同じ学校で同じ部活。それだけが彼女との共通点だった。特段親しい訳でも無いので会話らしい会話などした事も無い。一つ上の学年でクラスは確か普通科。それ以外の事はよく知らない。

馬鹿みたいに晴れ上がった陽が痛い。その陽を免れた所でこんな部室に空調設備なんて物は存在しないので暑さは然程変わらない。夏の独特の熱さがこの部屋に充満する油絵の具の匂いを増長させている気がする。それでもこの匂いは嫌いじゃない。それに、

キャンバスに向けていた視線を外して斜め前に座る彼女を見遣った。彼女と彼女が描く絵を見たくてぼくはわざとイーボルをこの位置に置いた。彼女の斜め後ろ、それがぼくの定位置。

そもそもどうしてぼくが彼女をこんなに気にかけているかというとそのキャンバスに広がる色に酷く感銘を受けたからだった。鮮やかな翠はぼくの心に焼き付けられ良い意味で衝撃を受けた。どうしたらこんな色を作り出す事が出来るのだろうか。混色に違いがあるのか、下塗りに違いがあるのか。本人に直接聞けば良かったのかもしれないが、その会話ですら煩わしかったぼくはこっそりと彼女の作業を盗み見る為に斜め後ろを定位置にし始めた。

そうやって何日もの間彼女の後ろでぼくは絵を描いたが見た限りで彼女は特別な事をしているようには見えなかった。ならば何故あの色はこんなにぼくの心を焦がすのだろうか。

後ろから向けられるぼくの視線になんて気付く事も無く彼女は黙々とキャンバスに色を乗せていた。少し動く度に後ろで一つに括られていた髪が揺れる。普段は隠れていたうなじが暑さのせいでぼくの目前に晒されていて思わず喉を鳴らしてしまった。焼けていない白い素肌と若干の後れ毛が妙に厭らしい。それでいて夏服独特の生地の薄さがその下に着ているキャミソールを透けさせていた。

其れに気付いてしまった瞬間に体温がぐっと上昇してしまった。顔が熱い。手に取る様に心拍数が上がるのがわかる。

ぼくは一体何を見ているんだ。元々は彼女の描く色を知りたくてこの位置で作業をし始めたのにこれじゃあまるで。窓の外ではアブラゼミがやかましく鳴いている。ぼくの邪心をあざ笑うかのような其れに耐えられなくなって思わず立ち上がった。他の部員数人がちらりとぼくの様子を見たが彼女は此方を見ない。コンクールまでまだ日にちはあるし今日はもう帰ろう。彼女を視界に入れない様にしてぼくは部室を後にした。



むせ返るような暑さが耐え難い。家についてからすぐに冷房のスイッチを入れる。独特の機械音が響き始めた中、そっと目を閉じれば瞼の裏に浮かんだのは彼女の後姿だった。もう一度鮮明に浮かび上がるあのうなじと薄く透けたキャミソール。たったそれだけでも10代の性を刺激するには充分な要素だった。

これだけ暑いと言っているのに自分で自分の体温を上げるなんて馬鹿らしいにも程がある。それでも手の動きを止める事など出来なかった。制服から着替える事も無いまま、自分で自分を慰めるぼくはどれだけ性欲に駆られているのだろうか。馬鹿みたいだと笑った所でこの快感には逆らえない。自分の右手が動く度に駆け上る快楽に耐えかねて吐息が零れた。

「あ…っ、は、あ…っ」

先走りも相まってにちにちと水音を立てている其処は限界が近い。薄く開いていた目をそっと閉じて彼女を思い描く。

「…っ、なまえ…っ」

名前を呼んだ瞬間にどくりと精が溢れた。白濁の液を手に浴びたままで身体から一気に力が抜ける。この行為の後の虚しさはいつもの事だが今回は尚更其れを酷く感じた。何ならそこに後悔という感情を付け加えても良い。そうやって何とも言えない居た堪れなさにどうしようもなくなって暫くぼくは後処理をする気になれなかった。


それからも何度か彼女を想って自慰行為に耽っては後悔をした。彼女の描くキャンバスを見る内に気付けば彼女自身を見てしまう自分に気付てしまったが、それでも彼女とぼくの関係性はただの同じ部活内での先輩と後輩にしかならない。ぼくが何らかの行動を起こす筈も無ければ都合よく彼女から接触をして来る訳も無いからだ。

そうして夏は過ぎ行き、ぼく達は夏休みを迎える。コンクールも終わり殆ど人が来る事の無くなった部室にぼくは訪れた。鍵は開いていたが其処には誰もいない。部室を占拠するように置かれた画材道具も今は片づけられているせいかやけに部室が広く感じる。

コンクールの提出物を出してから3年生は部活に来なくなった。勿論彼女も。進路のせいで部活どころでは無いのだろう。彼女は就職なのだろうか、それとも進学だろうか。そしてこの町に残るのだろうか、それとも。未だ置きっぱなしになっていた彼女の絵の具が入ったケースの蓋をそっと開けてみる。油絵の具の一層強い匂いが鼻を霞めた。やけに使われて小さくなった白色、殆ど使われなかった様子の黒色、そして緑色。少しだけ中身の残った其れを手に取って中身を出してみる。ただの緑色だ。ぼくが持っている絵の具と何ら変わらない。

結局彼女を見ていた割に肝心な事はわからなかった。どうしたらこの緑からあの色を作れるんだ。


「何してるの?」


はっと振り返れば少しだけ開いた扉の傍に彼女が立っていた。久しぶりに見たその顔に僅かな懐かしさを感じながらも直ぐにしまった、と思った。ぼくが手にしているのは彼女の絵の具だ。誰もいない部室で他人の絵の具を漁るなんて不審者以外の何者でも無い。必死に言い訳を考えている内に彼女がぼくへと近付く。

「それ…私の絵の具だよね」

下から見上げるようにぼくを見た彼女からは怒りの表情は見られない。その事実に少しの安堵を感じつつも結局ぼくは其れらしい言い訳を思い付く事が出来なかった。観念したように大きく溜息をついてから口を開く。

「…貴女の作り出す翠色が好きで、」
「みどり?」
「…どうやってあの色を作るのか知りたくて。…勝手に画材に触れた事は謝ります」
「…岸辺くんは翠色が好きなの?」

驚いた。まさか彼女がぼくの名前を知っているとは思わなかった。予想だにしなかった事に思わず顔が熱くなる。

「…割と好き、だけど…」
「私も翠色が好きなの。昔からよく身に着けてる色だし。私にとって特別な色だからそれが滲み出てたのかなあ」

あの色を作るのに特別な事は何もしてないよ、と彼女は笑う。後姿や作業中の真剣な横顔くらいしかまともに見た事が無かったぼくはその時に初めて彼女の笑顔を見る事になった。自分に向けられたその表情が妙に照れ臭くて思わず彼女から顔を逸らしてしまう。

「本当は絵の具を処分しようと思って来たんだけど、それ欲しいなら岸辺くんにあげる」

ぼくの隣を通り抜けて彼女は自分の画材を整理し始めた。その様子を見ているとどうやら殆どの画材は部室用に寄贈するらしい。その様を見て改めて彼女が居なくなってしまう事を実感してしまった。来年の今頃、彼女はここにはもう居ない。

「じゃ…、私もう帰るね」

彼女は再び扉の傍へ立ってぼくの方を見た。はい、と答える事しか出来ないぼくは今一体どんな顔をしているだろうか。じゃあ、と扉に手を掛けてから彼女がもう一度ぼくの方へ振り返った。

「…岸辺くん、翠色似合いそうだよね」
「…え、」
「ふふ、それじゃあばいばい」

そう言って彼女は帰ってしまった。最初で最後の彼女との会話だった。最初で最後の彼女がぼくに向けた笑顔だった。

あれから学校で擦れ違う事も無いまま彼女は卒業してしまった。結局どういう進路を取ったのかはぼくが知る由も無い。この町に住んでいるのか遠くに行ってしまったのかもわからない。

これを恋だと呼ぶには幼稚過ぎると君は笑うだろうか。あの時貰った絵の具を勿体無いと使えなかったぼくを君は笑うだろうか。



ぼくは未だにこの色に囚われていると言うのに、なまえ。




翠に染まる


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