朝から全力でロードバイクを漕いでいる私の頬を撫でるひんやりとした風はマスク越しでもしっかり寒さを感じてそろそろ外の空気を吸い込むのが辛い時期になってきた。
職場であるフラワーショップに着くと店内は既に明かりがついていて駐車場に止まっていたランドクルーザーを思い出す。あの人いつも誰よりも早く出勤しているよなぁ、なんてことを考えながら身支度を整えてバックヤードを出る。
「おはようございますミロク先輩」
「ああ、おはよう」
店長が仕入れたばかりの花の水揚げ作業をしている途中のミロク先輩は目線だけをこちらに向けて手元を動かしながら挨拶を返してくれる。
今日のフラワーアレンジメントの予約数を確認してから店内ディスプレイを整える。ミロク先輩はあんまり喋らないしぶっきらぼうだけど重い鉢なんかを積極的に持ってくれたり面倒なお客さんからさりげなく助けてくれたり優しい人だ。前にたまたまガッツリタトゥーが入ってるのを見てしまってから、実はやばい人なんじゃないかって震えていた時期もあったのは内緒だ。そしてタトゥーの件は今でも怖くて確かめられないでいる。そうこうしているうちに開店準備が終わり、慌ただしい一日が始まる────。
「こんばんは」
「ラクさん…!こんばんはっまたいらしてくださったんですね」
「みょうじさんは今日も元気いっぱいだね。君の笑顔を見ていると癒されるお客さんも大勢いるんだろうね。ミロクはいるかな?」
「ミロク先輩なら今休憩中で呼んできましょうか?」
「いや、大した用事はないからみょうじさんの手を煩わせてまでミロクの顔は見る必要はないよ」
そう言ってやわらかく微笑むラクさんは絵本から飛び出してきた王子様のようで自然と頬が熱くなる。今はお客さんが落ち着いている時間帯だからゆっくり話が出来そう、なんて浮ついた考えを見透かされたようにラクさんが鮮やかなクリスマスブッシュを眺めながら涼やかに言葉を紡ぐ。
「花束をお願いしたいんだけどいいかな」
「あっはい。えっと、どういう風な花束にしたましょうか」
「─そうだな。僕の奥さんは可愛い感じが好きだから少し早いけどクリスマスっぽさがあって大袈裟すぎない感じでお願いするよ」
ラクさんの口から『奥さん』の言葉が出てきて自分でもわかるくらい動揺してしまう。花を選ぶフリをして彼に背を向けてどうにか気付かれないように平静を装わなければ、彼はミロク先輩の知り合いらしくミロク先輩が働いているうちの店を贔屓にしてくれているけれどこの気持ちを知られてしまったらきっと彼は二度とこの店には来てくれなくなるだろう。彼が妻帯者だって事は最初からわかっていたのに、彼が愛妻家でこうして定期的に花束を贈るくらいに深く奥さんを愛していることも、わかっていたはずなのに────それなのに気付けば恋に落ちていた。柔らかな物腰も端正な顔立ちも何もかも完璧な彼の隣に並んでみたいと一度でいいからその手に触れられてみたいと思ってしまったのが、大きな間違いだってわかっているのに。
「それならクリスマスブッシュとかどうですか?今朝店長が仕入れてきたばかりでクリスマスって名前に入ってますけどクリスマスの時期にはもう出回ってなくて、今しか取り扱っていないちょっと貴重なお花なんですよ」
「綺麗だね。それじゃあクリスマスブッシュを中心に────」
花を選んでいるラクさんの横顔は本当に幸せそうで花を眺めながら花束の先にいる奥さんを見ているのがわかる。今、隣にいるのは私だけどラクさんが見ているのは彼の帰りを待っているであろう奥さんなのだ。
こうして私が一生懸命ラッピングした花束を彼から贈られて微笑む顔も知らない奥さんに嫉妬するなんて、どうしようもなく不毛で本当にバカみたいだ。
でも、それでも私は────。
「ありがとう。実は妻はみょうじさんの作った花束が一番好きみたいでね、とても喜んでくれるんだ」
奥さんのことを思い出したのか少し照れくさそうに微笑むラクさんは本当に幸せそうで、私みたいな小娘が入り込む隙間なんてないほど家族を愛していて、胸がぎゅっと締め付けられる。
「ありがとうございます。お客様にそう言っていただけて店員冥利に尽きますよ」
「また来るよ。手間をかけさせて悪いけれどミロクによろしく言っておいてくれるかな」
「はい。お気を付けて」
軽く微笑んでラクさんは花束を大事そうに抱えて店を去っていく。
彼には大事な家庭があって、護るべき愛する人がいて、彼の隣はもう埋まってしまっているのだ。その場所を後からやってきた私なんかが奪おうとするのが間違いなんだ。そんなことをしたらきっと誰よりも大切なラクさんを傷付けてしまうから。
でも────。少しだけ、もう少しだけラクさんを好きでいても、バチは当てないでね神様。
「みょうじ、次休憩入って…みょうじ?」
「いくらお客さんいないからってゆっくり休憩しすぎですよミロク先輩。あ、それとさっきラクさんが来てましたよ。ミロク先輩によろしくって言ってました。それじゃ私も休憩もらいますね」
「……みょうじ!」
「わっと、」
早くバックヤードに行きたかったのにミロク先輩に呼び止められて振り返ると彼はぽんっと何かを投げてきた。手の中に収まるいちごミルクのキャンディのミロク先輩に似つかわしくない可愛らしい包みに思わず笑ってしまう。
「先輩、意外と可愛らしい物が好きなんですね」
「俺が好きなわけじゃねぇよ」
からかわれて気恥しいのかミロク先輩に軽く睨まれる。────ああ、顔は怖いけれどやっぱり彼は優しい人だ。
いつかタトゥーの件を聞く勇気がわいたら訊ねてみようかななんて思いながらあまいあまいキャンディを口に放り込んだ。
ヒヤシンス(紫)︙初恋のひたむきさ、ごめんなさい
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