シャムロックの手錠

2020/01/18
午後4時27分の血溜り‖昔々の、そのまた昔。或る獣がおりました。その獣は気付けばそこにいて、歩いておりました。獣は、名前もなければここが何処なのか、己がどう云う存在なのかも、何一つわかりませんでした。獣は歩いて、歩いて歩いて歩いて、歩き続けました。
ここは、何処だろう。
獣は立ち止まりました、考えました。けれど一向に答えは見つかりません。仕方がない、そう呟いてまた歩きだしました。ざくざく、雪の音だけが響きます。

その昔、或る少年がおりました。その少年は気付けばそこにおりました。なんだか随分長い間歩き続けていた気がしますが、何一つ思い出せません。ただなんとなく、夕暮れに照らされた身体は、ほんの少しの倦怠感を抱えておりました。はて、自分は誰だろう。少年は呟きましたが、もちろん答えなど返ってくるはずもありません。やがて少年は考えることをやめ、歩きだしました。さくさく、枯葉を踏む音だけが聞こえます。


神代の昔、とある国にこう云う古い言い伝えがありました。
――黄昏に山に入ると悍ましい化け物に連れていかれるぞ。その化け物を見たならば、もうお前の帰る道はない。もし、お前がお前の家へ帰りたいならば、沈黙の人形となるしか他は無い。そして、尋ねてはいけない言葉がある。
お前は誰だい、どこから来たんだい。
黄昏の化け物は立ち止まるだろう。そしてお前はそれが何かを知るだろう。それは自分で自分の問いにも答えられぬ化物。ゆえに、お前は黄昏になるのだ。

この言い伝えも、もうむかしむかしのお話なので誰も本当のことは知りません。本当に化け物などいるのでしょうか。ある人は嘲笑って言いました。そんなものいるはずが無い、私が見てきてやろう。ある人は黄昏に山に入ったっきり帰ってきませんでした。たまたま道に迷ったのかもしれない、うっかり山を越えて向こうの国に辿り着いてしまったのかもしれない、山桜を気に入ってそこに住むことにしたのかもしれない。誰もが口を揃えてそう言いました。
それ以来、その国の人が黄昏の山へ入ることはありませんでした。
どれが本当でどれが嘘で、化け物は本当なのか、嘘なのか。昔を語ってもわかる人などもうこの国には存在しませんから、真実はわかりません。本当のことを知る者は誰一人いませんが、今日もこの黄昏の山には、しばしば新緑を仰ぐ足音が聞こえています。



prev or next
top page