴先生はスーツ効果も相まって今まで至上最高に格好良かった。だ、駄目だ、上手く結べる気がしない…。

へこたれる私に露伴先生があーだの、こーだの、と結び方を教えてくれたお蔭で15分ほど掛かった物の無事、ネクタイを付けてあげる事が出来た。何だかとっても疲れた。ふう、と溜息を零せば露伴先生が少しだけ屈んで私に目線を合わせた。

「何度も言っているが長居するつもりは毛頭無い。9時前には帰るから、悪いがそれまで待っててくれ」

頷けばさっきみたいにまた頭を撫でられた。…本当はこんな格好良い露伴先生なんて、誰にも見せたくない。だって、きっと見る人みんなが好きになっちゃうもん。そんなの、嫌だもん…。

「なまえ?」

名前を呼ばれて思わず何でも無いと首を横に振る。それでも露伴先生は怪訝な眼差しを私に向けたままだ。やっぱり目は合わせられない。

「何でも、無いです」
「本当にか?」

顎を持ち上げられて強制的に視線を合わせる事になってしまった。じとり、と見つめられて逃げ場が無い。「言いたい事があるなら言え」と先生の瞳が言っている。というか、多分何か言うまで私はこの状態から解放して貰えないに違いない。うぅ、と唇を噛み締めてから意を決したように私は口を開いた。

「…露伴先生が出席するパーティーって、女の人も、いっぱい来るんですか…?」

我ながら馬鹿な質問だと思う。出版社、それも自分だってよく名前の聞く大手出版社の集まりなのだからそんなの聞かなくたってわかる事だ。それでもいくら露伴先生が「言いたい事は言え」と言った所でまさか本当に「パーティーに行かないで下さい」と言える訳もなく、ましてや「私だけの露伴先生でいて下さい」なんて無理難題をぶつける事も出来ない。結局、私は自分の本心を少しだけ滲ませた馬鹿げた質問しか出来なかったのである。

「……君は、何を言うかと思えば」

呆れたように露伴先生は笑って、やっと顎から手を離してくれた。

「なまえが何を考えているかは知らないが…、ぼくは君以外の女とどうこうなるつもりは全くもって無いね」

本当?思わず先生を見つめれば返事の代わりに軽く笑みを零された。その言葉を聞いて、少しだけ心が楽になった気がする。露伴先生がそう言ってくれたんだから、今はその言葉を信じていよう。


「行ってくる」

それでも玄関で露伴先生をお見送りする瞬間はやっぱりちょっと寂しい。

「露伴先生、行ってらっしゃい」
「ん。………」
「………、あれ、行かないんですか」
「行ってらっしゃいのキスは無いのか」
「えっ」
「無いのか」
「えっと…。いや、面と向かって言われると、その、恥ずかしいんですけど…」
「ハァ?さっきは自分からあんなにキスした癖にか?」
「わああああ!い、言わないで下さいっ」
「なまえ」

早く、と言わんばかりに露伴先生は私からのキスを待っている。したいなら、自分からすれば良いのに…。それでも露伴先生が折れる事は決して無いので、渋々私は先生の唇にそっと自分のを押し当てた。ほんの一瞬だったけれど、それでも露伴先生は満足そうに笑って、今度は自分から私にキスをしてくれた。

そして、露伴先生の姿は扉の向こうへと消えてしまった。









大きくて広いお家に一人で留守番は寂しい。とりあえず掃除をして気を紛らわせてみたけど響く機械音が虚しい。そういえば露伴先生、ご飯いるのかな。パーティーってご飯出る?でもあんまり長居はしないって言ってたし、作っても良いのかな。適当にご飯でも作ろうかな。

冷蔵庫を覗けば一人で消費するには少々多めな食材が詰め込まれていた。露伴先生は冷蔵庫の整理は苦手なようだ。こういう所は男の人って感じ。とりあえずやばそうな食材をピックアップして幾つか作ってみたけど、露伴先生食べるかなあ。

そう言えば、と思い出したように二階の一番奥の部屋の扉に手を掛けてみる。やっぱり鍵が掛かっている。岸辺邸の開かずの部屋は未だに開かずの部屋だ。今度見せてってお願いしてみよう。

くう、とお腹が鳴った。お腹空いたな。時計を見たら9時だった。露伴先生、もう少しで帰ってくる?

テレビがあんまり面白く無い。思わずソファで横になる。さっきまで暇つぶしに付き合ってくれてた由花子とのメールも途絶えてしまった。テレビではニュースが始まって今日一日の出来事をアナウンサーが喋っている。今、何時かな。露伴先生、まだ帰って来ないや。


いつの間にか重くなってしまった瞼が重力に負けて、そのまま私はゆっくりと目を閉じる。露伴先生、大きくて広いお家に一人で留守番は寂しいよ。早く…帰って来て、欲しい、な…。


20150927


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