白いイルカが、見られるらしい。

ホテルの一室に籠りパソコンの画面と向き合っていれば、ふとテレビから流れてきたそんな言葉に思わず反応してしまった。キーボードを叩く指を止めて、パソコンの液晶からテレビ画面へと視線を映せばプールの中で悠悠自適に泳ぐシロイルカ。何だか胸の辺りがきゅう、と軋む。これがときめきという奴なのだろうか。テレビ画面は既に次のニュースへと切り替わっているが自分の頭の中は未だにシロイルカが支配している。

あれは一体何処の水族館へ行けば見られるのだろうか。この時間帯のニュース番組で扱うという事は地元である事は間違いない。すぐにパソコンへと戻り、作業途中だったファイルを一旦保存する。

「シロイルカ S市」と検索ボックスに入力し終えた瞬間に傍に置いてあった携帯が震えた。目線だけそちらを見れば「なまえ」と表示された液晶。思わずEnterキーを押すよりも先に携帯を手に取ってなまえからのメッセージを確認する。

『承太郎さん、S市の水族館で白いイルカが見られるらしいです』

どうやらなまえも同じニュースを目にしていたらしい。なまえを待たせてはいけないと少し急いで返信をする。パソコンはともかく、携帯で文字を打つのは少し苦手だ。

『おれも、さっきにゅーすでみた』
『シロイルカ可愛いですよね〜』

そうか、なまえもそう思うか。うんうん、と一人携帯と向き合いながら頷けば俺が返事を返す前にまたなまえからメッセージが来た。

『私も機会があればシロイルカ見てみたいです〜』
『いっしょに、みにいくか?』

そんなメッセージを送ってからはた、と気付いた。なまえはあの漫画家と付き合っている。あの男は人付き合いが苦手だという割に彼女に固執してとてつもない独占欲を抱いているのだ。異性と交際している人間をこうやって誘う事自体が非常識な行為だというのに、その交際相手があの漫画家であれば尚更である。すぐに前言撤回の主旨のメッセージを打ち込めばそれを送信する前になまえからの返事が届いた。

『いいんですか?見に行きたいです(´▽`)』

ん、と思わず画面を食い入るように見つめてしまった。てっきり誘いを断るメッセージかと思ったのだが。なまえと俺が二人で出掛ければあの男は間違いなく発狂しそうだが…、まあ、いいか。なまえが良いと言っているのだから良いのだ。いつぞや自分に見せたあの漫画家の泣き顔が一瞬、頭を過ったのだがそんな物はすぐにシロイルカによって掻き消されてしまうのであった。


そうやって数日が過ぎ、なまえと約束していた土曜日が来た。


バスに揺られる自分のすぐ隣では移り行く景色を窓から眺めるなまえがいる。少々子供っぽい仕草に思わず笑みが零れた。彼女に悟られない様にしたつもりだったがそれに気付いたなまえが不思議そうに見上げる。何でも無い、と返せばなまえは屈託の無い笑みを浮かべてもう一度視線を窓の外へと投げかけた。

それにしても。

今度は彼女にばれぬように横目でちらりと盗み見る。制服姿では無いからだろうか、それとも薄く施された化粧のせいなのだろうか。いつものなまえとは違った印象を受ける。少女と言うには大人びて、女と言うには幼すぎる。そういえば夏に年下の叔父とカフェに行って、鉢合わせした時の彼女もこんな風だったかもしれない。その隣には嫌悪感丸出しのあの男がいたけれども。

ふむ、と少し考えてから名前を呼べば再びあの瞳が自分に向けられる。

「良いのか?」
「え?何がですか?」
「他の男と二人で出掛けて」

どういう意味ですか、とでも言いたげな表情でなまえは俺を見上げた。ほんの少しの間があってから何かに気付いたようになまえは「あ」と声を上げる。俺を真っ直ぐに捉えていた瞳があからさまに逸らされたのもほぼ同時だったと思う。

「…だいじょぶ、です」

俯きがちになまえがぽつりと呟いた。その様子を見て俺も小さく「そうか」と返す事しか出来ない。一瞬だけ見せた寂しげな瞬きに気付かない程、俺は鈍感じゃあ無い。

少ししてから水族館に辿り着いた事を知らせる自動音声がバスの中に鳴り響いた。









「アカヒトデ、イトマキヒトデ、ゴマフヒトデ」
「じゃあ、あの端っこにいるやつは…」
「ルソンヒトデ」

それと反対側にくっ付いているのはエゾヒトデだ、と続ければすぐ隣から尊敬の眼差しを受けた。興奮した様子でなまえが「承太郎さんすごい!」と繰り返す。海洋学者という自分の職を考えれば然程大した事は無い知識なのだが、それでも面と向かってそう言われると悪い気はしない。こういう素直さが彼女が誰からも好かれる所以なのだと妙に納得をした。「誰からも」と言った割には自分の頭に思い浮かぶのはあの偏屈な漫画家ばかりだったが。


展示される色とりどりの魚達が眩しい。都内の水族館よりもよっぽど様々な展示仕様が施されている。我慢出来ずにきょろきょろと辺りを見回しながら、あそこは何の水槽なんだ、じゃあこっちは、と動けば傍になまえがいない事に気付いた。

しまった、俺とした事が夢中になり過ぎた。まさかはぐれてしまうとは。迷子の館内放送なんて冗談じゃあ無い。いや、待て。この場合の迷子はなまえであって俺じゃあねえだろうな。『杜王町からお越しの空条承太郎様、お連れ様がお待ちです』なんて放送がされた日には二度とこの水族館に来れやしない。

少々の焦りを浮かべて来た道を戻れば思ったよりもすぐになまえは見つかった。ぼうっとした様子のなまえはどうやら俺が先に行ってしまった事に気付いていないようだ。何をそんなに真剣に見つめているのかとそっと後ろから様子を見れば、なまえの視線の先にはペンギンがいた。

ペンギンなんて愛らしい動物を見ている割になまえの顔は浮かない。何故、と疑問ばかりが頭に張り付いた。ガラスに貼られた「ロイヤルペンギン」の説明書き。……、まさか。

このペンギンを見て彼女はあの男の事を思い出している、間違いない。ロイヤルペンギンの頭の飾りは何処と無くあの漫画家の横に流した髪型を彷彿とさせる。あの男をペンギンに例えるなまえのセンスは中々だ、と喉元まで笑いが込み上げたがそれは何とか飲み込んだ。

…バスの中で「大丈夫」と言った割には全然大丈夫そうじゃねえな、と肩を竦める。彼女は素直な性格だと思っていたが、案外意地っ張りで頑固な部分も持ち合わせているらしい。間違い無くあの男と何かあったな…。さて、どうした物かと悩んだ所でシロイルカのパフォーマンスが始まる事を伝える館内放送が流れた。

「シロイルカのバブルリングを見るとね、幸せになれるらしいです」

いつの間にか俺に気付いたなまえが施設案内のパンフレットを広げながら言う。水族館なんて物は大体の客層が家族連れかカップルで二層される物だが、此処の水族館の客の殆どがカップルだったのはそういう事だったのか。手渡されたパンフレットに目を通せば「彼と結婚出来ました」なんて言葉や「子供を授かりました」なんて言葉が添えられていた。そんな物バブルリングを見てどうにかなる物じゃ無いだろう、なんて思ったが確かに女という生き物はこういう類に弱そうである。周りにいた客が殆どいなくなった所を見ると大方イルカ目当てだったのだろう。

「承太郎さん、早くしないと始まっちゃうから」
「なまえ」

急かすように服を引っ張るなまえが小首を傾げて俺を見上げる。

「帰るぞ」

俺の突然の言葉になまえが目を見開いた。戸惑いの表情を顔に浮かべて「どうして」と尋ねるなまえにそのまま続ける。目線を合わせる様に少し屈めばその小さな唇が結ばれた。

「なまえがシロイルカを一緒に見たい相手は俺じゃあ無いだろう?」

諭す様に優しく言ったつもりだったがその一言は彼女の心をぐらつかせるには十分なようだった。あの丸い瞳がみるみる内に憂いの色を浮かべる。

「そんな、こと、」
「なまえ」
「………、だって、」

じわりと目の縁に涙が滲んだ。閉じた喉を無理矢理開かせる様な小さな、それでも必死な声でぽつりぽつりとなまえが呟き始める。

「私、ひどい事、言ったんです。……きらい、って、だいきらいって。だから、」

耐え切れなかった一滴が頬を伝うとそれまで塞き止められていた物が全て溢れる様になまえはぽろぽろと涙を零した。

「…もう、きっと、むりなんです…」

そう言って俯いてしまった彼女の足元には幾つもの雫が痕を残す。誰もいないフロアになまえの小さな声が響いた。

「それで良いのか?」
「………」
「このままで良いって言うなら、俺は何も言わない」

暫く間があってからぐす、と鼻を鳴らす音が聞こえて、ごしごしと腕で涙を擦り取ってからなまえがゆっくりと顔を上げた。それから真っ直ぐに俺を見つめる。悲しさに耐えるような呼吸を繰り返してからなまえは結んでいた唇を開いた。

「ろはん、先生のこと、きらいなんて…うそ、なんです…っ。……このままで、離れ離れになるなんて、そんなの、わたし」

いやです、と消え失せそうな声で言葉を紡いだ彼女は再び涙を散らばせた。軽く息を吐いてから慰める様に頭を何度か撫でる。案外手間のかかる、本当に娘のようだと思う。

「それを伝える相手は俺じゃあ無い」

わかるな?と小さな子供に言う様に囁けばこくん、となまえは頷いた。それから「承太郎さん、ありがとう」とも。礼を言うのはあの偏屈漫画家と仲直りしてからだろう、と思ったがそれは言わないでおく。それもまあ、時間の問題だろうからな。







中途半端な時間に帰るとあって帰りのバスは空いていた。

「承太郎さん」
「何だ」
「どうして、露伴先生と喧嘩したって気付いたんですか?」

不思議そうにぱちぱちと瞬きするなまえを前にして、今度は俺が何度か瞬きをした。あんなに寂しげな表情をしていた癖にどうしてばれないと思うんだ、なまえは。自分が傍から見てわかりやすい性格だという事を彼女は理解していないらしい。

「ペンギンを穴が開きそうなくらい見つめていたからな」

それで気付いた、と言えばなまえが吹き出した。

「あのペンギン、露伴先生に似てるって思ったの私だけじゃなかったんだあ…」

携帯電話で検索したペンギンの画像を見て「あは、可愛いです〜。やっぱり露伴先生に似てます」なんて目を細めるなまえを前にしたらあの男はどんな表情をするだろうか。考えただけでも可笑しい。

しかし、あんなになまえを溺愛していると言うのであれば、それこそ能力で彼女を確実に自分の元へ置いておくことだって出来ただろうに。何故それをしないのだろうか。…そこまで考えてからああ、と一つの考えに辿り着く。彼女を溺愛しているからこそなのだろう、と。あの好奇心の塊の男が手を出していないと見るとよっぽどなまえを本気で想っているらしい。あの男は案外そういう所は常識があって、そして臆病なのだ。

とす、と右腕になまえの頭が預けられた。

「…あ、ごめんなさい…。何だか、うとうとしてしまって」
「いや、構わない」

腕を差し出す仕草をすれば「じゃあ」と控えめにもう一度なまえの頭が預けられる。こんな姿を見られた日には今度こそあの男は発狂しそうだ、と思う。まあ、それでも良い。なまえを泣かせたそもそもの原因はあの男なのだから。痛々しく赤くなってしまった瞼は明日には可哀想なくらいに腫れるに違いない。

いつか未だ幼い自分の娘もなまえと同じように大切な相手を見つけるのだろうか。あの男のように自分の娘を強く想う相手が現れるのだろうか。考えただけでも頭が痛い。何故俺はそんな心配を今からしなくちゃならない。はあ、と溜息が零れた。それならせめて娘を想う相手はもうちょっと普通の人間であって欲しい。あの漫画家くらい主張の強い相手だったら堪った物じゃない。

小さな呼吸とあどけない寝顔をすぐ傍に感じて、自分の娘と彼女をそっと重ねれば思わず頬が緩んだ。保護者って言うのも中々楽じゃねえ。…やれやれ、だぜ。



20151013


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