金曜日の夜。夕食も済ませ最後の一枚の食器を洗い終えてからちらりとリビングに視線をやればマグを両手で抱えながら寛ぐなまえの姿が見えた。制服に身を包み薄めの化粧を施した彼女の姿は職場の誰もが見ているだろうが、身体を隠す緩めのカットソーを纏ってやや幼さの残る素顔をさらけ出しているあの姿は私しか知り得ぬ物であろう。私だけが知っているなまえ。私だけが見ているなまえ。はあ…。その事実だけで感嘆の溜息が漏れてしまうのは仕方の無い事である。そして極め付けのあのマグを包み込む繊細な指。きめの細かい長い指が白魚のように美しい、なんて言葉はありきたりかもしれないが実際そうなのだから致し方あるまい。そして今からあの指先を愛でる事が出来ると思うとそれだけで−−−。ごくりと鳴った喉元は少々下品だっただろうか、なんて自嘲的な薄笑いを浮かべて彼女に近付けば察したように大きな瞳が自分に向けられる。

仕事帰りに買ってきた物を出すべく彼女の目の前で紙袋をごそごそと鳴らせば「それなあに」と瞳が語るが敢えてそれにも何も答えない。これを手に入れる為にわざわざ駅前のテナントビルまで足を伸ばした訳だがこれを使ってなまえの手先を愛玩出来るのであればそんな苦労は微塵も厭わない。

「ネイルオイルですか」

姿を現した中身になまえが呟く。まさにその通り。フランスのオーガニックブランドの物でエッセンシャルオイル5本セットの物を購入したのだがまあ値段もそれなりである。それでも香りや使用感が異なる5本のオイルをなまえに使う事を想像すれば購入はほぼ即決であった。それに以前まで使っていたオイルも残り少なくなってきていたし決して無駄な買い物では無い。まあ「無駄遣いしちゃ駄目って言ったじゃないですか。もう!」なんて剥れ顔をしたままあの指先で頬を抓られるのも悪くは無いのだが。それが仕置きでは無くて褒美になっている事は敢えて言うまい。

一通り5本全てのオイルを確かめてから今晩使う物を選ぶ。もう数時間で就寝だから少し重めの物でいいかもしれない。説明書きを見れば「リラックスの代名詞ラヴェンダーに甘い香りのバニラ。柔らかいオレンジの香りが1日のストレスを吹き消します」の文字。確かに今からこのオイルでなまえを手を可愛がれると思うと今日一日のストレスなんて簡単に何処かに吹き飛んでしまう。子供のような期待を湧き上らせて、そしてそれを隠す事も無いままなまえの手を取ろうとしたその瞬間であった。

「…いやです」
「なまえ?」
「今日は手のケアはいらないです」

そう言い放ってから彼女は再び煌々と映るテレビの方へと身体を向ける。突然の言葉に暫し何も理解出来なかったが数秒の間があってから正気を取り戻した私はなまえの身体を自分へと向き直らせた。

「なまえ、どうしてそんな事を」
「…どうしてもです」
「毎晩行っていた事を何故今更駄目だと言うんだい。何か訳があるんだろう?」
「………」
「なまえ」
「……だって、吉影さん」

一度俯かせてから上げられたなまえの顔に少しばかり心臓が跳ねた。大きな瞳に涙を堪らせて今にも零れんばかりの表情を見れば何か彼女の気に障る事でもしただろうかとすぐに自分の記憶を振り返り始める。まさか人参嫌いな彼女の為にと今夜作ったすりおろし人参入りのハンバーグの事だろうか。今まで「おいしいおいしい」と食べる物だから普通のハンバーグだと騙せていると思っていたがそれが今夜ばれる羽目になろうとは。ふうむ、どうしたものか。これからなまえにどうやって人参を食べさせようか…。

「吉影さん、私に冷たいんですもん…」
「何?」

自分の予想の斜め上をいく返答に目を見開けばなまえは再び顔を曇らせる。私がなまえに冷たい?何をどうしたらそうなるのかは見当もつかないが彼女の表情を察すれば至って真剣に悩んでいるものだから参ってしまう。

「……なまえ、一体どういう事か」

説明してくれるね?出来る限りの穏やかな口調でそう言えば困ったように目線を上げたなまえは静かに頷いた。
それから少しの間があって彼女はぽつりぽつりと喋り始める。

「………吉影さんは、社内で凄くもてるんです」

突拍子も無い言葉に私は再び目を見開く事となる。職場内においての自分の立場は把握しているつもりで、確かに女性社員に声を掛けられる事も少なくないがそれが一体どうしたというのだ。例え自分が他の女に擦り寄られようとも自分にとっての恋人はなまえただ一人のみである。その事実は変わりようが無い。

「他の女の人に沢山声掛けられた時は吉影さん優しく対応してて、」
「………」
「でも、私が声を掛けた時はいつも冷たくて。今日だって吉影さんとお昼一緒に食べたかったのに声掛けたら『一人で食べるので結構』って。わ、私と目も合わせてくれなかったです…っ」

そこまで言ってからおずおずと自分に目を合わせては困ったように眉を下げるなまえ。私が何も言えないでいるとみるみる瞳を潤ませて泣き出す一歩手前となってしまった。おまけに「やっぱり吉影さんは私じゃなくて私の手だけが好きなんですね」の一言付きである。

これには困ってしまった。まさか彼女がそんな風に社内での自分を受け止めていたとは。見当違いも甚だしい限りで彼女にばれぬようにそっと溜息を零す。まず第一に他の女性に優しいというのは間違いである。確かに社内での人間関係を平穏に過ごすように当たり障りの無い態度で接しているとは思うがそれが果たして他人を思いやる優しさからなのかと聞かれると恐らく違う。他人との深い関わりは望まないので自ら関係を持つ事もあるまい。

そして第二になまえへの態度である。冷たいかどうかと言われればそうかもしれない。だけどもそれは全てなまえという人間との密接な関係を維持したいという我ながら珍しい願望からきているのである。決して其処には嫌悪は含まれていない。そもそも一般企業において社内恋愛を歓迎する職場は決して多くは無い。ばれた暁には良くても同僚たちからの冷やかしに遭い、そして悪ければ移動を命ぜられる事だってある。それは何としてでも避けたい事案だった。なまえの美しい手を見つめていられる大事な時間を何故自ら無下に出来ようか?

そうした想いからなまえとの関係を隠す事に必死になり、そして過敏になり、結果としてなまえに他の女性社員よりもぞんざいな扱いをしてしまった訳である。普段は家で甘やかしている分、社内で彼女が受けた反動はあまりにも大きかったのかもしれない。

「…なまえ、その、私は他意があってそういう態度をとった訳では無いのだが」

本当に?と大きな瞳が問い掛けるもその表情は未だ疑心暗鬼といった所である。頷けばじいっと見つめられて暫くするとぷいっと顔を背けられるこの仕草は。………はあ、間違い無く拗ねている………。さて、どうしたものか。

「どうしたら機嫌を直してくれる?」

手を伸ばせば素直に寄ってくるあたり本気で機嫌を損ねている訳では無いらしい。大人しく腕の中に収まったかと思えばそっと静かに一言。

「いっぱい……甘やかしてくれたら許します」

何だそんな事。思わずそう口に出掛ったけれど言えば「"そんな事"呼ばわりするなんて酷いです!」なんて眉を吊り上げるだろうから黙っていようか。

毎日のように家では私がなまえを甘やかしていたけれど思えば彼女が私に甘えてくるというのは珍しい。こてんと頭を預けるような仕草に少し考えてから手を伸ばす。柔らかな髪を梳くように頭を何度か撫でてやれば満足そうに目を細めたなまえが顔を上げた。ふむ、甘やかすのも嫌いじゃあないが甘えられるというのも中々悪くない。

何度か繰り返してもうそろそろ良いだろうかと手を止めれば頬に走る仄かな痛み。その刺激が頬を抓られたからだと自覚すれば途端に甘美に感じてしまう辺り私も至極単純な人間らしい。

「やめちゃ駄目。もっといっぱいして下さい」

心地良い痛みを感じながらそんな風に甘えられてしまってはもう一度その小さな頭に手を伸ばす他あるまい。自ら甘えにくるなまえの姿に時折彼女から与えられる柔らかな刺激。こんな褒美にも似た仕打ちがあるのであれば社内での対応をもう少し素気無くしてもいいだろうか、なんて思考を巡らせれば再び頬に訪れた痛み。あからさまに頬を緩めれば桜色の爪が彩った指先に更に力が込められてぎゅうと音を立てた。ああ……素晴らしい…ッ!

指先が織り成す痛みに私が恍惚としている事に彼女は未だ気付かない。


20160318


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