校舎の外れにある文化棟の一角は人がいるのにとても静かだ。他の部員が帰った後、いつも最後まで美術室に残っているのは私と凪くんのふたりだけ。並んでキャンバスに向き合っているこの時間が私はとても好きだ——。
 コンクールが近くなり出展する作品作りに没頭する部員が増えてもやはり最後まで残っているのは私と凪くんだった。それがなんだかおかしくて愛おしくてついつい頬が緩んでしまう。
「どうしたの?」
「なんでもない。ただの思い出し笑い」
 笑って答えれば凪くんは不思議そうに小首を傾げて、そう、と小さく微笑んだ。同級生と比べて凪くんは妙に達観しているところがあって誰に対しても物腰が柔らかで優しい人だ。絵の才能も同世代の中で頭ひとつ飛び抜けていて彼が描き出す世界に私はいつも圧倒されてしまう。そして時々同い年とは思えないくらい寂しそうな瞳をする。温かみのある彼の絵から寂寞の念を感じてしまうのはきっと気のせいなんかじゃなくて彼の内から滲み出るもので私には触れられないものだ。
「ねえ、お腹空かない?」
「ん?ああ、確かに言われてみれば…空いた、かも?」
「なにそれ。凪くん絵に集中すると空腹忘れるタイプだよね」
「……う、うるさいなぁ。いいでしょ、別に」
 ごめんごめん、と謝りながらこっそり持ってきていたお菓子をリュックから取り出して凪くんの方に向ける。
「お菓子の持ち込みは禁止だよ」
「バレなきゃいいのよ。校則なんて」
「ふふっ、悪い子だ」
「凪くんも食べたから共犯ね」
 お菓子を食べながら製作途中の凪くんの絵を見る。キャンバスには海が描かれている。凪くんの絵はやっぱり温かい。コンクール前はみんなどこかピリピリしていてキャンバスと向き合えば精神を削って息が詰まるのに凪くんとふたりきりなせいか不思議と嗅ぎなれたアクリル絵の具の匂いに包まれた美術室は穏やかに時間が過ぎていく。
 美術室の戸締りをして駅まで一緒に帰る途中、コンビニに寄らせてもらってお茶と肉まんを買った。用がないからとコンビニの外で待っていた凪くんとほかほかの肉まんを半分こして食べた。凪くんが右目に包帯をしている理由も悲しそうな瞳の理由もきっと私が知る日は来ないのだろう。
「あちち」
「ちょうど出来たてだったからねぇ。あっつあつだよ」
「先に言ってよー」
 はふはふ、と息を吹きかけて冷ましながら肉まんを食べている凪くんは小動物みたいで可愛い。おっちょこちょいなところも恥ずかしそうに笑う幼さが残る顔も全部が好きだ。君の隣にいるとたくさんたくさん絵を描きたくなる。ふと見上げた星空を真っ白なキャンバスに閉じ込めたいと思った。
 凪くんといると創作意欲がどんどん湧いてきて今までの創作活動が楽しくなかったわけでは決してないけれどこれが俗にいう好きな人ができると世界も違って見えるという現象なのかもしれない。コンクールは目前で早く作品を仕上げないといけないのにこの時間がいつまでも終わってほしくないな、と願いながら月明かりが照らす帰路を歩いた。
 その日は珍しく凪くんが遅れて部活にやってきた。理由を聞けば日直のペアの子が日誌を持ったまま部活にいってしまい、おまけに運動部だったため走り込みにいってしまった彼女を待っていて遅れたのだという。ペアの子のあまりのルーズさに頭にきたが凪くんはその子も大会が近いから他のことが目に入らなくなってるんだろうね、と穏やかに笑った。凪くんの優しい性格は好きだし良いところだと思う。けれど同時にその優しさに付け込まれて損をしていることに怒らないところが歯がゆくもある。都合よく優しさを消費されてどうして怒らないのか。
「凪くんは優しいね…。優しいっていうか人の事ばっかり優先しすぎっていうか…凪くんだってコンクール前で大事な時期なのに」
「僕の作品はもうほとんど仕上がってるし後は調整するだけだから。その子、陸上部が強い高校に進学希望みたいだしそういうとこ目指すなら大会の記録って大事でしょ」
「……それはそうだけどさ。はあ、私ちょっと凪くんが心配だよ」
 ふにゃりと笑う凪くんにほだされてしまって相方の子への怒りも凪くんへの憤りもどうでもよくなってしまう。やっぱり凪くんは人の事ばかりだ。凪くんのまだ途中のキャンバスを見ながら息を吐いた。
「凪くん」
 閉じられていた美術室のドアが控えめに開けられて見知らぬ女の子がひょっこり顔を覗かせた。肩口で切り揃えられた艶のある黒髪にぱっちり大きな瞳。不安そうに手遊びするわざとらしい小動物のような仕草に心がざわついた。
「……あ、あの、凪くん」
 どうやら凪くんの知り合いのようだが呼びかける声が小さすぎてキャンバスに集中している凪くんの耳に届いていないようだ。胸元の名札には「桐生院」と記されている。——桐生院アリ。そういえば彼女の噂話を耳にしたことがある。男子に媚びてチヤホヤされてる厄介な姫ポジの子。桐生院家といえば地元でも有名な裏稼業の一家だ。親にも関わるとろくな事がないから仲良くするなと言われて育った。どこの親も子に言うことは同じようで直接いじめられることはないけれど同時に彼女には友達がいない。噂話を全て鵜呑みにする気はないけれど直感でこの子とは仲良くできないと感じた。
 入ってくればいいのに入口で狼狽えている彼女はどうすればいいのかわからず俯いている。このまま絵に集中しているフリをして無視することもできる。
「凪くん、お客さんだよ」
「……え?お客さん?あれアリちゃんどうしたの?」
 耳元で名前を呼べば凪くんは自分の世界からこちらに戻ってきた。入口を指さして教えると凪くんは慌てて立ち上がった。
「今日ね、家庭科の授業でクッキー焼いたから凪くんに食べてほしくて。本当はもっと早く渡したかったんだけどタイミング逃しちゃって……」
「これを僕に?ありがとう。嬉しいよ」
 可愛くラッピングされたクッキーを受け取った凪くんは大事そうにそれを持って朝露を浴びて蕾を咲かせる花のように表情が綻ぶ。その顔を見た時、彼女が凪くんにとって大切な人なんだと理解した。いや、正確には理解させられたと言った方が正しい。
「凪くんも私も今コンクール迫ってて大事な時期なの。申し訳ないんだけどあなたがいると集中できないから他に用がないなら帰ってもらっていいかな?」
「え、あっ、ごっごめんなさい。凪くんも邪魔だったよね…」
 そんなにキツい言い方をしたわけじゃないのに大袈裟にオドオドと目を泳がせしょんぼりと肩を落としわかりやすく「私、いま怖がっています」アピールをする彼女にイラッとした。イライラするのは凪くんが次に言う言葉がわかっているからだ。
「そんなことないよ。コンクールが近いのは本当だけど僕らは好きで居残ってるだけだから」
「……で、でも私が邪魔しちゃってるのは本当だから」
 桐生院さんは俯いてしまって顔が見えないがどんな表情をしているのかは顔を見なくてもわかる。こういうところが男子は庇護欲を刺激されほっとけないのだろうな。この大事な時期に無駄な時間を使わせないでほしい。桐生院さんが大多数の女子から疎まれている理由がわかった気がする。
「……はあ。凪くんの絵が見たいならコンクールが終わってからゆっくり見学に来ればいいよ。あと一週間くらいで締切だから」
「ほっ本当…?また来てもいいの?」
「次来る時は大きめにノックしてね。キャンバスに集中してると人が来たことに気付きにくいから」
 ビクビクされ過ぎていたたまれなくなってそういえば桐生さんは嬉しそうに笑った。クッキーよかったらふたりで食べて、と言い残して去っていく桐生院さんを見送って再び凪くんとふたりの時間が訪れる。
「ありがとう」
「……別に」
 美術部で凪くんと一番仲がいいのは私だ。彼が見ている世界を理解できるのも切磋琢磨しながら同じ場所を目指せるのも彼女ではなく私だ。けれど凪くんにとって必要なのはきっとそういう人じゃなくて————。
 画商の目に止まり凪くんは在学中に異例の画家デビューが決まった。制作に集中するため凪くんは学校を休みがちになって美術室で最後まで居残るのは私だけになった。私は美術に力を入れている私立の高校に進み、凪くんは公立の高校に進んだ。それから血を吐くような努力をして美大に入り命を削りながら絵を描き続けた。私の人生には、世界には、絵を描くことしかなかった。
 

「この度は個展開催おめでとうございます」
「ありがとう。でも凪くんもいま個展中でしょ。スタンド花も贈ってくれたし忙しいんだからわざわざ来てくれなくてよかったのに」
 そう言えば凪くんは笑った。お互いに画家として成功したのは素直に喜ばしい。やっと凪くんに追いつけた気がする。軽く仕事の話をしていると昔のようにタイミングを逃した彼女が凪くんの背中からひよっこり出てきた。
「あ、あのこっこの度はおめでとうございます」
「……ふふ。ありがとう桐生院さん。あ、いまは東雲さんって呼んだ方がいいのかな?」
「えっ、なっなんで、あ、」
 慌てる彼女の薬指でキラリと輝くシルバーリング。そっと薬指を指させば彼女は恥ずかしそうに笑った。いま、凪くんが幸せそうで何よりだ。私はこれからも凪くんと同じ世界で生きていくし凪くんと切磋琢磨していけるのも私だけだ。
「本当におめでとう」
「ありがとう凪くん」
 凪くんが選んでくれた祝花は私が好きなひまわりをメインにした物だった。凪くんと出会えて本当によかった。これからもずっと色褪せることのない叶わなかった初恋を私は大事に大事にしていくのだろう。
 
——どうしてその絵、破いちゃったの?
——全然ダメだからだよ。こんな絵じゃ、コンクールで勝つなんて無理。納得のいく絵なんてもうずっと描けてない。私には才能なんてないんだよ。
——そうかな、僕は好きだよ。君が描く絵も、君の目に見えている世界も。だからそんな風に言わないで。
 
 凪くんと出会わなければ私はきっと今ここにいない。
「ありがとう、凪くん」
 私はようやく遠い在りし日の美術室の鍵を閉めることができた。
 
 

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