既視感 【きし-かん】
一度も経験したことがないのに、すでにどこかで経験したことがあるように感じること。フランス語よりデジャヴュなどと呼ばれる事もある。


インターネットって物は何て便利なんだろう。携帯電話に言葉を入力して検索ボタンを押せばこうやって直ぐに答えを弾き出してくれる。うんうん、本当に便利だなぁ〜。

なんて、文明の進化に感心をしている場合では無い。携帯電話の液晶に映し出された文字と、コンビニに並べられた漫画雑誌を交互に見ては僕はつう、と冷や汗を掻いた。何故か?そもそも僕が「既視感」なんて言葉を検索する必要があったのは何故か?それもこれも全てはこの言葉のせいだ。

『作者の急病により今週のピンクダークの少年はお休みとさせて頂きます』

何となく勘付いてはいたんだ。いつもなら巻頭ページを飾るあの漫画が載っていないって時点で嫌な予感しかしなかったんだから。この言葉、いつぞやだったかも見たな。なんて思いつつも現実逃避も兼ねて「既視感」なんて検索してみたけれども。既視感っていうのは「一度も経験したことがないのに」って言うのが前提らしい。て事はこれは既視感とは少し違うのかもしれない。だって、半年ほど前にも僕は同じような事を経験した事があるんだから。忘れたくても忘れられるものか、あんな出来事。

あの漫画家が原稿を落とすっていうのは十中八九、いいや、絶対に、と言っても良い。確実に恋人の事であろう。う〜ん、面倒くさい。面倒くさすぎる。またあんな彼を僕は相手にしなければならないのか?大体何で僕はいつもいつも彼の面倒を見なければならないんだ。彼の方が年上だし、成人だってしているのに。……今回ばかりは無視してしまおうか。

なんて思った所で頭に思い浮かぶのは彼の恋人でもあり、自分の友人でもあるなまえの事であった。待てよ、と思い留まって考える。僕の友人も友人で何故かあの漫画家に心底惚れてしまっている。何処にそんな要素があるんだ、と問い質したいが本人曰く「露伴先生は王子様みたいなんだよ」と言って聞かない。そう言えば漫画家の方も「なまえは天使じゃなくてリリムだったんだ!康一くんッ!」なんて言っていたな。意味がわからない。というか案外この二人似た者同士なんじゃないのか。

話が逸れてしまったがあの二人の間に何かあったのだとしたら、なまえだって間違い無く滅入ってしまっているだろう。漫画家の方はどうでも良いとして友人が落ち込んでいるのであれば、それは僕だって放っておけない。

「よしっ!」

一人コンビニで気合いを入れてから、立ち読みした雑誌を棚へと戻す。ふと時計を見れば中々良い時間である。少し急がなければ遅刻してしまうかもしれない。こういう相談ってやっぱり僕よりも由花子さんの方が話しやすかったりするのかなぁ、なんて考えれば結局自分から面倒事に近付いている事に気付き、思わず苦笑するのであった。







しかし、僕の予想は大幅に外れた。なまえはいつも通りに学校生活を送っている。特に元気が無いとか、落ち込んでいる、なんて素振りは見受けられない。正直、拍子抜けしてしまった。もしかして、あの漫画家は本当に病気か何かなのか?勝手に僕はなまえと喧嘩か何かをした物だと思い込んでいたけれども、それは間違いなのかもしれない。現に今、なまえは携帯電話である場所への行き方を調べている。

「水族館にはバスに乗って行けば良いのかあ〜。水族館なんて小さい時以来だし…辿り着けるかなあ。地図読むの苦手なんだよね。道に迷ったらどうしよう」

どうやら今週の土曜日水族館に行くらしい。水族館なんてデートスポットの定番中の定番じゃないか。どうせ一緒に行く相手はあの漫画家だろう。なーんだ、と僕は盛大な肩透かしを喰らった。いや、この二人が平和なのであればそれに越した事は無い。寧ろ一人で焦っていた午前中の自分が馬鹿みたいだと思わず嘲笑した。

さて、問題の漫画家はどうしようか。本当に病気なら病気でそれは心配である。しかしよく考えれば土曜日に水族館に行く約束をしているくらいなのだからあまり重病では無いのかもしれない。それに自分が見舞いに行くよりもなまえが看病した方が、彼もきっと喜ばしいだろう。一度取り出した携帯電話を僕はもう一度制服のポケットに仕舞い込んだ。





そうして数日が過ぎ、金曜日の放課後になった。僕の胸の中には少しの違和感が芽生えていた。そしてその違和感は日に日に存在感を増して来ていたのである。

本当に露伴先生となまえの間には何も起こっていないのだろうか。

何故この数日間、なまえの口からは彼の話題が一切出て来ない?それに明日行くと行っていた水族館。何故バスで行かなければならない?露伴先生は車を所持しているんだからそれで行けば良いじゃないか。

何故、という言葉ばかりが思い浮かんできた僕は意を決してなまえに聞いてみた。考えてもわからないなら本人に聞けば良いのだ。

「あのさ、露伴先生は元気?」
「さあ?知らない」

ぴしゃりと言い放たれた言葉は絶対零度だった。にこり、ともせずに無の表情でなまえが言う物だから僕は由花子さんがキレた時と同じような恐怖感を少しだけ感じてしまった。それ以上何かを聞ける筈も無く、上擦った声で「そ、そう…」と返すのがその時僕に出来る精一杯であった。

そして結局、僕は岸辺邸の前にいる。結局この男に関わる羽目になるのか、と溜息を吐いてからインターホンを鳴らす。いや、もしかしたら鳴らしても出て来ないかもしれない。この前みたいにリビングで体育座りしているかもしれないしな…、なんて思っていたらガチャリと扉が開いた。

「やあ、康一くん。久しぶりじゃないか」
「えっ、あ、あれ…?露伴先生…?」
「何だよそんな呆けた顔して。入れよ」

少々痩せた印象を受けたが目の前に現れた露伴先生は至って元気そうであった。益々わからない、と思わず眉を顰める。なまえとの間に何かあったのであれば確実に自立出来ないくらいに弱っていると思ったのに。頭の上に沢山の疑問符を浮かべながら久しぶりの岸辺邸へと足を踏み入れる。

「君の分の紅茶とクッキーを用意するからちょっと待っててくれ」

そう言って露伴先生はキッチンへと向かった。リビングを覗けばテーブルに置かれた二つのカップ。誰か来ていたようだ。もしかしてなまえが来ていたのだろうか。しかし、ふと見れば客人に出されたと思わしきカップの方は中身が減っていないし、添えられたお菓子も手を付けられていない。だとしたら此処にいたであろう客人はなまえじゃないみたいだ。彼女は甘党だから差し出されたお菓子には必ず手を付けるだろうし。

ふう、と息を吐いてからソファに腰掛ければ、同じくソファに鎮座するやけにでかいクッションが僕の居場所を奪う。何だこの縦長のクッション。ちょっと、いや、大分邪魔だな。こんな物、以前は置いていなかった癖に。高級そうなインテリアで埋め尽くされたこのリビングには少し浮いてしまっている。隅へ押しやる様にクッションを退かせば、ふとそのカバーに何かがプリントされている事に気付いた。

………。

一瞬、思考が停止したが紛れも無くこのクッションカバーに印刷されているのは。制服に身を包んで顔を赤らめ、両手を広げたポーズのこの子は。…これ、もしかして抱き枕って奴なのか…?抱き上げれば何だかでかい、まさか等身大なのか。そしてまさかこのプリントは手書きイラストなのか。気持ち悪い、気持ち悪いぞ岸辺露伴。

「待たせたな、康一くん」
「…露伴先生…あの、これ」
「ああ、なまえか。彼女は寂しがりでね。こうやっていつもぼくにぎゅうってして?ってねだるんだよ。参ったよなァ〜」
「えっと、」
「康一くん、そこ狭いよな。ほら、なまえはこっちに来なよ、ぼくの膝の上。此処が君の定位置だろ?」
「あの、」
「ん?何だいなまえ、そんな顔して。…ああ、ちゃんとぎゅうってしててやるから、な?」

何が「な?」なんだ、何が。露伴先生は抱き枕を抱えながら一人幸せそうに笑って、時折抱き枕を撫でた。ふざけているのかとも思ったが彼は至って真剣に、そして愛おしそうな眼差しを抱き枕に注いでいる。それはまるで、恋人を愛でるように。

まさか、露伴先生はこの抱き枕を本気でなまえだと思っているのか?…いやいや、そんな馬鹿な。

「で、康一くん。今日は一体どうしたんだ?」
「露伴先生、あの、最近なまえと会いましたか?」

その質問に一瞬、目を見開いた先生は何度か大袈裟に瞬きをしてから耐えられない、と言った風に吹き出した。

「君は面白い事を言うね。会うも何も、なまえは此処にいるじゃないか」

口元に緩く弧を描きながら露伴先生がそんな事を言う物だからとうとう僕は頭を抱えた。冗談だと言って欲しい。いつものように僕をからかっているだけなのだと。いつものように意地の悪い子供のような笑みを浮かべて「君ってば本当にからかい甲斐のある人間だよなァ〜」なんて言えば良いじゃないか。

この前のように、ただ落ち込んでいてくれた方がどれだけマシだっただろうか。余程なまえとの間に何かあったのだろう。彼は現実逃避をしてしまっている。自分を傷付ける現実から逃げ出したくて、目を背けたくて、結果としてこうなってしまっているのだ。

そんなの、僕だって逃げ出してしまいたいさ。成人した漫画家が抱き枕(しかも自作と思われる)を愛でている現実なんて。

それでも、逃げ出した所で何も変わらないのだ。

「…露伴先生、なまえと何かあったんですね?」
「何かって何だよ?見ての通り、彼女との付き合いは順風満帆なんだ。余計な心配は無用だね」
「先生、いい加減にして下さい。それはなまえじゃないです、抱き枕なんですよ?」
「いい加減にするのは君の方だろ、康一くん。ぼくのなまえが抱き枕に見えるのか?それ以上彼女を侮辱するのならぼくだって黙っていないぞ。『露伴先生、だーいすき』ああ、ぼくも君が大好きだよ」
「気持ちの悪い裏声を出すのはやめろッ!岸辺露伴ッ!」

勢いよく立ち上がればその衝撃でテーブルに並べられたカップが派手な音を立てた。その音と僕の張り裂けんばかりの声に、目の前の露伴先生が肩をびくり、と震わせた。余程の衝撃だったのか、あんなに大事そうに抱えていた抱き枕が床に転がっている。

「なまえと喧嘩でもしたんですか?だからそんなになってるんでしょう?僕で良ければ話くらい聞きます、なんなら仲直りする手立てだって一緒に考えますから」
「……無理だ」

僕から視線を逸らした露伴先生はぽつりと呟いた。もぞもぞと身体を動かして遂にはチェアの上で体育座りをしてしまっている。俯きがちな顔から先生の表情を読み取る事は出来ないけれど、細かく身体が震えていた。まさか、泣いているのか。いつぞや見た光景にはああ、と大きく溜息を吐いてから僕はもう一度ソファに座り込んだ。やれやれ、現実逃避から抜け出したと思ったら、今度は殻に閉じこもりか。はあ。何て面倒な人間だ。

「無理って、何が無理なんですか?前回だって、そう言って結局付き合えたじゃないですか。だから今回だって、」
「…こういちくん」

ゆらり、と顔を上げた露伴先生の顔は見るも無残だった。この前も言った気がするがこの顔を全国の岸辺露伴ファンに見せてやりたい。涙と鼻水に塗れたその顔はいつもの顔の原型すら留めていない。

「むりなんだ、ほんとうに」
「だから、どうして無理だって言い切れるんですか?」
「いわれたんだ、なまえに、はっきりと」
「え?何をですか?」
「……、き、きら…、ぼくのことが、きら…、う、うう…ッ」

下唇を噛み締めている癖に全く涙を我慢する事の出来ない露伴先生はそのまま俯いて、ぐすぐすと声を上げて本格的に泣き始めてしまった。大の大人が僕の前で「ひっくひっく」と漫画のような声を上げて泣いている。ああ、本当に現実逃避してしまいたい。

「…何をやらかしたんですか、先生」
「……、ぼくが、うわきをしたと、かんちがいしてるんだ、かのじょは…」
「え?浮気?」
「ぼくは、うわきなんて、しない…ッ!なまえだけなんだ、かのじょだけ、なのに、それなのに…ッ!う、ううう…ッ、うわああああ…ッ」
「じゃあ、そう言えば良いじゃないですか。誤解なんだ、ってなまえに伝えればそれで済む話じゃないですか」
「い、いえない…。だ、って、かのじょは、もうぼくのことを、き、きら…、きら、……ッ!」

余程、なまえに「嫌い」と言われたのがショックだったのだろう。今までに無い位に精神が乱れている。いや、何かもう此処まできたら逆に尊敬すらする。一人の人間によってこんなに精神状態が左右されるなんて。変な宗教にはまる人ってこんな感じなのかな、と僕の頭は早くも現実逃避を始めていた。

「露伴先生、とりあえずなまえと話をしましょう」
「い、いやだ…ッ。ぼくは、もう、これいじょう、かのじょに、きら…われ、たくない…ッ」
「だから、誤解してるんですよね?話し合えばなまえも許してくれますよ、きっと」
「…ゆるして、くれなかったら?そしたら、ほんと、に、ぼくは、しぬ…ッ!」
「此処でたられば論を話した所でどうにもならないですよ。とりあえず、もう一度なまえと会いましょう?ね?」
「…いや、だ…。かのじょに、あうのが、こわい…ッ」

ブチッ。

子供の様に駄々を捏ねる露伴先生を前に僕の中の何かが切れた。

「いい加減にしろッ!岸辺露伴ッ!!あんたのなまえに対する気持ちはそんな物なのか!?あんなになまえを大事にすると言っておきながら、蓋を開けて見れば自分が傷付くのが恐いって理由で、彼女とまともに話し合う事すらしない。そんなのが付き合うって事なのか?それがあんたがやりたかった事なのか!?」

勢いに任せて溢れ出る言葉を思いっ切りぶつければ、先生は自分を守る様に更に身体を丸めた。まるで自分の殻を固くしたように。その態度が僕の怒りを増長させる事にどうしてこの人は気付かない?

こんな人間だなんて思わなかった。彼は確かに奇天烈な人間かもしれない、だけど、だけど。なまえの事をあんなに大切にしていたじゃないか、あんなに大事にすると言っていたじゃないか。傷付いているのがまさか自分だけだと思っているのか?なまえだって自分と同じように傷付いている事がわからないのか?

「なまえは、明日水族館に行くそうです」

その言葉に丸くなった身体がぴくりと動いた。

なまえはバスに乗って水族館に行くと言った。そして辿り着けるかどうかという不安の声も漏らしていた。此処から考えられるのは「車を持っていなくて」尚且つ「杜王町、もしくはこのS市に土地勘の全く無い人物」と一緒に行くと言う事。それでいて「水族館」に興味のある人物といえば。

「…承太郎さんと、二人っきりで、行くみたいですよ」

二人っきりかどうかなんて事は僕は知らない。そもそも、もしかしたら相手は承太郎さんじゃないかもしれない。何の裏付けも無いままだったけれど、そう言えば露伴先生を焚き付ける要因になると思ったから。

「このままじゃ、なまえが誰かに取られるのも時間の問題かもしれませんね」

止めの一言を呟いて、僕は岸辺邸を後にした。これで何の行動も起こさないならこの男はそれまでだったという事だ。まあなまえだったら男に困る事も無いだろうし、反対に露伴先生だって女には困らない。そもそも最初に付き合った相手と別れずにずっと一緒にいられる方が確立的には低いんだ。色んな人間が出会っては別れて、出会っては別れてを繰り返して生きている。

それでもどうして僕の頭にはあの二人が仲睦まじく笑い合う様子ばかりが思い浮かんでくるんだろう?どうにもこうにも知らない内に僕はあのバカップルに毒されていたらしい。思わず笑いを零して振り返れば、小さく見える岸辺邸へと視線を移す。

「何だかんだで露伴先生となまえはお似合いだと思ってるんですからね、僕」

だから早く仲直りして下さいね。世話を焼くのだって、面倒事に巻き込まれるのだって僕はもう勘弁なんですから。


20151004


ALICE+