「話がしたい」

そんな連絡が昨日、露伴先生から来た。

話って、何だろう?

たった5文字のいかにも先生らしい簡潔な文から色んな想像をしてしまう。例えば。

「…わかれ、ばなし…」

ぽつりと呟いた言葉はひゅう、と冬の匂いを含んだ風に掻き消された。目の奥がじいんと響いて、視界が滲む。溢れかかった液体は腕でごしごしと擦って誤魔化した。赤く腫れたままの瞼が痛む。ぱちぱちと瞬きをすれば聊か視界は鮮明になったけれども、瞼は相変わらず熱を持っていつもよりも重い。

大嫌い、と突き放したのは私の方だ。露伴先生の気持ちは私からとっくに離れてしまっているかもしれない。露伴先生の隣にはもう自分じゃない誰かがいるのかもしれない。

そこまで考えれば鮮明になった筈の視界が再びぼやけ始めた。

じゃあ何だ。私はわざわざ別れを告げられる為にこうやって露伴先生の家に来たというのか。先生を訪ねて別れを切り出されるのなら今すぐここから逃げ出してしまいたいと思う。

それでも昨日、承太郎さんと約束をしたんだ。ちゃんと思っている事を、自分の本心を露伴先生に伝えるんだって。

だから、言わなきゃ。もう手遅れかもしれないけど、ちゃんと自分の気持ち伝えなきゃ。あの時、自分の本当の気持ちを素直に伝えていられたら、なんてそんな後悔はもうしたくないから。

はあ、と溜息とも深呼吸ともとれる息を吐いてから、私は見慣れたインターホンをそっと鳴らした。






「外、寒かっただろう」

そう言って差し出された紅茶は既にミルクと砂糖が溶けきっていた状態だった。軽く頷いてからカップに口を付ければその甘さが心に沁みる。ミルクが一つに砂糖は二杯。私が飲むいつもの味。露伴先生、ちゃんと私がいつも入れていた量を覚えていてくれたんだ。そう思えば胸がぎゅうと締め付けられた。

やっぱり私、この人が好き。例え露伴先生がもう私の事を好きじゃなかったとしても、それでも私は先生が好きだよ。

「なまえ、」

名前を呼ばれて思わず肩が跳ねた。もしかしてもう別れ話されちゃうのかな。その前にちゃんと言わなきゃ。何だか息が詰まりそうになるけれど、そのまま私は露伴先生の言葉を遮る。

「露伴せんせ、あの、私も、お話があります」

相変わらず先生の顔は見れない。見たらきっと泣いちゃいそうになる。目線は全然関係ない所を彷徨って、最終的に未だにカップの中で揺らめく紅茶へと落ち着いた。何かに押し潰されそうになる感覚に耐えるように握られた掌が少しだけ震えている。

「あの、私、ずっと露伴先生に、謝らなきゃって、思ってて」

そこまで言ってからはあ、と息を吐き出せばさっきみたいに目の奥が熱くなった。駄目、まだ何も伝えられてないからもう少し、頑張らなきゃ。

「……大嫌いって、言った事、ずっと謝りたく、て」

滲んだ涙が耐え切れずぽろりと流れた。何で、まだ泣く所じゃないのに。ごしごしと擦っても涙がぽろぽろと零れて上手く喋れない。口を開いても「あぅ」と言葉にならない声しか出てこない。ちゃんと言わなきゃ、いけないのに。

ギシ、と音を立てて掛けられた重さでソファが沈む。子供の様に両手で目元を擦っていた私は自ずとそちらの方に身体が傾いた。

「なまえ」

顔を上げれば今日初めて露伴先生と視線が重なった。私の隣にいる先生は私の名前を呼んだっきりで何も喋らない。私が喋るのを待ってくれているんだ。思ったよりもずっと優しい眼差しを目の前にして、遂に私は涙を堪えるのを諦めた。

「本当は、私、お仕事の集まりなんて、行って欲しくなかった、です。私の、傍にずっと、いてほしくて。でも、言えなく、て。露伴、せんせに、良い子だって思われたくて、それで…っ」

途切れ途切れに言葉を紡ぎ出してから必死に呼吸をする。自然と上下に揺れる身体にそっと露伴先生の手が伸びて、私の頬に触れた。親指で涙を掬って目を細めてからもう一度先生は私を見る。

「…それで?」
「それ、で…。嘘、ついたんです。本当は露伴先生を、独り占めにしたいけど、でも本当の事を言ったら、先生に、我儘って思われるかもって。…嫌われちゃうかも、って…。……、私、良い子でも何でも、無いんです。わがままな子で、がっかりさせて、ごめん、なさい」
「…なまえ」
「大嫌いって、言ったのも、嘘です…っ。ほんとは、ほんとは、…露伴先生の事が、すき、…だい、すき、です」

最後までやっと伝えられたと思ったら、それ以上私は何も喋れなくなってしまった。きっと今の私はとんでもなく酷い顔をしている。今更になって恥ずかしくなって俯けばそのまま身体を先生の方へと引き寄せられた。泣いたせいであまり機能していない今の私の嗅覚でも露伴先生の匂いを少し感じる。

「…君は馬鹿だ」
「あ、ぅ」
「そんな事くらいでぼくが君を嫌うと思ったか?」
「せ、んせ」
「君はもう少し…ぼくに想われている自覚を持った方が良い」

顔を上げれば前髪を掬われてそこに唇を落とされた。暖かくて、少しくすぐったい。

「…まあ、今回の事は、その、なまえに誤解をさせたぼくにも比があるとは思っているが」
「誤解?」
「ぼくは浮気なんてしていない」
「え」
「していない」
「……、でも、女の人の匂い、した、のに?」
「確かに纏われたのは事実だが、それに応えてはいない」
「……」
「ぼくが今日、君に話したかったのはその事だったんだがな」

記憶を辿るような顔つきをした露伴先生は嫌な事を思い出したのか不機嫌そうにフン、と鼻を鳴らした。…浮気、してなかった。へなへなと身体から力が抜けていくのと同時にほっとした安堵感が胸に宿る。

「…じゃあ、露伴先生、私の事、嫌いになって無いですか…?」
「嫌う?ぼくが?」
「だって、私、我儘だし…」
「なあ、君の言う我儘って一体何だ?」

腰に廻された手に力が込められて、更に露伴先生との密着度が上がる。

「ん、さっきも言ったけど…。露伴先生の事、独り占めにしたい、とか」
「……」
「格好良い露伴先生を、私以外の人が見るのも嫌だなって思うし」
「……、他には」
「…露伴先生と、ずっと、一緒にいたいです」
「……、君って子は本当に…」

大きな溜息を吐かれた。もしかして、がっかりされた?本当に嫌われた?思わず下唇を噛めばすぐ目の前に露伴先生の顔が近付けられた。額をぴったりとくっつけられて鼻の頭同士が触れている。名前を呼ばれると先生の息が掛かってくすぐったい。思わず目をぎゅうと瞑れば、露伴先生が笑った。

「…露伴先生は、私と会えない間、寂しかったですか…?」
「…そういう君はどうなんだ」
「寂しかった、です。…とっても」
「そうか。…じゃあ、ぼくと同じだな」
「……、でも露伴先生、私に全然連絡くれなかったです」
「そりゃあ、あんなに面と向かって人に「大嫌い」なんて言われたのは生まれて初めてだからな」
「あ、いや、だから…それは、その場の勢いっていうか」
「少なからずぼくもショックを受けていた訳だ、わかるだろ?「大嫌い」なんて言われた人間に易々と連絡を取れる程、ぼくのメンタルは強くは無いんでね」
「ご、ごめんなさい」

顔を覗き込まれてじろりと見つめられると何だか責められている気がしてしまって思わず謝ってしまった。そんな私を見て露伴先生はにやりと口角を上げる。


「いや、良い。…ショックを受けていたのはぼくだけじゃなかったみたいだしな。そうじゃなきゃ、こんな酷い顔にならないだろ?」

あ、忘れていた。そうだった、今日の私は酷い顔してるんだった。からかう様な物言いに思わず唇を突き出す。

何だか瞼が腫れぼったいのは絶対に気のせいじゃない。昨日は昨日で承太郎さんの目の前でわんわん泣いてしまったし、腫れない方がおかしいのだ。露伴先生の家に来る前は冷たいタオルで瞼を冷やして少しはマシになったかな、とも思ったけれど先生の前でもこれだけ泣いたんだから結局その行為は無駄になってしまった気がする。

「あ、あんまり見ないで下さいよぉ」
「いいや、見るね。ほら、こっち向きなよ」
「や、やです」
「君も強情だな、ほら」
「やですってばぁ!」
「!」

視界を奪うように先生のヘアバンドを目元まで下げれば、露伴先生は面白く無さそうに口を歪めた。その様子が可笑しくて思わずくすくすと笑えば、ギザギザの隙間から見える先生の眉間に更に深く皺が刻まれた。そんな露伴先生が何だか可愛い。

普段はヘアバンドで隠されている額にそっと唇を寄せる。

「なまえ」

自分でヘアバンドを取ってしまった露伴先生の前髪がはらりと額にかかる。ヘアバンドを取ってる姿は数回しか見た事が無いけれど、これはこれですっごく格好良い。やっぱりこんな姿も他の皆には見せたくないよ。

「そこじゃないだろ」

何が、と言い掛けた言葉が声になる事は無かった。すぐに露伴先生の意図を理解してしまったのだから。

うう、私からするの?おでこは良いけど、やっぱりそっちは恥ずかしいよ。…でも、今日ぐらいは私からしても、良いかも、なんて。

そっと露伴先生の唇に自分のを重ねる。軽く触れるだけのキス。久しぶりにした露伴先生とのキスは涙の味で少しだけしょっぱかった。



20151105



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