氷中落果
好いた人はいなかったんですか。

遥か昔に、そう、愛しい人に尋ねた。
望月が煌めき庭の鈴虫が囁くそんな浮世絵のような夜にその人はぼんやりと庭に咲いた綺麗なヒナゲシをまるで愛おしいものを見るように眺め、ちびりと猪口に入った焼酎で唇を濡らす。
顔は傷だらけだけれど、切れ長の目が和らぐと活動写真の俳優にも負けず劣らずのその人。
そんな人と一年前に祝言をあげたことは未だに夢か現か分からなくなる。

「……なんだよ、藪から棒に」

突然の問に彼はそのヒナゲシから視線を外して、こちらを見た。
菖蒲のような眼はお酒が入ったことでとろりと蕩けるように濡れている。ほんのり赤くなった目元も、がっしりとした首元も、はだけた胸元から覗く逞しい胸板も、女が惚ける要素が散りばめられたよう。
透き通る白銀の髪が煌めいてただただ美しいと思った。

「なんとなく、なんとなく……思ったんです」
「いねぇよ。そんなもんにうつつを抜かす暇もなかったからなァ」

アンタが初めてだ。
縁側でぽつんと零れた言葉に、喉から出かけた言葉をぐっと飲み込む。
抱擁をしたことも、愛を囁いたことも、手を繋いだことも、接吻を行ったことも、身体を繋げたことも、なにもかも、私が初めてだという。

私だって、初めてだ。
抱擁をしたことも、愛を囁いたことも、手を繋いだことも、接吻を行ったことも、身体を繋げたことも、なにもかも。
けれど、きっと貴方が恋を捧げてくれたのは私が初めてではないんでしょう。

街に繰り出した時、貴方が上背のある濡羽色の長い髪の女の人にその菖蒲の瞳を囚われていること、気づいているの。
誰を想っているのか、気づいていた。
言葉にはしない想いに甘えて、この頑丈に見えて、見掛けだけの薄氷のような足元はいつ壊れてもおかしくない。
彼女がまだ生きていたのなら、呆気なく亀裂が走り壊れる夢だ。
いや、そんな夢さえも視させてもらえない絵空事。

「好き」
「あァ」
「好きよ」
「知ってる」
「……実弥さんは」

目の上に貼る水の膜をお酒のせいにできるだろうか。目元を和らげる彼が指が欠損した右の手の平を私の頬に滑らせる。
水を拭うように数度撫ぜた。何度なぞってもキリがないから、そのまま首の裏に手を伸ばして彼の胸元に寄せられる。
胸いっぱいに広がる彼の匂いに息が止まりそうだった。いっそ、このまま死んでしまいたいと思った。
あの人はきっと天国にいるから、ふたりで一緒に地獄に行きたい。
私は貴方を殺して、人殺しとして地獄にいって。それから、貴方は嘘つきとして、じごくにいくの。

「愛してる」



「うそつき」

日向の暖かさに目を細めた。春の息吹に胸を躍らせる4月の陽気は、ゆっくりと薄氷を溶かして憐れな女を深い海の底に落とすの。
カーテンが揺れる窓の内側で、愛しいあの人が、愛していた人にキスをしていた。

ほら、実弥さんのうそつき。