A happy ending that is common to you
双子の兄である柊が、ノアの箱舟の搭乗者に選ばれて――兄の彼女である弥生が落選したと知った時、一番最初に思ったことを正直に言うのなら『ざまあみろ』だった。

 政府から届いた書類は思っていたよりも簡素で、僕と柊、ふたりのうち柊だけが箱舟に搭乗する権利を得たことと、一か月後に政府の役人が迎えに来ること――そして、詳細は追って伝えるといった内容しか書いていなかった。母さんは手紙の内容を見て嘆いていたけれど、僕は「はあ、そんなものか」くらいの気持ちしかなくて、ただ隣の家に住んでいるバカな幼馴染が気がかりだった。
 弥生は選ばれただろうか。多分僕が選ばれなかったと知ったら、大泣きして、政府に抗議するだなんてバカみたいなことを言い出すだろう。どう宥めようか考えるだけでめんどくさい。「200万人の中のひとりだなんてそうそう選ばれるものじゃないし、落選したんだからしょうがないでしょ」……この言い方はだめだ、余計に泣きわめく。じゃあ「僕も死ぬまで楽しくやるから、兄さんとふたりでお幸せにね」? ……お幸せに、なんて吐き気がする言い回しだけど、まあしょうがない。別に僕は弥生に不幸せになってほしいなんて願ってないんだし(だからと言って兄さんとよろしくやってほしいなんて微塵も思ってないけど)最後くらい優しい言葉をかけてやろうか――そんなことを考えていた時、家のチャイムが鳴った。
 瞬間、母さんが慌てて玄関に飛んでいく。父さんが返ってくるのは随分先だから、今すぐにでも弥生のお母さんと話がしたかったんだろう。けれど、鍵を開けてドアを開けた時、そこに立っていたのは制服姿の弥生だけだった。
「おばさん」
 澄んだ声だった。弥生は、今まで僕が見たことのない表情をしていた。顔の色がびっくりするくらい悪いのに、瞳の持つ力はとても強くて、僕は一瞬呼吸の仕方を忘れるほどだった。まるで弥生の姿をした、別の人間が立っているみたいだった。
「柊と、涼は」
「……柊だけ、箱舟に」
 瞬間、弥生の顔が歪む。泣き出す寸前の子供のように、無防備な表情を浮かべた後、膝から崩れ落ちた。
 慌てて弥生の身体を支えると、そのまま二階にある兄さんの部屋へ弥生を運ぶ。気を失った弥生は、静かに涙を流していた。

 その後、弥生の後を追うようにやって来た彼女の母が告げたのは、弥生の落選だった。
 弥生に、ノアの箱舟へ搭乗する権利がない?
 僕の母さんと、弥生のお母さんが泣きながら何かを話していたけれど、僕の耳には聞こえなかった。僕は無言で二階に上がると、兄さんのベッドで眠り続けている弥生を見た。泣き続けているせいで目のふちが赤い。顔の色は相変わらず青白くて、普段の彼女からは想像できない弱弱しい姿に、僕は目を逸らしたくなる。
 双子の兄である柊は、これから滅んでいく地球を残して一か月後に此処を発つ。14光年先の、よく分かんない惑星へ、120年にも及ぶ旅に出る。その間、彼は宇宙船――ノアの箱舟の中で子孫を残し、人間という種を守る役割を担う。
 僕は、心の何処かで弥生もそうなのだと思っていた。弥生も、箱舟に乗って此処を去る。兄さんと結ばれて、ふたりの子供は新しい惑星で輝く未来を歩んでいくのだと、何処かで信じていた。
 僕は、兄の恋人である弥生がまさか僕と同じように選ばれないなんて――そんなこと、思ってもみなかった。だってあんたたちってびっくりするくらいテンプレートな、少女漫画に出てくるみたいなカップルだから。ああいう作品は必ずハッピーエンドだって相場が決まってるでしょう。僕はそういうの、大嫌いだけど。
 ため息をついて、ベッドの横に腰を下ろした。弥生の目から流れる涙を掬う。兄さんが部活から帰ってきて、抽選結果を知ったら、辞退する、なんて言いかねない。……まあ、そんなこといっても、抽選によって選ばれた人間は必ず搭乗することになってるから、どうあがいても無理なんだけど。
「……ざまあみろ」
 小さく呟く。ざまあみろ。いい気味だ――そう思って、自分の性格の悪さに笑ってしまった。でも、これくらい許してほしい。たとえ遠い星へ旅立っても、柊はきっと弥生の心を離さない。肉体を置き去りにしたって、兄さんは弥生の心――精神を攫って行ってしまうのだから。万が一にも僕にチャンスはない。そんなこと分かってる。分かってるから、これくらい言わせてくれ。ざまあないよ、柊。世界で一番大好きな女と、死ぬその瞬間まで一緒に居られないなんて、これ以上の不幸はない。僕は、弥生の愛を手に入れることはできないけど、彼女が死ぬまで傍にいることはできる。ざまあみろ、バーカ――ぶつぶつと呟いていると、いつの間にか眠っていた弥生が目を開けて此方を見ていた。驚いて少しだけ彼女と距離を置いたけれど、弥生は気にも留めていない様子で、ゆっくりと起き上がる。
「……どれくらい寝てた?」
「十五分くらい」
「そっか。……ごめん、涼」
 そう言って、弥生はぼんやり部屋を見つめた。上着や、サッカーボール、本棚……視線を移していくうちに、目に涙が溜まっていく。そして、ああ零れる、という時に「良かった」と呟いた。
「え?」
 僕が思わず声を上げると、弥生は柊のまくらを抱きしめて、もう一度「良かった」と呟いた。良かった……って、何が? 全然、なんにも、良くないでしょ。だって、あんたは此処に置いて行かれて、好きでもない僕、好きでもない世界と一緒に死んでいくしかないんだよ。思わず言いそうになって、下唇を噛むと、弥生が柔らかい笑みを浮かべた。
「……柊が、死なずにすんで良かった」
「な……」
 ――なんだよ、それ。
 そんなふうに、笑うのか。柊はこの先、誰かと結ばれて、子供を残して、生きていくのに。自分を置いて、遠い星へ行くことで生き続けるのに。自分が柊の中で『思い出』になってしまうのに、それでもあんたは笑えるのか。そんなふうに、優しく。
「……バカじゃないの」
 バカだバカだってずっと思ってたけど、本当に、バカなんじゃないの。気を失ってた時みたいに泣けばいいのに。なんでそんな、聖母みたいな顔して笑ってんだよ。ふざけんな。そう言えば、優しい笑みを浮かべた弥生が僕の手を握る。触んなよ、と言う声が掠れていて、僕が一番バカみたいだ、と思った。
「……泣かないでよ、涼」
「泣いてなんかない。ふたりそろってバカすぎて、嫌気がさしているだけ」
 俯くと、弥生が僕をそっと抱きしめる。びっくりするくらい暖かくて、僕は余計に嫌気がさした。柊は普段、こんなあったかくて柔らかいものを当然のように抱いてるのかよ。クソ。信じられない。リア充はみんな死ね。いや、やっぱり死ぬな。政府もなんでわざわざ弥生を落とすんだ。僕を落とすのは正しいとして、弥生はバカなだけで、きわめて善良な一般人だっていうのに。選べよ。選んでくれよ。……頼むから。
 僕はこれ以上みっともない顔を晒すまいと、弥生の肩に顔を押し付けると、強く目を瞑った。


 結局、弥生は一度も泣かなかった。喚き散らして「行かないで」って駄々をこねれば良かったのに「身体に気を付けてね」なんて綺麗な笑顔で柊を送り出した。柊も柊で「お前もな」とか大人びた顔でいうんだから、憎たらしい。
 あれからもう五年がたって、当時17歳だった僕と弥生は、今年で大学を卒業する歳になった。隕石の影響で地球のあちこちに異変が起こっているけれど、それほど日常に差し障りはなく、平凡な毎日が続いていた。
 渡航時は頻繁に届いていた柊からのメールも、最近は年に一度くればいいというペースになっていた。柊からのメールが届くたびに、地球からの距離を感じて、不思議な気持ちになる。地球は僕たちが三十を迎える前に滅びるわけだけれど、考えてみれば柊たちは生涯宇宙船――ノアの中で一生を過ごすわけだ。ノアの中は広く、さまざまな技術が施されていると言っていたが、大きい箱庭の中での暮らしは楽ではないだろう。
「元気かな、柊」
 そう呟くと、隣を歩いていた弥生がマフラーを巻き直しながら「身体は丈夫なほうだったし、大丈夫じゃない」と言う。
「ね、今日の夜ご飯何にする?」
「なんでもいい。簡単に食べられるもの」
「また研究の続き?」
「卒論が終わってる人は余裕ですね」
「涼だって終わってるくせに。……それに、院すすむって決めたのは自分でしょ」
「はあ、まあ、そうですけど。……ってかおばさんから聞いたけど、こっちで就職するって本当? 地元に帰るんだと思ってたのに」
「うん。流石に隕石が落ちる前の年には帰ろうと思ってるけどね。涼だってこっち居るんでしょ」
「院は大学の敷地内にあるんで、そうなりますね」
「だよね。……だから私も此処にいるよ」
 思わず足を止めると、弥生が振り向く。「どうしたの?」と聞かれて「……あのさ」と切り出した。
「四年間、ご飯作ってくれたりとか、倒れた時に様子見に来てくれたりとか、世話焼いてくれてありがとう」
 顔を逸らしたい気持ちをぐっと我慢して言うと、弥生がぎょっとした表情を浮かべる。
「何……急に……涼、変なモノ食べた?」
「良いから聞いて。……いろいろ感謝してる、けど……僕はもう大丈夫だから、弥生は弥生の好きなことやりなよ」
 別に、幼馴染だっていうだけで僕に縛られる必要はない。そう告げれば、弥生の眉がぎゅっと寄った。不機嫌そうな視線を向けられる。
「……ねえ、それ本気で言ってる?」
 私が、ただの善意でずっと接してきたと思ってるの、と言われて目を丸くする。
「違うの?」
「……違うに決まってるでしょ。そんなんでわざわざ北海道まで追いかけてきたりしない」
 弥生が言っていることが分からなくて、僕は何も言えなくなってしまう。そんな言い方をしたら、まるで弥生が僕のこと好きみたいじゃないか。
「好きだよ」
 ……いやいや、有り得ない。だって、弥生はずっと柊のことが――。
「もうあれから五年だよ? ……とっくに別れたよ。柊も向こうで新しい彼女がいるって言ってたし。聞いてなかった?」
 何それ、聞いてないんだけど。あいつ弥生を差し置いて何新しい彼女とか作って人生エンジョイしちゃってんの? やっぱり一発殴っとけば良かった。リア充はみんな死ね。
「……じゃあ涼はリア充になる気はないんだ」
 急に手を握られて、弥生と目が合う。いつの間にか綿のような雪が降ってきていて、弥生のまつ毛に積もっては、ゆっくりと水になっていた。それがあの日の涙のように透明で、思わず見とれてしまう。……って、そうじゃなくて。
「僕みたいな童貞からかって遊ぼうっていうんじゃないよね」
「同じく処女なので、からかえる立場でもないですね」
「へーそうなんだ。柊に操を立ててるとかじゃ……」
「涼って結構バカだよね」
 ば、バカ……世界で一番バカな弥生にそんなこと言われる日がくるなんて思ってもみなかった。ショックを受けていると、弥生が僕の頭に積もっている雪を払う。
「……涼、柊と入れ替わって船に乗ろうとしたんでしょ」
 ハッと息を飲んで、視線を逸らすと、弥生が僕の頬を両手でつかんで、自分のほうに向けた。弥生の目に、気まずそうな顔をした自分が写っていて、余計に気まずくなる。
「本当にバカ。……バレたらどうなるか分からない涼じゃないでしょう」
「……黙ってれば姿かたちは瓜二つなんだ。僕たちのことを見分けられるのは家族と弥生しかいない。みんなが黙っててくれればできると思った」
「無理だよ。社交的な柊ならまだしも、涼に宇宙船で知らない人たちと一生過ごすなんてできるわけない」
「……言ってくれるじゃん」
 何、喧嘩うってるわけ、と言おうとして「でも、そういう優しいところが好き」と言われてしまえば、何も言えなくなってしまう。
「……本当にからかってるわけじゃないんだよね」
「さっきからそう言ってるでしょ」
「僕、性格悪いし、頭がイイだけで他に取り得ないよ」
「知ってる。でも好きだよ」
 だから、地球が滅びるまで一生に居よう、と弥生が僕を抱きしめる。本当、なんなの、これ。こんなの、まるでハッピーエンドじゃん。ベッタベタで捻りも何もないラブストーリーだ。全然面白くない――だけど。だけど、間違いなく今この瞬間、世界で一番幸せなのはこの僕だった。正直、今すぐに地球なんて滅びてもらってもいい。今研究してる内容だって、どうにかして弥生だけでも柊のところに行かせられないかって考えてる中、生まれたものだ。……だから、弥生がもう柊のところに行かなくていい、僕のそばにずっといるっていうんだったら、どうでもいい。
 雪がどんどん大粒になって、頭の上に降り積もっている。けれど、全然寒くなかった。ずっと、ずっと欲しいと思っていたあの日のあたたかな温度が――一生手に入らないと思っていた存在が此処にある。それだけで十分だった。
 ざまあみろ、と今どのへんに居るか分からない双子の片割れに笑ってみる。ざまあみろ。世界で一番大好きな女から、愛をもらえるなんて、これ以上の幸福はない。ま、僕たちは僕たちでハッピーエンドを迎えるから――だから、せいぜい兄さんも幸せになってよね。
 僕はどんなに我慢してもにやけてしまう顔を晒すまいと、弥生の肩に顔を押し付けると、強く目を瞑った。