気持ちが、悪い。
覚束ない足取りで人混みを掻き分けて、重い扉を開けばひやりと冷たい空気が頬に触れた。背に感じた立ち重なる人の気配を消すようにそのまま扉を閉めれば、自然と溜息が零れるのは仕方の無い事だ。適当な場所にソファを見つけ、ふらふらと其処まで何とか辿り着き崩れ込むように座る。


もう一度言う。気持ちが悪い。それもとてつもなく、だ。

はあ、と今日何度零したかわからない溜息をつけば、違う何かも込み上がって来そうで思わず手を口元に押し当てた。この岸辺露伴たる者が完全に酔っている、クソ…ッ。眉間に皺が寄るのが自分でもわかる。

大体、何故ぼくは未だにこの場所にいるんだ。ぼくの予定であれば既に帰宅して今頃は愛しい彼女と同じ時間を過ごしている筈だったのだ。

パーティーが始まってすぐにメディアミックスだの何だのが専門の奴と話した。ぼくはあくまでも漫画家が本職だからそういうのは専門の人間に任せる、と丸投げすれば奴等は嬉しそうに笑った。そりゃあ、そうだろうな。ぼくの漫画で思う存分、金儲けが出来るんだからな。

「岸辺先生の漫画は絶大な人気がありますからね。私どももその作品に携われるかと思うととても光栄です」

ぼくの漫画が人気なのは君に言われなくても知っている。だが、そう言われて悪い気はしなかった。

その次は他の漫画家とも話した。と言っても上っ面の会話しかしていない。他の漫画家から何か得る物はあるだろうか、とほんの少しだけ思っていた自分が馬鹿だと思う。それぐらいにどいつもこいつも、低レベルだった。何ならジャガイモと喋った方がよっぽどタメになるんじゃないかと思うぐらいだ。

「ぼく、岸辺先生の大ファンなんです。先生に憧れて漫画家になったんですよ。今日お会い出来てとても嬉しいです」

例え相手がジャガイモだろうが、そう言われて悪い気はしなかった。

金やちやほやされる為に漫画を描いているつもりは毛頭無い。しかし、実際に会う人間会う人間から称賛されると心に淡い喜びに似た感情が渦巻くのも事実。そしてそういう奴等に勧められた酒を調子に乗って飲んでいたらいつの間にかこんなになっていた。

金の亡者やジャガイモのせいでなまえと過ごす時間が減っていく。何だってお前らはそんなにぼくと接点を持ちたがる。何だってくだらない話しか出来ないんだ。何だってそんなにぼくに酒を勧める。あああ、畜生!

それにしても今日の自分は酔いが回るのが早い。理由はわかっている。3日間完徹をした身体に加え、ほぼ空きっ腹の状態で飲んでしまったからである。

3日間の完徹は辛かった。辛かったけれども毎晩のようにネットでなまえが泊まりに来た時に着せる用のベビードールを選ぶのはとても楽しかった。

なまえのイメージでいけば、やはり白かピンクだろうか。それともギャップを狙って黒だろうか。ああ、この透け感のベビードールを着せるなら下着は紐だよなァ。勿論、お尻の部分も紐のタイプの奴。あ、いやでもお尻までぱっくり開いてるオープンショーツも捨てがたい。これだと色々やり易いしな…。まあ下着をずらしてってのも中々そそるはそそるんだが…。そう言えばエプロンはどうしようか。王道の白で行くべきか、ピンクで行くべきか。なんて思いながら検索すればギンガム…チェックのエプロン…だと…?ふざけているのか、何だよギンガムチェックのエプロンって。そんな物、邪道過ぎるだろう。しかし何故この露伴の大事な部分がこんなに反応してしまうんだ。ああ、クソッ。駄目だ、何も考えられない。ちょっと一旦落ち着こう。………あ、なまえ、……ッ、………ふぅ。で、ぼくは何を買うんだっけか。

こんな調子で結局、何かを買う事も無く無駄に3日間完徹する羽目になった。しかしなまえはなまえでパジャマを持って来てくれたので結果オーライである。パジャマ姿のなまえを組み敷くのであれば完全には脱がせず、着衣のまま行為に及びたい。全裸も悪くは無いがやはり基本は何処かに何かを残した状態ってのが一番燃える、そして萌える。

誰もいない空間で一人「ムフッ」と笑いを零した所で、こんな事をしている場合じゃないと再び現実に引き戻された。

大体あの担当は何処に行った。あんなにぼくに出席しろと言った癖に何をしている。最後に見たのは「スッゴォ〜い、その場で揚げてくれる天ぷらだぁぁ〜」とか言いながら皿を片手にふらついている所だった。あの調子じゃ、未だ会場内で食べ物を漁っているんだろう。はあ、色んな意味で頭が痛い。タクシーの手配を頼もうかと思ったが自分で頼むしかないようだ。



カツ、と細いヒールが床を鳴らす音がした。俯いていた自分の視界に映るのはペディキュアが施されたつま先。顔を上げれば見知らぬ女がいた。誰だこいつは。先程喋ったジャガイモの中にいただろうか。少し考えてみたが面倒になったのですぐに思考を停止させた。まあジャガイモの仲間だったとして適当にあしらえば良い。

悟られない様に軽く息を吐いてから立ち上がればよろける身体。そして自分の腕に絡められる女のか細い腕。思わず女の顔を見れば何かを喋っている。その言葉を聞き取るのも理解するのも億劫だと思う。何やらぼくがふらふらと出て行くのを見て心配になって追い掛けて来たらしい。悪いがぼくは名も知らぬ人間に世話を焼かれる程落ちぶれちゃいない。

いい加減に腕を離せよと言う意味合いを込めて「結構だ」と言葉を突き付けても未だに女とぼくの距離は変わらない。寧ろ何故だか縮まっている。そのせいでぼくの肘がむにむにと女の胸に当たる。というか当てているだろ、それ。あの担当も中々香水のきつい女だと思っていたがこの女はそれ以上だ。加減て奴を知らないのかこのクソ女。この至近距離でその悪臭を嗅がされる身にもなってみろ。

昔もこんな頭の悪そうな女に言い寄られたなと記憶を思い返す。セックスしては恋人気取りのクソ女。その癖、ぼくの事は何も見ちゃいない。見ているのは金の事ばかり。身体だけの関係ならともかく、お前みたいな女がぼくの恋人?冗談にしても笑えないね。セックスだけなら昔のぼくは相手してやったかもしれないが、今のぼくはそんな事微塵も興味が無い。

汚い下心を覆うように振り撒かれた香水も、その計算ずくの上目遣いも、素肌が見えないくらいに厚く塗られた化粧も、自意識過剰な猫撫で声も、偽って作られた胸の谷間も、センスの欠片も無いそのペディキュアも全部、全部、不愉快だ!

「わかったらとっととぼくの視界から消えてくれよ、目障りだ」

頬を濡らされてもクソ女の涙なんて、ぼくには何の重みも無いね。















「釣りはいらない」

そう言えば薄暗い灯りの中でもわかるくらいにタクシーの運転手は嬉しそうに目を細めた。もう釣りを受け取るのも面倒くさい。時刻は日付が変わる一歩手前といった所である。9時前には帰るとなまえに伝えたのにこの有様。はあ。

家に入ればリビングの灯りが煌々と点いているのが見えた。テレビの音も漏れ出している。まだ起きているのかと部屋を覗けば赤子のように丸くなってソファで寝ているなまえの姿を見つけた。

「なまえ、こんな所で寝たら風邪ひくだろ」

家を訪れた時の格好のままで眠っている彼女を抱き上げて、未だ覚束ない足取りで寝室へ向かう。

ゆっくりとなまえをベッドに降ろしてから、脱いだ上着とネクタイを投げ捨てる様に床に追い遣る。ついでに靴下も適当に投げた。シャツのボタンを少し外してからヘアバンドも外す。自分の身体からアルコールの匂いとあの女の匂いがするのが気に食わない。自分もベッドに沈んですうすうと寝息をたてるなまえを腕の中へと引き寄せた。ふいに小さく「ろはんせんせ」と名前を呼ばれる。顔を覗き込んでも起きた気配は無い。

「なまえ」

すまない、と想いを込めて軽く頬に唇を落としてから、より一層彼女を抱き寄せてぼくもそっと瞼を閉じた。












もぞもぞと自分の腕の中から温もりが離れていく感覚がして、無意識にその温もりをもう一度自分の元へと引き寄せる。

「んぐ、く、くるしい…」

その声にうっすらと目を開ければあの大きくて丸い瞳が自分を見上げていた。部屋が明るい。どうやら朝になったようではあるがいまいち時間がわからない。ズキズキと痛む頭は完全な二日酔いだ。未だに少しぼうっとする。

「露伴先生、お早うござ…、んぅ」

昨日離れていたあの数時間を早く埋めたくて、寝起きだというのになまえの唇を奪う。彼女の唇を無理矢理抉じ開けて、口内へと侵入して小さな舌を引き摺り出せばなまえがぼくの肩を叩く。舌を翻弄して、吸い上げて、最後に唇を啄んでから離れればすっかり息を上げたなまえが頬を紅潮させていた。

「せ、んせ。お酒くさい、です…。それに、」

はあ、と濡れた息を零すなまえを完全に下に組み敷いてから、自分は彼女の真上へと覆い被さる。手をなまえのシャツの中に忍ばせて素肌を撫で上げれば身体がぴくりと反応した。

「んっ…、何か、せんせから、少しだけ、女の人の、匂いします」

思わず脇腹を撫でていた手を止めた。女の匂い?なまえの言葉に一瞬、目を見開いたがすぐにああ、とあのクソ女を思い出す。その反応になまえの瞳が揺れた事にぼくは気付かない。

マーキングじゃあるまいし、このぼくに匂いを残すなんてとことん不愉快な女だ。心の底に苛立ちを感じつつも服の中の手を脇腹から上の方へと動かせば、下着越しの柔らかな膨らみにぶつかる。ああ、何という癒しの柔らかさ。当たり前だが、昨日のあのパッド満載の胸とは比べ物にならないぐらいに良い。そもそも脱いでしまえばわかる物を何で偽ろうとするのかがぼくには理解出来ない。

「ハァ〜…、やっぱりなまえの胸が一番だよなァ…」

ぽつりと呟いた一言が決定打であった。

ぐい、となまえが顔を背けながらぼくの肩を押し返す。それは間違いなくぼくを拒否する行動であった。最初はいわゆる「嫌よ嫌よも好きの内」の類の拒否だと思ったのだが、小さく震えるなまえの身体を見て何かがおかしい、とその背けられた顔を覗けばぼくは酷く動揺する事となる。

頬が濡れてそのままシーツに少しの染みを作っていた。あの大きな瞳を縁取る睫が濡れている。泣いている、なまえが泣いている。久しぶりに見たその顔に一瞬頭が真っ白になる。

朝からいきなり行為に及んだのがまずかったのか?それとも酒臭いままでキスをしたから?いや、よく考えれば昨日の帰りが遅かった事を謝っていない。ぐるぐると二日酔いの頭の中を色んな事が駆け巡る。

「なまえ」

先程までとは打って変わって情けない声で名前を呼べばなまえはゆっくりとぼくに視線を合わせて、口を開く。

「露伴先生は、お仕事の集まりに行ってたんじゃ、ないんですか?」
「…仕事だ、出版社のパーティーで、」
「じゃあ、どうして」

ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、みるみる内になまえの瞳が赤くなっていく。眉が下がって悲しげな表情になっていく。それに比例してぼくの心がどんどんと不安定になる。

「どうして、先生から、女の人の匂いがするの?」
「それは、」
「どうして、誰かと私を、比べるの?」
「違う、なまえ」
「私だけって、言ってくれたのに」
「なまえ」
「どうして、嘘つくの…?」

ぽろりと流れる涙を見てどうしようもないくらいに心臓が跳ねた。何か言わなければならない。なまえは誤解をしている、と早く弁解をしなければならない。それなのに喉がカラカラに乾いて上手く動かない。なまえ、違う、ぼくは、そうじゃなくて、

「なまえ」
「……い」
「え、」
「きらい、露伴先生なんて、だいっきらいです…っ」

今までに無い位強い力で押し返されて、ぼくはそのまま凄い勢いでベッドから転げ落ちた。「んぶッ」なんて間抜けな声と寝室の扉がバタン、と閉められたのはほぼ同時だったと思う。それから暫くして玄関の扉が閉まる音がした。

一人残された寝室。ベッドの上にはなまえの温もりがまだ少し残っていた。

20151001


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