滑らかな陶器のカップに注がれた紅茶は綺麗な橙赤色をしていた。本当はこのまま飲んだ方が茶葉本来の味や香りが楽しめるというのは重々承知の上だけれどお子ちゃま舌な自分はいつまで経っても砂糖とミルクを手放す事が出来ないでいる。紅茶の持つ仄かな渋味を美味しいと感じるようになるには一体いつになるんだろう、なんて事をミルクが溶けて段々と白濁化していく紅茶を眺めながら毎回思ったりもする訳だけれど今日はいつまで経っても目の前の紅茶は透き通った色のままである。

本当ならばこの紅茶が冷め切る前にミルクと砂糖を混ぜ込んでしまいたい。目の前に置かれたシュガーボックスとソーサーの上で横たわるミルクに手を伸ばしたい。そう思って少しだけ身体を前に屈めれば廻された腕がその分だけ自分の身体をソファへと引き寄せるものだからいつになっても私の願望は叶わないでいる。どうしよう、紅茶飲みたいのに困ったな。う〜んと考え込んでから少しだけ振り向けば気怠そうでどこか憂いを含んだ瞳と視線が重なって喉元まで出かけていた言葉を思わず飲み込む事となる。

今日の露伴先生は甘えん坊さんみたいだ。後ろからぎゅうと私の事を抱き締めて髪の毛や首元に顔を埋めて、時には小動物みたいに身体を摺り寄せてくる。こういう甘えん坊な露伴先生が出る時は原稿を描き終えたお仕事終わりが多い訳なんだけれどそれに気付いたのはごく最近の事だったりする。

秘密の部屋の事を喋ってくれてから露伴先生は私に色んな表情を見せてくれるようになった。今までは大人で優しくて格好良いっていうのが露伴先生を作る要素だったけれど最近ではそこに可愛いっていう新しいカテゴリーが追加されている。

「たまにあるんだよ。原稿が仕上がった時とか、週刊誌の発売曜日とか、或いは単行本が本屋に並べられる瞬間とか。ぼくが描いた漫画を誰も読んでくれないんじゃないかって、誰もぼくの漫画に興味を持たなくなるんじゃないかって…!そう思うと底知れぬ何かで心がどんどん淀み始めて、それで…。…それで、不安で不安で堪らなくて…どうしようも出来なくなるんだ…ッ」

そう言って私をきつく抱き締めて来たのが数週間前の事。露伴先生みたいな人でも不安になる事あるんだなあって思ったのが率直な感想だったけれど子供みたいに泣きそうな先生をぎゅうってしていっぱいよしよしってしてあげればその分だけ身体を摺り寄せられてそれが何だか無性に可愛いと思ってしまった。母親に甘える小さな子供みたい。母性本能がくすぐられるっていうのはこういう事を言うのかな。本当は寂しがりですぐに不安になる所も甘えん坊さんな所も色んな露伴先生を見せて欲しい。どんな露伴先生だって全部受け止めてあげたい。言葉にはしなかったけれど何となく伝わったのかその日以来露伴先生はこうやって甘えて来る事が多くなった。

身体ごと後ろへ向けてよしよしって撫でてあげれば猫みたいに露伴先生は目を細める。かわいい。それに満足したのか露伴先生はぎゅうって強い力で私を抱き締めて触れるだけのキスを唇を落とした。それから何回も啄む様にキスをされて私もそれに応えるように自分からすればゆっくりとソファへ押し倒される。ソファの端っこに置いたスクールバッグが頭の天辺に当たって何だかごわごわするな、なんて思ってる内に今度は唇をぺろりと舐め上げられて身体が少しだけ反応してしまう。

「んにゃ」

いきなり唇をはむりと咥えられて変な声が出た。これじゃあ私が猫みたいだ。思わず目を閉じれば露伴先生が首筋に顔を埋めてすんすんと鼻を鳴らすから少しだけくすぐったくて身を捩じらせてしまう。先生はこうやって匂いを嗅ぐのが好きみたいだけど本当は恥ずかしいからやめて欲しい。今は冬だからあんまり汗は掻かないかもしれないけど…匂いを嗅がれるっていうのはあんまり良い気がしないんだもん。今日は甘えん坊な露伴先生だから特別に何も言わないでいるけれど。

「ひゃ、ぅ」

身体がぴくりと跳ねた。露伴先生の鼻先が耳に触れたその衝撃でさっきとは違う変な声が漏れて堪えるように右手で口元を抑えればもう一度耳元に露伴先生を感じる事となる。さっきと同じように鼻先で耳の形をなぞられて、それからぬるりとした物が耳たぶへと触れる。あ、耳舐められるのは我慢出来ないから嫌なのに…、

「ろはん、せんせぇ…」

舌先が耳の中へと入ってきて濡れた音で頭がいっぱいになれば何も考えられなくなる。やめて下さいって言いたくて口を開けば同じタイミングで露伴先生が耳たぶを甘噛みするものだから代わりに唇からは言葉にならない声ばかりが漏れ出してしまう。こんな声出したくないのに、聞かせたくないのに。何の役にも立っていない口元に寄せられた自分の右手をぎゅうと握り締めてみても露伴先生からの刺激には敵う訳が無いのだ。

「あ、あ…。やだ、やだぁ…。みみ、もう、なめるのだめです…っ」
「なまえ」

名前を呼ばれて薄ら目を開ければ先程とは打って変わって意地悪く口角を上げた露伴先生がすぐ近くに見えた。さっきと顔違う。さっきはあんなに甘えん坊さんだったのに。今の露伴先生はかわいくないです。ちょっとだけ抗議のつもりで睨んでみたけど意味は通じていないらしく、そんな私を物ともせずに露伴先生はちゅうと小さく音を立てて私の唇に自分のを重ねる。そしてそれと同時にスカートの中へと伸びる手はまさしく露伴先生のもので。咄嗟にその手首を捉えれば露伴先生の眉間にうっすらと皺が刻まれる。

「なまえ」
「だ、だめです」
「…ぼくが嫌いなのか、なまえ」
「露伴先生の事は好きです」
「ンン?ぼくの事が何だって?」
「だから大好きですってばあ」
「なまえ、もう一回。ぼくがだい…何だって?」
「き、聞こえてるじゃないですか!もう今日は言わないです」
「ハァ…むくれてる顔も超絶可愛いな…。で、そろそろこの手を退けてくれないか」
「やです」
「…なまえ」

不服そうなままの露伴先生がもう一度近付いてきて頬に優しく口付けを落とされれば身体からふにゃりと力が抜けて、その隙に太ももを撫で回していた掌は意図も簡単に下着の中へと侵入する。こんな時ですら何の役にも立たないこの右手が腹立たしい。せめてもの抵抗として手首から離した右手で露伴先生の肩を押し返してみるけれどそうすれば反対に掌に力を込めてお尻を触られるものだから結局この右手は非力なままになってしまう。

「ああ…この曲線と肉感が堪らん…。ハァ…なまえ…」
「あ、お尻だめです…っ!ん、ん…っ、やぁ…。ろはんせんせ、いやあ…」
「何が駄目なんだよ、何が?ああ、お尻じゃなくてもっと直接的な場所を触ってくれって事か?」
「ち、ちが…。この前も、したばっかりだから、だから今日はしちゃ駄目なんです…っ」
「この前?ぼくの記憶が正しければ最後になまえとセックスをしたのは4日前だぜ?4日も我慢したぼくの身になってくれよ、なァ…」
「ふ、ぁ…。さわるの、だめえ…」
「大体そんなにぼくを煽っておいて今更駄目だなんて酷な話だろ?」

煽るも何も最初に手を出したのは紛れもなく露伴先生なのに。私は甘えん坊露伴先生をよしよしってしてあげただけだもん。理不尽すぎる物言いに唇を寄せる露伴先生から顔を背ければ困ったように名前を呼ばれてそろそろと先生を伺い見る。声色とは裏腹にどこか楽しそうな表情に頬を膨らませれば観念しろと言いたげな露伴先生がこれ以上無いくらいに距離を詰めた。

「う、うう…。だめ、だめですもん…。明日も学校なのにまた立てなくなっちゃうのやです…」
「わかった。今日は加減するし君は動かなくていい。だから…なぁ、良いだろ?」
「だめです…!前もそう言って結局立てなくなるまでしたのに…!」
「あんな声出されたら誰だって止まらなくなるに決まってるだろ?それになまえだって『気持ちいいのもっと欲しいです…。露伴先生の好きなようにめちゃくちゃにして下さい』ってあんなにねだってたじゃないか」
「そ、そんな事言ってないですもん!露伴先生のばかばか!」
「あ、おい。こら、あんまり暴れるなよなまえ…ッ!」

限られた面積の上でああだこうだと押し問答をして挙句の果てに小さな抵抗を試みれば、悲鳴を上げて揺れるソファからバッグが宙に身を躍らせて床の上へと無残にも中身をぶちまける羽目となる。ばさばさという音から察するに教科書やらノートやらが全てさらけ出されているらしい。押し倒されたここからじゃよく見えないけど…。目線だけをそちらに向ければ何かに気付いた露伴先生が一枚のプリントを拾い上げた。裏側からうっすらと透けて見える文字は「進路希望調査」の六文字。一昨日に配られてからずっとバッグに入れっぱなしだった奴だ。

まじまじとそのプリントを見つめた露伴先生は眉を顰めたままでのそりと上体を起こした。それからソファに座り直してふむ、と何かを考え始めたようで私もゆっくりとそれに続く。用紙から目線を逸らさずに広げられた右手は「おいで」の合図だからそのまま腕の中へと吸い込まれるように近付けばぎゅうと引き寄せられた。

「それ、明後日までに提出しなきゃいけないんです」
「希望する大学に学部、それに職種ねえ…。で、なまえは何て書くんだ?」
「…えっと…それが…よく、わかんなくて」

小さな声で呟けばプリントから目線を外した露伴先生と視線がぶつかる。責められている訳では無いのに何故だか後ろめたさを感じて俯いてしまうのは自分の将来がいまいち不透明だからだ。

希望の大学や職種を聞かれた所で何も答えが思い浮かばない。将来何になりたいのかなんて質問にも口をまごつかせる事しか出来ない。私のやりたい事って何だろう?私の好きな事って何?…甘い物は好きだけど、それを職にしたいかは別問題だと、思うし…。そう考えれば自分の将来像が全く見えて来なくて途端に不安になる。何も見据えていない自分は駄目な人間なんじゃないかなんて思いが心を過る。周りの子たちは皆将来の事考えてたりするのかな?この大学のこの学部に入ってこんな職に就きたいなんて具体的なビジョンがあったりするのかな?どうしよう、そんなの私には何にもないよ。

「…明後日までなのに何も書けなくて…どうしよう…」
「……岸辺露伴先生のお嫁さん、とでも書いておけばいいんじゃあないのか」

希望する職種の第一希望欄を指差しながら露伴先生がそんな事を言う物だから思わずしゅんと項垂れてしまった。そりゃあ16歳で漫画家になった露伴先生にはわからない気持ちだと思うけど。きっと露伴先生はある程度の年齢から自分の将来を構築していたんだろうなあ。

「そんなふざけた事書いたら先生に怒られちゃいます…」
「なまえ」

名前を呼ばれて顔を上げればそこには酷く真剣な眼差しの露伴先生がいて思わずはっと息を呑む。改まってそんなに見つめられたらどんな顔すればいいのかわからない。

「ぼくはふざけてなんかいない」
「え?」
「ぼくはぼくなりに色々と考えていたんだが…。とりあえずなまえが18歳になって高校を卒業したらこの家で同棲して…。それで君が20歳になった時…、いやなまえの好きなタイミングででも籍を入れようかと思っていたんだ」
「え…、え、ちょ、ちょっと待って下さい。それじゃあまるでプロポーズみたいです!」

膝の上に置いていた手に露伴先生の手が被せられてそっと距離が近くなる。目の前には相変わらず真面目な表情の露伴先生がいてさっきまであんなに静かだった心臓が忙しなく動き始めた。

「…まるで、じゃない」
「露伴、先生」
「正真正銘のプロポーズだ、なまえ」

ほんの一瞬だけ、心臓が止まったような気がした。プロポーズって、えっと、だからつまり。唇をぱくぱくさせても声が出てこない。交わっていた視線は色んな所を彷徨って結局行き場が見当たらぬままもう一度露伴先生をそっと見上げる。露伴先生は今更になって気まずそうに顔を逸らして大袈裟に頭を掻き始めた。

「まあでも指輪はまだ用意していないし…言葉だってこんなのじゃなくてもっとそれらしいのを言うつもりではいたんだが…。…これはプロポーズ(仮)って所か」

ほんのりと赤く染まっている耳を見ればその言葉は冗談なんかじゃないって痛いぐらいにわかる。プロポーズ?どうして?何で私なんかと?何故だかわからないけれどじわりと視界が滲み始めた。堪えたいのに堪えられない。そりゃあ露伴先生とはずっと一緒にいたいと思う。それが叶うのであればこれ以上ないくらいの幸せなのだ。でも私はただの女子高生で相手は誰もが知る有名漫画家。釣り合っていないのは子供でもわかる。その関係が恋人同士であればまだ世間だって許してくれるかもしれない。だけど結婚、つまりは夫婦になるという事は恋人よりもずっと重みがある訳で。

「露伴せんせ…なんで、どうして私なんか。もっと、考え直した方がいいです…っ」
「この露伴が君じゃなきゃ嫌だと言ってもか?」
「だって、私みたいな子供にプロポーズって、」
「…なまえ、ぼくは確証が欲しい。君がぼくの傍からいなくならないという確証が」

もう少しで涙が零れてしまいそうな私の頬に触れてからぽつりぽつりと露伴先生は話し始めた。何度も飲み込んでいるのにすぐにまた溢れ出る液体がその度に視界を奪って露伴先生がどんな表情をしているのかわからなくなる。

「…ぼくが、大切だと思う人は…、皆ぼくの前からいなくなってしまった。だから、ぼくに確証をくれ、なまえ。ぼくの前からいなくならないと、ずっと傍にいてくれると約束してくれ」
「露伴先生、」
「なまえが高校を卒業して進学しようが就職しようがそれは好きにすれば良い。君の人生だ。だけども何にせよ、君はこれから先色んな人間と出会う事になる。なまえに好意を抱く人間だってきっと出て来る。…ぼくはそれが怖い。知らない誰かになまえが浚われるんじゃないかと不安になるんだよ」
「ろはん、せんせ、」
「…君を手放したくないんだ、なまえ」
「せ、んせ」
「…………クソ、やっぱりこういうのを言うのは慣れてないし、そもそも得意じゃあ無い…ッ」

こつんと額同士がくっつく距離まで近付けられてぼやけた視界の中に顔を真っ赤にした露伴先生が見えた。気まずそうに手で顔の半分を覆っているけれどそれでもその羞恥は隠せていない。思わず笑えば目の淵からぽろりと雫が頬を伝う。

「…それで、プロポーズ(仮)の答えはどうなんだ?」

指先で涙を拭われてぐすぐすと鼻を鳴らせばほんのりとインクの匂いが鼻孔を霞める。答え、言わなきゃ。露伴先生が待ってる。格好良くて可愛い露伴先生も、意地悪で優しい露伴先生も、寂しがりで甘えん坊な露伴先生も、大人だけど子供な露伴先生も、全部、全部大好きだから。

「わたし、もろはんせんせいと、ずっといっしょにいたい、です…っ」

途切れ途切れに言えば堪えていた物が全部溢れ出てしまった。明日はきっと顔が大変な事になるかもしれない。多分氷で冷やしても太刀打ちできないくらいに腫れるんだろうなあ。それで仗助や由花子たちに余計な心配をかけさせちゃうんだ、きっと。でも、いいや。間近で嬉しそうに顔をほころばせる露伴先生を見たらそんな事どうだってよくなってしまった。

「露伴先生、だいすきです」

小さな声で拙い愛の言葉を伝えれば露伴先生は左手の薬指にそっと口付けを一つ落としてくれた。それがまるで王子様みたいだなあって見惚れていたら唇を啄まれて「それじゃあさっきの続きを始めようか」なんて覆い被さって来るものだから思わず笑ってしまう。明日は目元も腫れて腰も痛くてとっても大変な日になるかもしれないなあ、なんて思いながらそっと私は露伴先生の背中へと両手を廻すのだった。





「ん、ん…。あ、ろはんせんせ…」
「…オイオイ、ここまでしておいて今更お預けか?」
「あ、ちが…。ん、やぁ…。進路希望の…何て書くか…決めてないです…」
「ああ、それなら希望職種に露伴先生のお嫁さんって書いておいたから気にするなよ。…ん、ほらこうされるの好きだろ?」
「ひゃ、ぅ。あ、あ…っ。ろはん、せんせのばかあ…」


20160229



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