鈍い音がした。続いて私の身体はそのまま床へと叩き付けられて思わず声が出た。「きゃあ」なんて可愛い声じゃなくて低い呻き声。それから頬に遅れてやってきたじんじんとする感覚でああ私は殴られたんだなと思った。


「家に帰りたい」


ずっとこういう生活を送ってきた癖に今になってどうして私はこういう事を口走ってしまったんだろう。案の定、彼は激昂した。蹲ったままの私を無理矢理仰向けにさせてから彼は私の上へと馬乗りになって、鼻先が触れ合うぐらいの距離まで顔を近付けた。彼のこんな表情を見たのは久しぶりかもしれない。

「家に帰りたい?君は何を言っている?なまえ、君の家は此処だ。それは散々教えたのにどうして今更またそんな事を言いだすんだ?そんなに此処にいるのが嫌か?そんなにぼくといるのが嫌なのか?そんなにあの男の元へ帰りたいのか!」

端正な顔立ちを歪めたままで彼の手が私の首をぎちぎちと締め上げる。苦しい、痛い、怖い。

「彼氏が出来た」

私がそう伝えた日に彼は彼で無くなってしまった。我儘で捻くれていて、だけども本当は優しい幼馴染のあの彼はもういないのだ。

あの日から私はずっとこの部屋に閉じ込められている。当然アパートには帰れないし、携帯電話も没収されて外部と連絡を取る事も出来ない。けれども案外生活は不自由では無かった。彼が身の回りの世話を全てしてくれたし、何なら新しい服も彼が買ってきてくれた。ただし、彼の機嫌を損ねるとこうして私は身をもって彼に躾けられる事になってしまう。

「ごめ、なさ…」

ひゅう、と喉元で空気が変な音を立てた。それでも途切れ途切れに私が謝ると彼は首に掛けた手を緩めて私を優しく抱き寄せた。

「なまえ、わかってくれたならそれでいい。なまえはずっとぼくと一緒だろ?なぁ?」
「…ん、露伴くんと、一緒にいるよ」

必死に私が呼吸をしながらそう言えば彼は私を抱き締めてからそっと頬を撫でた。口の中が鉄臭い。どうやら切れてしまったようだ。

「すまない、痛かったよな。赤くなっている」

散々私に躾けて、私が謝ると決まって彼は優しくなる。そしてその度に私は泣いてしまう。一体何の涙かは自分でもよくわからない。おかしいな、私はこんなに簡単に泣くような人間では無かった筈なのに。

「ああ、泣くなよなまえ」

困ったように笑って彼は子供をあやすように私に口付けた。その内にぬるりと彼の舌が侵入して歯列をなぞってから、私の舌へと絡み付く。舌が動く度に口内の切れた部分が痛む。暫くしてから彼は私から離れて頭をくしゃりと撫でた。

「口の中も切れているな。昼食を持って来たんだが…」

言いながら彼は皿に置かれた鶏肉を一口切ってから自らの口へと運んだ。何度か咀嚼を繰り返してから彼は私に口付ける。唇の間からさっきまで塊の鶏肉だった物が私の口内へと注がれた。きっとこれを飲み込まないと彼はまた私を躾けるに違いない。必死に私はそれを飲み込んだ。こくりと動く私の喉元を見て彼は嬉しそうに笑う。

「さあ次はどれを食べたい?遠慮はするなよ、ぼくが全部食べさせてやるから」

皿の上に置かれた食べ物はきっとこうやって雛鳥のようにして食べなければならないのだろう。正直、気持ちが悪いと思うが言う事を聞かなければまた痛い思いをする羽目になってしまう。成るべく咀嚼をしなくて済みそうなマッシュポテトを指差すと彼はまたそれを口元へと運んだ。そうしてまた私に口付ける。流れ込んできた物は最早何が何だかわからない。芋と彼の唾液とが混じって固形物ですら無い。どちらかと言うと彼の唾液のが比率が多い気がする。口の端から飲み込めなかったマッシュポテトがつう、と伝ったが結局それも彼が指ですくって私の口元へと運んだ。どうやら今日はこの食事スタイルから逃げ出せないようだ。





散々食事に時間をかけたせいでかなりお腹が苦しい。それでもちゃんと完食した私に彼は満足そうだった。皿を片づけてからまた彼は私の部屋を訪れた。それからずっと彼は私を抱き締めたままで撫でたり髪を梳いたりしている。時折される口付けがくすぐったい。

見れば彼の右手が少しだけ赤くなっていた。きっと私を殴った時にこうなってしまったのだろう。彼にとってこの右手は商売道具だと言うのに。私は優しく彼の右手を撫でた。

「何だ、もしかしてぼくの事を心配しているのか?」
「…だって、露伴くんの右手…。大事なのに…」
「…ぼくはなまえのそういう所が大好きなんだ」

言いながらまた彼は私に唇を寄せる。

「いつだってなまえはぼくの傍にいた。いつだってぼくの隣にいたのはなまえなんだよ。君以外の誰もぼくを理解出来ないし、理解されたくもない!そうやっていつも露伴くん、とぼくを心配してくれるなまえがぼくには必要なんだ。君だってそうだろ?なまえの隣にいるべきなのはこのぼくだ。ぼくじゃないと君だって嫌だろ?なまえの隣にぼく以外の男がいるなんて事悍ましくて考えたくもない!なまえはぼくの物、ぼくはなまえの物なんだよ、これから先ずっと。永遠に。」
「…露伴くん」
「だからなまえはずっとぼくと一緒だ。誰もそれは邪魔出来やしない。なあ、そうだろ?」

うん、と頷くと彼は一層強く私を抱き締めた。

どうしてこうなったのか、なんて今更考えてもどうにもなるまい。彼氏と言っても元々は同じゼミを受けていた同い年の男の子に一方的に想いを伝えられただけで私は彼に恋愛感情は抱いていなかった。それでも彼の好意を受け入れたのは私が彼氏という存在に憧れを持っていたからだった。何となく付き合ってみようかな、と思っての事だったのだがそれがどうしてこうなろうか。

そもそも一番理解出来ないのは自分自身の事であって当初はあんなに怖いとすら感じていた幼馴染のこの彼の存在が、最近では可愛いとすら思えてしまうのだ。勿論ぶたれれば痛いと思うし恐怖を感じる。けれどもそれは私がいけない事をしたから彼は躾をしたのだと思うようになってしまった。どうしようもない。

露伴くんは変わってしまった、と思っていたが果たしてそれはそうなのだろうか。もしかしたら元々彼はこういう人間だったのかもしれない。私が知らないだけで元々そういう一面を持っていて彼自身は何も変わっていないのかもしれない。

首筋に顔を埋める彼は母親に甘える小さな子供のようだと思う。頭を撫でれば泣きそうな声で彼は私の名前を呼んだ。

「なまえ、なまえ、なまえ、なまえ、なまえ…ッ」

それを見てやっぱり彼は私がいないと駄目なのかもしれない、と思った。小さな時から強がりばかり言う彼の弱い部分は私が全て受け止めなければ、とも。

「露伴くん」

名前を呼べば彼は顔を上げた。何とも情けない顔だがきっと彼がこんな顔をするのは私の前だけだろう。両手で頬をそっと包むとそのまま私は自分から彼の唇に自分のを重ねた。いつまで経っても子供のまんまで本当にどうしようもない人。

「あ…、なまえ…ッ」

彼は噛み付く様に私に口付けてから固いフローリングの床へと私を押し倒した。背中がごつごつして痛い。けれどもすぐに彼の骨ばった冷たい手が私の服の中へと入り込んで来て、そんな事はどうでも良くなってしまった。

きっと他人が見れば軽蔑するような愛の形だと思う。何なら愛とすら呼んでもらえないような気もする。それでも彼はこういう形で無いと私を愛せないと思うし、それでも構わないと思い始めている自分もいる。

ぽたぽたと彼の流す涙が肌に落ちて冷たい。静かに泣きながら彼は存在を確かめるように私を抱いた。ぎゅうと彼の身体に手を廻すと耳元でうわ言のように愛の言葉を囁かれた。

「なまえ、好きだ。好きなんだ…っ!愛しくて、堪らない。なまえ、なまえ…。ぼくは君を愛している…。どうしようも無いくらいに…っ」

私も、と小さく返せば遂に彼は声を上げて泣き始めてしまった。




人を愛すると云う事



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