※夢主が擦りむいて帰る。

ハンバーグが食べたい。それも煮込んであるような奴では無くてドノーマルな焼いてあるタイプの奴だ。昼頃にそう言えば「わかったぁ」なんて二つ返事した癖に今更ひき肉を買い忘れたのに気付いて再び買い物に行くってあいつはどれだけ抜けているんだ。ハンバーグの材料を買いに行ったのであれば普通は最初にカゴに入れるだろうが、ひき肉を!無駄な菓子ばっか買いやがってあいつは!

「……遅い」

なまえがスーパーに買い物に行ったのは今から1時間程前か。普通の買い物なら露知らず、ひき肉だけを買いに行ってあいつは何でこんなに遅いんだ。まさかまた必要ない物を買っているんじゃあ無いだろうな。

ちらりと時計を見れば時刻はもう19時になろうとしている。いくら季節が夏に向かっているとはいえこの時間にでもなれば辺りは暗い。それなのにこんな中をなまえ一人で一体何をしているんだ。もやもやと心が黒雲に包まれていくこの感覚に焦りすら覚えて、思わず携帯電話を取り出してなまえの番号を表示させる。あいつの身を心配して掛けるんじゃあ無くて、ぼくはただ単に早く夕食に在り付きたいから電話を掛けるだけだ。誰もいない部屋でそう誰かに言い訳をするようにそっと通話ボタンを押す。プルルとコール音を左耳に受ければ、少しの間があって一方で右耳には聞き慣れた着信音が届く。まさか。そっと携帯電話を耳から離せば今度ははっきりと聞こえるこの着信音はまさしくなまえの携帯電話の着信音だ。音のする方へと向かえば案の定と言ったところか。ダイニングテーブルの上で携帯電話は音を鳴らしながらぶるぶると震えていた。小さな液晶に「露伴ちゃん」と表記されている様が何とも虚しい。

あいつは携帯電話も持たずに出掛けたのか、一体何の為の携帯電話だと思ってるんだ…ッ!

自分の携帯電話のボタンを押せばぶつりとなまえの携帯電話の着信音も止む。代わりに先程まで自分の名前が表記されていた液晶には「着信1件」と映し出された。大きな溜息を零してみるもこの苛立ちは抑えきれない。自分のあの幼馴染は一体何処で現を抜かしているのだろうか。そう考えた所ではたと気付く。そう言えば親友が言っていたような気がする。「最近、女性を狙った不審者が多いらしいですよ」と。まさか、いや、そんな馬鹿な。…でも有り得なくは無い。先程とは違う妙な焦りに背中がぞわりとした。もし彼女の、なまえの身に何かあったら。

「…くそ、何でぼくがこんな事しなくちゃあならない…ッ」

親指の爪を一噛みした所で自分の足は玄関へと赴いていた。なまえが行ったのは多分駅前のスーパーだ。とりあえず一度其処に向かうとしようか。玄関先で解け掛けたブーツの紐を結び直し、うざったい前髪を掻き上げた所でガチャリと扉が開いた。

「露伴ちゃん〜、ただいまぁ…」

聞き馴染みのあるあの間抜けな声を聞いてこんな時間まで一体何処で何をしていたんだ、なんて思春期の娘を持つ父親が言いそうな台詞が喉まで出て来たが其れが声になる事は無かった。というよりも絶句した。女特有のあの小さな膝は擦り傷を負ったせいで出血をしていた。若干血が固まっている所を見るとそれなりの時間は経っていそうである。膝だけじゃない。パックのひき肉を入れた袋を握り締めている右手も所々血が滲み、左肘もコンクリート色がその白い肌に痕を付けていた。

「…何だそれは」
「あ、あのね、スーパー出てから直ぐに転んじゃったの…」

はあ、と吐き出された息は安堵の溜息なのか何なのか自分にもよくわからない。思わずがっくりと項垂れれば先程掻き上げた筈の前髪がはらりと額に掛かった。









「あ!い、痛いよ!露伴ちゃんもっと優しくしてよぉ!」
「うるさい、黙れ!手当してやってるだけ有り難いと思いなよな!」
「ううう…、痛いよぉ、沁みるよぉ」
「君は一体幾つだ?20歳だよな?ぼくと同い年なんだからな。それなのに何も無い所で派手に転ぶなんて今時小学生だってやらないぞ」
「ご、ごめんなさいぃ…」

眉毛を下げてしゅんとするなまえの膝にわざと傷薬を多めに塗り込めば、「ひゃあ!」なんて声と共に身体がびくりと跳ねた。これだけじゃまだ足りない。ぼくはなまえに何かあったのかと少なからず、し、心配していたと言うのに!最後にちょっとばかり乱暴に絆創膏を貼れば悲鳴交じりに小さな声で礼を言われた。


「いてて…。何でいつも転んじゃうんだろうなあ…」

絆創膏越しに傷口を摩るなまえを横目に傷薬や絆創膏、テーピングを救急箱に仕舞い込む。ただ単に君が危険予測の出来ない間抜けな人間だからそうやっていつも転ぶんだろ。鼻で笑ってから気付く。…いつも?

「おい、ぼくが君を手当するのはこれが初めてだぞ」
「うん、いつもはね、何て言ったっけ。あの変わった髪型の子がね、治してくれるの」
「変わった…?」
「偶然会う事が多くて「また転んだんすかぁ〜」って笑いながら治してくれるんだよ」

変わった髪型でその語尾を伸ばす教養の無さそうな喋り方。そして傷を治すその力。其処までの条件が揃えば頭の中に鮮明に一人の人物が思い浮かぶ。関わりたくも無ければ思い浮かぶ事すら腹立たしい。そしてそんなあいつが毎回なまえの怪我を治していたかと思うとそれだけで。

「…ぼくはそんな事知らなかったぞ。あいつにそんな借りを作るなんて事!」
「え、あ…、ご、ごめんね」
「良いか、あいつとはもう二度と口を利くな。わかったなッ!」
「で、でも…」

敢えて救急箱を大きな音を立てて戸棚にしまえばなまえは肩を震わせて何も言わなくなってしまった。うん、と頷かなかったなまえに対して沸々と苛立ちが生まれ始める。
何でなまえはああも間抜けで危機意識が無くて、何でなまえはああも簡単にあのクソッタレに気を許す?馬鹿じゃないのか全く…ッ!


その日なまえが作ったハンバーグには何故かぼくの分にだけ目玉焼きが付いていた。思わずなまえのと見比べれば此方を伺う視線に気付く。ぼくの苛立ちを感じ取って目玉焼きでご機嫌を取ろうって云うのか?子供じゃあるまいし。未だ収まらない苛立ちをぶつけるように箸を刺せばどろりと黄身が零れる。纏わり付く黄色の液体がまるで今のぼくの情念のようだと何処かで自嘲しながら肉の塊を口元へと運んだ。




「…露伴ちゃん、帰るね」

廊下からリビングを覗き込むようにしてなまえが口を開いたが返事はしなかった。ぱたぱたと足音がしてガチャリと玄関の扉が閉まる音がした。結局あれ以来ずっとなまえとは何の会話もしなかった。どうにもならない重い不快感に苛まれる。自分の中を渦巻くこの感情が何かだなんて、そんな物は知っている。ぼくだって子供じゃない。

なまえとは幼馴染で別に恋人でも何でも無い。真向かいのアパートに住んで毎日夕食を作りに来てはお互いの日常を話し、大学の授業が無い日なんかは朝から一緒に過ごす事もある。けれども彼女との関係は幼馴染以上にはならなかったのである。何故か。その理由も自分で一番わかっている。毎日「露伴ちゃん今日は何が食べたい?」と彼女は顔を見せたがきっと明日は来ないだろう。先程から全く内容が入って来ない本を閉じて天を仰いだ。





「露伴ちゃん今日は何が食べたい?」

予想に反してなまえは今日も大学の授業を終えた昼過ぎに顔を見せた。少々驚いたが相変わらずなまえは平和ボケ全開の顔でぼくの答えを待つ物だから「鰈の煮付け」と返せば昨日と同じく二つ返事をされた。



「買い物に行ってくるね」

そう言って踵を返したなまえからストラップに付いている鈴の音が聞こえる辺り、今日はちゃんと携帯電話を持っているらしい。なまえの姿が見えなくなった所で下唇をぎり、と噛み締めた。昨日からずっと重苦しくて鬱陶しい感情に苛まれている。弾かれるようにして立ち上がり玄関先へ向かえばなまえが出て行く瞬間であった。ぼくの気配に気付いた彼女が不思議そうにこちらを見つめる。

「どうしたの?何か欲しい物あった?」
「……ぼくもついて行く」








二人で並んで歩いている物のなまえとの間には少しばかりの距離がある。この距離を詰める事が出来ればその左手に触れる事も容易いだろう。たった少しだけの、指一本分の距離なのだ。昨日ぼくが巻いた左手小指の絆創膏を見ながらぼんやりと思う。

近いようで遠いというのはこういう事を指すのだろうか。だけどもぼくは近付く努力をまるでしていない。単なる甘えだと自分で自分を笑う。

なまえと恋人同士になりたいのかと問われるとそれはわからない。けれどぼくがなまえに固執しているのは事実だと思うし、それで行動を制限してしまいたいと思っているのもまた事実だ。恋人同士になればお互いの行動を規制し合う権利も生まれるだろうがぼくたちは幼馴染のままずっと何年間も過ごしてきた。もしも幼馴染という関係から変化があったとしてもそれが必ずしも良い方向への変化とは限らない。もしもこの関係が壊れる可能性がある変化なのであればそれはいっその事このまま何も変わらない方が幸せなのではないかと思う。

ぼくは自分で思う以上に臆病な人間だった。何かにつけて言い訳をして結局逃げているだけなのだ。



「うぐっ」
「あ、おいッ」

蛙の潰れたような声と共になまえがバランスを失う。反射的に彼女の左手を掴んで何とか堪えた物の昨日の今日で同じような事をするとはどれだけこいつは学習能力の無い人間なんだ。足元には障害物になるような物は何も無い。

「君は一体どうしたらそうなるんだよ…、馬鹿なのか?」
「考え事してたら足ががくんってなって…、ごめんってば…」

へへへと誤魔化す様に笑うなまえに呆れて何も言えない。何だってこんなになまえは馬鹿で間抜けでアホ面で、良くも悪くもマイペースで隙だらけで何でも直ぐに人を信用する単純な人間で。それなのに。



それなのにどうしてなまえの左手を握る右手がこんなに熱い?



「…露伴ちゃん…?」

いつまで経っても手を離さないぼくになまえが困惑した瞳を向ける。何でも無い、と気を付けろよ、と一言を添えて手を離してしまえばいつも通りの幼馴染のままだったかもしれない。

だけども。

身体全部が心臓になったかと思うぐらいに鼓動を大きく感じる。無駄に喉が渇いて代わりに握りしめた手が汗ばんで来ているような気がする。戻れない、と思った。この体温を知ってしまった。知らなければずっとこのままの関係でいられただろう。それ以上は望まなくても平気だっただろう。けれど知ってしまった、なまえに触れたこの熱さを。

なまえの見上げる視線を振り払うかのようにして再び前を向いて歩き出す。隣からは小さく戸惑いの声が聞こえるが握りしめられた手が振り払われる気配はまるで無い。

「なまえはこうでもしないと直ぐにまた転ぶだろうから、ほら君ってば学習能力が無いだろ?だから、これは、その、仕方なくだ。ぼくの前でまた怪我なんてされちゃあ迷惑で堪らないからな…ッ」

言えば言う程、顔面が羞恥で固まっていく。なまえの方なんて見る余裕も無い。自嘲する余裕すらも持ち合わせていない。

「……嫌なら振り解いて貰って構わない」

小さく呟けばなまえの手に力が込められた。思わず足を止めればぼくに負けないくらいの小さな声でぽつりとなまえが呟いた。

「…嫌じゃ、ない…」

消え失せそうな声は確実にぼくの耳元へと届き、そしてその言葉によりまた羞恥が込み上げる事となる。距離を埋めたら埋めたでこのザマだ。それでも恥ずかしくも歯痒くも感じるこの感情は案外悪くない。



結局その日はなまえの顔を直視する事が出来なかった。夕食の鰈の煮付けの味もあまり覚えていない。




20150627

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