死にたかったわけじゃないけど、生きていたくなかった17歳のあたしは、とうに今のあたしに踏みつけにされて殺されてしまったのだと知った。
何もかもが、本当に何もかも遅くて、あたしは生死の境にいられたあの頃を懐かしく思う自分に吐き気がした。いつの間にか16だったあたしは17まで生き延びて、17を飛び越えて18を生きて、19の頃はよく記憶にない。ただひたすらに20でも10代でもないような中途半端な感覚の中で、世界の音から耳をふさいでいた。
幼いころよりもずっと許せないことが増えて、それを豊かになったと言えば聞こえがよすぎる。はがれかけたマニキュアを見つめながら、だらしない部屋着で前髪をあげてキーボードを打っているあたしになりたかったわけじゃないのに、あたしはあたしをどこかで許し続けていた。それが多分あたしの救いで、大いなる罪だ。
神様になりたかったんです、といったのは誰だったっけ。
今の今まで忘れていたけれど、一度思い出せば鮮明に思い出せる。
雨がざんざんと降っていた夏の終わりの秋の始まりの頃だった。ぐしゃぐしゃにされている校庭を見ながらフミヤが言った。ハナツ・フミヤ。芸術家みたいな名前だねって褒めたあたしに、彼女ははじめていわれたよって照れくさそうに笑っていた。フミヤ、なんて男の子みたいじゃない。彼女の問いに、あたしはそうだねとだけ返した。でしょう、という彼女の表情が読めなくて、コンプレックスにふれたのかと少し落ち着かない気持ちでいたら「だからすきなんだ」と笑った。それがフミヤとあたしが友達になるきっかけだった――と思う。厳密にはわからないけど。
神様になりたかったんだよね。
神様になりたかったんだ。
……神様ってなんだよ?
あたしはフミヤの言ってることが分からなくて、世界であたしたちだけ取り残されたみたいな教室の薄灰色の中でマニキュアを塗っていた。コンビニで買った小さめの赤いマニキュア。つけてがっこうにくればいいのに、あたしはそれができなかった。先生に何か言われるのが嫌だった。臆病だったわけじゃない。ただ、あたしの小さな楽しみをさらしたくなかったのだ。……やっぱり、臆病だったのかもしれない。左手の小指から丁寧に塗り続けているときも、フミヤはあたしをみなかった。ただ校庭の世界の終わりみたいな風景を見つめながら「神様になりたい」と繰り返していた。
左手の爪を塗り終わったあたりで、フミヤが急にあたしの隣の席に座った。俯いてばかりだったあたしは椅子の音にびっくりして、人差し指の第一関節のあたりに赤い歪な水玉を描いてしまった。あたしはフミヤを睨んだけれど、フミヤは謝ってくれなかった。ただ小さな赤いボトルをあたしの手から奪って、ふたを数回瓶の口に付ける動作をすると、あたしの右手を掴んで、中指の真ん中から線を引き始める。
「綺麗な形だね」
突然爪の形を褒められて、あたしは何も言えなくなってしまう。フミヤの手はびっくりするほど冷たかった。彼女はあっという間にマニキュアを塗り終わると、小さい瓶にふたをして、そのまま立ち上がった。
「それ、乾いたら帰ろうか」
うん、とあたしは静かに頷く。フミヤはまた窓辺に立って、校庭を見つめ続けている。
「海になればいいのに」
そういったきり、あとはもう何も話さなかった。赤く塗られたマニキュアだけが、モノクロの教室で唯一の極彩色だった。
ねえフミヤ、本当は神様になりたかったわけじゃないんでしょ。
あの日の雨音を思い出しながら、あたしはキーボードを打ち続ける。ねえフミヤ。神様になりたかったんじゃなくて、君はきっと死にたかったんだ。
だって人間は、神様なんてなれやしないんだから。
死にたかったわけじゃなくて、生きていたくなかった17のあたしを殺して、あたしは死にたいけど生きていたい夢の中で生きている。
フミヤが今どこにいるのかは分からない。高校を卒業して別々の大学に進んでから、一度だけ手紙を交わしただけで、あとは連絡をとっていなかった。昔のメールアドレスではもう届かないだろうし、SNSを探す気にはなれなかった。ただ彼女が神様じゃなくてフミヤでいてくれることだけを願いながら、あたしはコンビニで買った安っぽいお茶を一気に飲み干した。
何故だか少しだけ泣きたい気持ちになって、あたしは自分の安っぽさに少しだけ笑ってしまった。パソコンを閉じて、鞄に入れっぱなしのお財布を取り出すと、家を出た。
あたしはあたしの爪に、赤のマニキュアを塗ることができる。右手を塗るのは、きっとあなたよりへたくそだろう。でも、あなたが褒めてくれた爪の形は何年たっても多分大して変わってない。
外に出ると、ぽつぽつと雨が降っていた。車のライトのまぶしさに、少しだけ目を細める。
今日もまた、神様じゃないあたしたちに夜が来る。
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